政宗が育んだ“伊達”な文化STORY #019
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2024.03.13
一般
多賀城碑と日本遺産「政宗が育んだ“伊達‟な文化」
宮城県多賀城市市川字田屋場の小高い丘陵上にある古碑「多賀城碑」。
日本遺産「政宗が育んだ“伊達‟な文化」に加え、「名勝おくのほそ道の風景地(壷碑(つぼの石ぶみ)・興井・末の松山)」の構成要素にもなっていますが、本来は、天平宝字6年(762)に陸奥国府であった多賀城を、大規模に改修したことを記念し建立されたものです。
この多賀城碑は、那須国造碑や多胡碑とともに、日本三古碑の一つに数えられています。
多賀城が大規模に改修された年に加え、神亀元年(724)に創建されたことが記されています。
奈良・平安時代の陸奥国府であった多賀城には、歌人として知られる大伴家持や、蝦夷との戦いで勇名をはせた坂上田村麻呂が長官として派遣されるなど、古代東北地方の中心として位置付けられていますが、多賀城の創建を示す資料は、唯一この多賀城碑に刻まれているのみです。
多賀城の発掘調査の進展とともに、碑に刻まれた文字の信憑性、重要性が明らかとなり、平成10年に国の重要文化財に指定されました。
日本遺産「政宗が育んだ“伊達‟な文化」に加え、「名勝おくのほそ道の風景地(壷碑(つぼの石ぶみ)・興井・末の松山)」の構成要素にもなっていますが、本来は、天平宝字6年(762)に陸奥国府であった多賀城を、大規模に改修したことを記念し建立されたものです。
この多賀城碑は、那須国造碑や多胡碑とともに、日本三古碑の一つに数えられています。
多賀城が大規模に改修された年に加え、神亀元年(724)に創建されたことが記されています。
奈良・平安時代の陸奥国府であった多賀城には、歌人として知られる大伴家持や、蝦夷との戦いで勇名をはせた坂上田村麻呂が長官として派遣されるなど、古代東北地方の中心として位置付けられていますが、多賀城の創建を示す資料は、唯一この多賀城碑に刻まれているのみです。
多賀城の発掘調査の進展とともに、碑に刻まれた文字の信憑性、重要性が明らかとなり、平成10年に国の重要文化財に指定されました。
さて、この多賀城碑。いつのころからか土中に埋まり、その存在は全く忘れ去られていました。
ところが、江戸時代初め(万治・寛文年間頃)に発見されると、平安時代の歌枕である「壺碑」と関連付けられ、大都市江戸の文人墨客をはじめ、世の注目するところとなりました。
紀行文『おくのほそ道』で有名な松尾芭蕉もその一人であり、自身の俳諧の理念である「不易流行」そのものを体現する古碑と捉え、この多賀城碑と対面した際には「疑なき千歳の記念、今眼前に古人の心を閲す。
行脚の一徳、存命の悦び、羇旅の労をわすれて、泪も落るばかり也。」と感涙したことでも知られています。
しかし、一方では、芭蕉が訪れた元禄2年(1689)、発見されて30年にも満たない頃には、すでに苔むした状態であったことも記されており、さほど貴重な扱いはされていなかったようです。
ところで、テレビドラマでも有名な水戸黄門こと徳川光圀を御存じの方も多いかと思いますが、この光圀、非常に歴史に興味関心が深く、明暦3年(1657)より歴史書である『大日本史』の編纂を始めていました。
日本各地に家臣を送り、『大日本史』の編纂に必要な地域の歴史を調べさせていて、仙台藩には丸山可澄という人を派遣し調査を行っていました。
可澄は当時の市川村で、苔むした状態の多賀城碑をつぶさに観察し、その状況を光圀に知らせます。
光圀は、延宝4年(1676)に草むらから発見された那須国造碑の重要性を認識し、碑堂の建設や管理人を配置する等、早くから歴史遺産の保存顕彰に力を尽くしていました。
このため、「つぼの石ぶみ」として知られる多賀城碑の現状を危惧し、碑堂を設けて保存してはどうかといった内容の書簡を、当時参勤交代で江戸に居た仙台藩4代藩主伊達綱村に送ります。
多賀城碑が現在に至るまで良好な状態で保存されているのは、このような光圀の働きかけが大きかったと言えるでしょう。
再び、多賀城碑。
神亀元年(724)に多賀城が創建されたことを刻んでいますが、まさに令和6年(2024)が記念すべき創建1300年の年となります。
多賀城碑の今日の姿があるのは、政宗から代々受け継がれてきた仙台藩の文化芸術に対する政策が大きかったと考えます。
歌枕の発見・整備と併せて、紀行文『おくのほそ道』で紹介されたことにより、全国的な知名度を得ることとなりました。
多賀城創建1300年となる令和6年。
多賀城市では様々なイベントを開催しますが、1300年の根拠を示す多賀城碑の価値が再び高まることを願っています。
ところが、江戸時代初め(万治・寛文年間頃)に発見されると、平安時代の歌枕である「壺碑」と関連付けられ、大都市江戸の文人墨客をはじめ、世の注目するところとなりました。
紀行文『おくのほそ道』で有名な松尾芭蕉もその一人であり、自身の俳諧の理念である「不易流行」そのものを体現する古碑と捉え、この多賀城碑と対面した際には「疑なき千歳の記念、今眼前に古人の心を閲す。
行脚の一徳、存命の悦び、羇旅の労をわすれて、泪も落るばかり也。」と感涙したことでも知られています。
しかし、一方では、芭蕉が訪れた元禄2年(1689)、発見されて30年にも満たない頃には、すでに苔むした状態であったことも記されており、さほど貴重な扱いはされていなかったようです。
ところで、テレビドラマでも有名な水戸黄門こと徳川光圀を御存じの方も多いかと思いますが、この光圀、非常に歴史に興味関心が深く、明暦3年(1657)より歴史書である『大日本史』の編纂を始めていました。
日本各地に家臣を送り、『大日本史』の編纂に必要な地域の歴史を調べさせていて、仙台藩には丸山可澄という人を派遣し調査を行っていました。
可澄は当時の市川村で、苔むした状態の多賀城碑をつぶさに観察し、その状況を光圀に知らせます。
光圀は、延宝4年(1676)に草むらから発見された那須国造碑の重要性を認識し、碑堂の建設や管理人を配置する等、早くから歴史遺産の保存顕彰に力を尽くしていました。
このため、「つぼの石ぶみ」として知られる多賀城碑の現状を危惧し、碑堂を設けて保存してはどうかといった内容の書簡を、当時参勤交代で江戸に居た仙台藩4代藩主伊達綱村に送ります。
多賀城碑が現在に至るまで良好な状態で保存されているのは、このような光圀の働きかけが大きかったと言えるでしょう。
再び、多賀城碑。
神亀元年(724)に多賀城が創建されたことを刻んでいますが、まさに令和6年(2024)が記念すべき創建1300年の年となります。
多賀城碑の今日の姿があるのは、政宗から代々受け継がれてきた仙台藩の文化芸術に対する政策が大きかったと考えます。
歌枕の発見・整備と併せて、紀行文『おくのほそ道』で紹介されたことにより、全国的な知名度を得ることとなりました。
多賀城創建1300年となる令和6年。
多賀城市では様々なイベントを開催しますが、1300年の根拠を示す多賀城碑の価値が再び高まることを願っています。