“日本最大の海賊”の本拠地:芸予諸島-よみがえる村上海賊“Murakami KAIZOKU”の記憶-STORY #036

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芸予諸島 芸予諸島 芸予諸島
椋浦の法楽おどり 椋浦の法楽おどり 椋浦の法楽おどり
水軍レース 水軍レース 水軍レース
因島水軍まつり(火まつり) 因島水軍まつり(火まつり) 因島水軍まつり(火まつり)
能島城跡 能島城跡 能島城跡
高見山夕景 高見山夕景 高見山夕景

ストーリーSTORY

戦国時代、宣教師ルイス・フロイスをして
"日本最大の海賊"と言わしめた
「村上海賊」"Murakami KAIZOKU"。
理不尽に船を襲い、金品を略奪する
「海賊」(パイレーツ)とは対照的に、
村上海賊は掟に従って航海の安全を保障し、
瀬戸内海の交易・流通の秩序を支える
海上活動を生業とした。
その本拠地「芸予諸島」には、
活動拠点として築いた「海城」群など、
海賊たちの記憶が色濃く残っている。
尾道・今治をつなぐ芸予諸島をゆけば、
急流が渦巻くこの地の利を活かし、
中世の瀬戸内海航路を支配した
村上海賊の生きた姿を現代において体感できる。

瀬戸内海航路を掌握した「村上海賊」

1586年、堺を出港し、瀬戸内海を西へ航海していた宣教師ルイス・フロイスは、芸予諸島のある島に近づいた時のことを次のように記している。「その島には日本最大の海賊が住んでおり、そこに大きい城を構え、多数の部下や地所や船舶を有し」、「強大な勢力を有していた」(『完訳フロイス日本史』)、と。フロイスをして「日本最大」と言わしめた海賊。それが「村上海賊」である。
瀬戸内海を東西に分断するかのように、島々が南北に密集して連なる「芸予諸島」。一見、穏やかに見える海況だが、狭い海峡(瀬戸)にいざ船を進めると、大潮時には高低差3m以上にもなる潮の満ち干きや、最大10ノット(時速約18km)の潮流が容赦なく襲う。古来より航海者を悩ませてきた海の難所である。「船に乗るより潮に乗れ」。この地域に古くから受け継がれる漁師たちの言葉がそれを物語る。

村上海賊の海城・能島城と周囲の潮流(愛媛県今治市) 撮影者:添畑薫氏 村上海賊の海城・能島城と周囲の潮流(愛媛県今治市) 撮影者:添畑薫氏

村上海賊は、このような芸予諸島の因島(広島県尾道市)、能島(愛媛県今治市)、来島(同)に本拠をおいた三家からなる。同じ村上姓を名乗る三家は強い同族意識を持ち、それぞれの領内に多くの「海城」を築いた。フロイスが見た「大きい城」は、これらの海城である。
因島村上氏は余崎城、美可崎城、長崎城、青木城など、沿岸部に海城を築き、安芸・備後国の陸地部に沿った航路(安芸地乗り)を押さえた。能島村上氏は能島城を中心に芸予諸島の中央を通過する最短航路(沖乗り)を、来島村上氏は来島城を中心に四国側の航路(伊予地乗り)を押さえ、三家が連携をして芸予諸島の全域を掌握した。

多くの海城の岩礁には、高低差のある潮の満ち引きに影響されず、いつでも船が係留できるように、陸から海に向かって柱が立ち並んでいた。また海岸部を埋め立てて平坦面を造成し、荷揚げや海産物の加工場、造船や修理場に利用されていた。海城には海賊たちが住み込み、海戦に備える一方で、そこを拠点として多様な海上活動に従事したのである。さらに能島城や来島城などは、その対岸に「水場」と呼ばれる海城に水や物資を供給する場を持ち、その一帯を城下町として生活の本拠としていた。航路に面した前線の活動基地である「海城」と、その対岸にある集落が一体となって、村上海賊の本拠地が形成された。南北に連なる芸予諸島の地の利を最大限に活かし、「海城」を航路の要衝に配置することで「海の関所」とし、瀬戸内海の東西交通を支配したのである。

全盛期における村上海賊の海上活動

一般に「海賊」と聞いて思い浮かぶのは、理不尽に船を襲い金品を奪う無法者の姿。いわゆる「パイレーツ」であろう。しかし村上海賊の海上活動の実態を正しく紐解けば、決して悪者ではなく、むしろ瀬戸内海交通の秩序を支える上で不可欠な存在であったことがわかる。

村上海賊が歴史上に姿を現したのは南北朝時代である。1349年には「野嶋」(能島村上氏)の名が見られ、東寺領の荘園であった弓削島に入る幕府の船を警固する役割を持った勢力として登場した。この頃には海上の小勢力の一つに過ぎなかったが、やがて因島村上氏が遣明船の警固を守護大名から命じられるなど、村上三家は陸の勢力との結束を固め、芸予諸島を本拠に瀬戸内海の主要な航路や港を掌握する一大勢力へと成長した。

戦国時代、村上海賊が活躍した海戦は枚挙に暇がないが、その代表的な海戦として、村上三家が連携をして織田信長方の船団に勝利をおさめた第一次木津川口合戦がある。中国地方の大名・毛利輝元は、室町幕府最後の将軍・足利義昭の命を受けて、信長と対峙する石山本願寺へ兵糧を運び込もうとする。毛利軍の主力であった村上海賊は、海の難所で培われた巧みな操船技術で敵を取り囲み、「ほうろく火矢」という火薬を用いた武器を用いて信長方を撃破し、無事に兵糧を運び入れることに成功した。この合戦で海賊の力を知った信長や羽柴秀吉は、海賊を味方につけ瀬戸内海の制海権を握るべく、懐柔作戦を展開する。村上海賊の存在は、天下人や陸の大名の動向をも左右したのである。
一方、平時には芸予諸島の海城を拠点に様々な海上活動を展開した。その一つが「海の安全保障」である。

芸予諸島に近づいたフロイス一行は、海賊に襲われる危険を回避し、航海の安全をはかるため、「署名」によって瀬戸内海を自由に通行できるよう、村上海賊に好意ある寛大な処遇を求めた。すると村上海賊は、「怪しい船に出会った時にみせるがよい」(『完訳フロイス日本史』)と言い、紋章が入った絹の旗と署名を渡した。フロイスらが手にしたこの旗が後に「過所船旗」と呼ばれる通行許可証である。村上海賊はこの旗を配布し、あるいは海賊を船に乗せて水先案内を行うことで、津々浦々に潜む他の海賊や航路の難所から船を守り、その対価として通行料を徴収した。海の難所であるからこそ、この掟は重視され、大名や商人の船はこれに従うことで航海の安全が保障されたのである。この通行料を徴収する海の関所を「札浦」と言うが、芸予諸島を基点として、全盛期には九州北部から畿内における航路の要港に「札浦」が設けられるほどに勢力を拡大した。

また海の安全保障者のほかに「商人」の顔も垣間見ることができる。能島城の目と鼻の先にある見近島は、商品である中国産の貿易陶磁器や備前焼を一時的に保管する物流の基地であった。村上海賊が物資流通に関与することにより、その本拠地である芸予諸島には国内外の高級な品々や優雅な文化がもたらされたのである。

村上海賊の生活・文化

とかく猛々しいイメージで語られる海賊であるが、大名と同じように、優雅に茶や香をたしなむ「文化人」でもあった。また高い文学の教養を持っており、それを知るものとして、大山祇神社(今治市大三島)に奉納された「法楽連歌」がある。神の島と呼ばれる大三島に鎮座する大山祇神社は、その歴史は古代にさかのぼり、日本総鎮守、伊予国の一宮とされ、武功や海上交通の安全を守る神として海賊たちの信仰を集めた。このような由緒のある神社で、村上海賊の武将たちは自らの思いを詠み連ね、それを奉納することで武運を祈願したのである。因島では、武運を祈り、戦勝を祝って踊ったとされる「椋浦の法楽踊り」が現代に伝わっている。

さらに村上海賊には「漁業者」としての顔もあった。瀬戸内海の新鮮な魚介類を獲り、時には、それをお歳暮として陸の大名に送り届けた。芸予諸島で食される海鮮料理「法楽焼」や「水軍鍋」は、村上海賊時代から伝わる郷土料理とされており、豪快に盛られた海の幸に、海賊たちの食文化を垣間見ることができる。

このように、村上海賊が築いた海城群、海賊たちが崇めた寺社、伝統を受け継ぐ海の文化は、現在もこの地域に色濃く残っている。尾道・今治をつなぐ現在の芸予諸島をゆけば、瀬戸内海随一の美しい多島海とともに、中世の瀬戸内海航路を支配し、“日本最大の海賊”と称された村上海賊の記憶をたどることができる。
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