一輪の綿花から始まる倉敷物語~和と洋が織りなす繊維のまち~STORY #049

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トワイライトタイムの倉敷美観地区 トワイライトタイムの倉敷美観地区 トワイライトタイムの倉敷美観地区
旧大原家住宅と大原美術館 旧大原家住宅と大原美術館 旧大原家住宅と大原美術館
国産ジーンズ発祥の地・児島 国産ジーンズ発祥の地・児島 国産ジーンズ発祥の地・児島
倉敷川畔の町並み(くらしき川舟流し) 倉敷川畔の町並み(くらしき川舟流し) 倉敷川畔の町並み(くらしき川舟流し)
倉敷川畔伝統的建造物群保存地区 倉敷川畔伝統的建造物群保存地区 倉敷川畔伝統的建造物群保存地区
倉敷アイビースクエア(旧倉敷紡績所倉敷本社工場) 倉敷アイビースクエア(旧倉敷紡績所倉敷本社工場) 倉敷アイビースクエア(旧倉敷紡績所倉敷本社工場)

ストーリーSTORY

400年前まで倉敷周辺は一面の海だった。
近世からの干拓は人々の暮らしの場を広げ,
そこで栽培された綿やイ草は足袋や花莚などの織物生産を支えた。
明治以降,西欧の技術を取り入れて開花した繊維産業は
「和」の伝統と「洋」の技術を融合させながら発展を続け,
現在,倉敷は年間出荷額日本一の「繊維のまち」となっている。
倉敷では広大な干拓地の富を背景に生まれた江戸期の白壁商家群の中に,
近代以降,紡績により町を牽引した人々が建てた洋風建築が
発展のシンボルとして風景にアクセントを加え,
訪れる人々を魅了している。

はじまりは,一輪の綿花

倉敷市が位置する岡山県の南部一帯は,かつては「吉備の穴海」と呼ばれ,大小の島々が点在する一面の海だった。その広大な浅海は高梁川の沖積作用で徐々に浅くなり,近世以降の干拓によって陸地に姿を変えていった。干拓されたばかりの土地は塩分が多く,米作りには向かない。そこで塩に強い綿やイ草が栽培され,本市の繊維産業の礎が築かれたのである。始まりは干拓地に植えられた一輪の綿花だった。

現在は,近世に造られた水門や,近代の高梁川改修事業によって建設された国内最大級の現役樋門である「高梁川東西用水取配水施設」などにより,その干拓地へ豊富な水が供給され,倉敷市域繁栄へとつながっている。

綿花産業の富が育んだ天領倉敷

倉敷は寛永19年(1642)に幕府直轄地,いわゆる「天領」となって以降は,周辺の直轄領を支配する政治の中心地であると同時に,備中南部の物資集散の中継地として発展した。特に江戸中期以降,干拓地で綿やイ草などの換金作物が盛んに生産されるようになる。その様子は江戸後期の紀行文にも「見渡す所の田地に,過半は綿を植えたり」と記されるなど,付近の干拓地一面に綿畑が広がっていたことがうかがえる。

川沿いの荷揚げ場や常夜灯 川沿いの荷揚げ場や常夜灯

運河として利用された倉敷川の周辺は綿などを扱う問屋や仲買人で賑わい,成功した商人たちは豪壮な屋敷を建てその富を誇った。現在も倉敷川沿いには,川港の繁栄を物語る当時の荷揚げ場や路地の石畳,常夜灯などが残り,綿花産業の富を象徴する白壁の商家の建物が軒を連ねている。その質実で無駄のないデザインは,重厚さの中にも明るさを備え,往時の商人たちの活躍を今に伝える。
綿の集荷の中心であった倉敷や玉島,由加門前町で土産物としてもてはやされた真田紐や小倉織を生産した児島は地域の繊維産業発展の基盤であった。港町では綿作の肥料となる干鰯やニシン粕が買われ,原綿,くり綿が出荷された。玉島港の記録によると,売り買いされる商品の実に9割が綿関係で占められるほどであったという。この「備中綿」こそ倉敷地方に富をもたらした源だったのである。

伝統の技が生んだ繊維産業

明治時代になると,政府は殖産興業のもと,外国産の綿糸に対抗するために民間紡績業の育成を奨励した。倉敷では国内最初の民間紡績所である下村紡績(倉敷市児島),玉島紡績(倉敷市玉島)が明治14年(1881)に開業。続いて明治22年(1889)にはイギリス式の最新の機械と工場施設を備えた倉敷紡績所(現クラボウ)が倉敷代官所跡に創設されるなど,繊維産業の隆盛は地域の発展に寄与することになる。

綿と並んでイ草も干拓地を中心に江戸時代から盛んに栽培されていたが,明治に入ると,磯崎眠亀が明治11年(1878)に精緻な文様を織り込んだ高級花莚である錦莞莚を発明,3年後には輸出を開始した。それに刺激されてさまざまな製品が考案され,北米や中国を市場とした重要輸出品目にまで成長し,全国一の花莚産地になった。

また,伝統産業として育まれた織りや縫製の技術は,足袋,学生服,作業着などの多彩な衣料品製造へと展開した。特に大正以降,服装の洋風化によって,学生服が急速に市場に浸透,紡績~撚糸~織物~染色~縫製という一貫生産体制によって,昭和初期には全国の学生服の9割を児島産が占めた。戦後にはそうした縫製の技術を活かし国内初のジーンズを販売。児島は「国産ジーンズ発祥の地」と言われるようになり,その加工技術は世界のジーンズ産業に大きな影響を与えている。

このように倉敷の繊維産業は江戸期以来の伝統産業に最新技術を織り合わせながら発展を続け,現在では繊維製品出荷額国内第1位を誇る「日本一の繊維のまち」となったのである。

伝統を守りながら発展を続けるまちへ

倉敷の町では江戸期以来,干拓地からの収入を背景に,有力町衆の自治のもとで,「屏風祭」や秋祭りの「素隠居」,瀬戸内の魚介と旬の野菜類を鮮やかに盛りつけた「ばらずし」など,個性豊かな文化が育まれてきた。

明治以降,文明開化により紡績の産業城下町に生まれ変わった倉敷では倉敷紡績所が国内有数の紡績会社へと成長し,社長を務めた大原孫三郎は紡績業で得た富をもとに文化事業,社会事業,福祉事業などに取り組んだ。この中で,民芸運動への支援や農業研究所の設立など幅広い事業が展開され,現代につながる文化的な基礎が築かれるとともに,赤レンガの倉敷紡績所,ギリシャ神殿風の大原美術館をはじめとする多くの洋風建築が残された。これらはその時代,時代で,デザインと質の良さを追及して建てられており,江戸期の商家群の中にあって,当時の紡績業の隆盛を伝えるシンボルとして風景のアクセントになり,町の魅力を一層高めている。

戦後には孫三郎の長男で倉敷絹織(現クラレ)の社長であった總一郎により,昭和23年(1948)に倉敷におけるリノベションの先がけとなる倉敷民藝館が,昭和25年(1950)には倉敷考古館が設立された。また,昭和49年(1974)には代官所跡に建てられた倉敷紡績発祥の工場を再開発し,倉敷アイビースクエアが開業するなど,古い建物を時代に合わせて活用する試みが続けられてきた。現在でも町家や土蔵を改装したカフェやレストラン,素材を活かした手仕事による繊維雑貨を取り扱う店舗などが開店し,ものづくりに触れる場として,企画展や作家によるワークショップなどが行われている。

左:瀬戸内の幸,旬の野菜を使った「ばらずし」/右:祭りの名物「素隠居」 左:瀬戸内の幸,旬の野菜を使った「ばらずし」/右:祭りの名物「素隠居」

和と洋が織りなす繊維と町並みの倉敷物語

倉敷川には観光客を乗せた舟が行き交い,しなやかに揺れる柳の奥に見え隠れする町並みは,四季を通じて賑わっている。400年前までは,海とそこに浮かぶ島々であった倉敷。ここを干拓して栽培された一輪の綿花から始まる繊維産業は,倉敷を世界に誇る高品質な繊維製品を生み出す「日本一の繊維のまち」へと成長させるとともに,その発展の軌跡の中で形作られた伝統的な商家群と近代化を象徴する明治期以降の洋風建築が調和する町並みを創り出す礎となってきた。

倉敷の地を訪れ,美しい町並みを散策し繊維製品に触れると,和と洋が織りなしながら重ねられてきた倉敷の歴史文化とその魅力を体感することができる。
【一輪の綿花から始まる倉敷物語 関連情報サイト】

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