鎮守府 横須賀・呉・佐世保・舞鶴~日本近代化の躍動を体感できるまち~STORY #035

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2025.02.25

一般

佐世保鎮守府凱旋記念館建設秘話

画像:佐世保鎮守府凱旋記念館 佐世保鎮守府凱旋記念館

佐世保鎮守府凱旋記念館は、かつて日本に四か所設置された日本海軍の拠点である「鎮守府」の一つ、佐世保鎮守府の入り口付近に第一次世界大戦の戦勝を記念するために建てられました。
古典主義的な意匠でまとめられた壮麗な建物で、国の文化財に登録されています。

なぜここまで豪華な建物が建設されたのでしょうか。
大正3年(1914)に勃発した第一次世界大戦はヨーロッパで「Great War」と呼ばれるほかつてない規模の範囲が戦場となり、様々な新兵器が登場しました。その一つが潜水艦でした。特に開戦から大正5年(1916)12月までの間に1,591隻を撃沈したドイツ帝国海軍の潜水艦Uボートは非常に有名で、この被害に堪りかねたイギリスは同盟国だった日本に救援を求めました。これに対し日本は巡洋艦1隻、駆逐艦8隻(のち12隻)からなる第二特務艦隊を編成し、地中海に派遣しました。大正6年(1917)4月上旬からマルタ島を拠点に護衛活動を開始した第二特務艦隊でしたが、当時の艦艇は海の中に潜む敵と戦うことを想定しておらず、その任務は非常に困難なものでした。イギリス海軍はその困難さゆえ、潜水艦から先に攻撃を受けた場合は逃げるべきと考えており、二次被害を防ぐため救助活動を禁じていたほどでした。
1917年5月4日、ついに第二特務艦隊の駆逐艦松と榊が護衛するイギリスの輸送船トランシルバニア号がUボートの攻撃を受けてしまいました。トランシルバニア号にはイギリス兵など3,266名が乗っていました。このとき2隻の駆逐艦は潜水艦を牽制しつつ救助をはじめたのです。この行動は乗船者たちを驚愕させました。敵の攻撃で動けなくなった以上、自分達は見捨てられても仕方ありませんでした。しかし日本の駆逐艦は迷わず救助を選択し、Uボートからの攻撃をかわしながら他国艦艇と協力し約3,000人を救助しました。この救助劇が報告されたイギリス議会では日本語での万歳が巻き起こりイギリス国王からは両艦の艦長以下20数名へ勲章が授与されました。
第二特務艦隊の活躍はこれにとどまらず、1918年4月から7月にかけての「ビッグ・コンボイ」と称された大規模輸送作戦をすべて護衛し、成功させました。これにより連合国軍は西部戦線での劣勢を挽回できたのです。この間、第二特務艦隊の被害も少なくなく、クレタ島沖で雷撃を受けた駆逐艦榊の被害を最大として78名の命が失われました。そして終戦までの一年半の間に358回も出動した第二特務艦隊は「地中海の守護神」と称えられ、第一次世界大戦における連合国の勝利に貢献したと認められたのです。国土の大半が戦場となったベルギー王国は戦争の早期終結に貢献したとして司令官の佐藤皐蔵に最高位の勲章を授与しました。第二特務艦隊の活躍は日本でも大きく報道され、艦艇を送り出した佐世保鎮守府管内の人々を熱狂させました。そして多くの寄付が寄せられ、大正12年(1923)5月、地中海の守護神の凱旋を記念するにふさわしい壮麗な記念館が誕生しました。
この第二特務艦隊の活躍により終戦後日本はパリ講和会議への参加を認められ、新たに発足した国際連盟の常任理事国としてアジアにあった旧ドイツ領の統治を委任されるなど、国際的な地位を大きく向上させ、世界の大国と肩を並べることになりました。その陰で犠牲となった日本海軍の将兵に対し、イギリス海軍はマルタ島の英連邦海軍墓地に犠牲者の墓を建立し、日本海軍もまた佐世保市の東山海軍墓地に堂々たる慰霊碑を建設しその活躍に敬意を表しました。佐世保鎮守府凱旋記念館は単なる戦勝記念ではなく、これまで背中を追っていた列強と肩を並べるに至った、そのことをも記念した建物だったのです。

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