1400年に渡る悠久の歴史を伝える「最古の国道」~竹内街道・横大路(大道)~STORY #044

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2025.02.25

一般

「竹内街道」の歴史トリビア

画像:深々と降る雪(大賞) 深々と降る雪(大賞)

竹内街道は、日本の古代から中世にかけての重要な交通路であり、その歴史には多くの興味深いトリビアがあります。以下に、竹内街道に関する面白いトリビアを紹介します。
1. 日本最古の官道
竹内街道・横大路(大道)は、日本最古の官道とされ、推古天皇の時代に整備されたと伝えられています。そもそも官道とはなにか。現在の国道にあたるもので、国家事業で整備され、維持管理がなされた道路のことです。この街道は、大阪府堺市から奈良県の飛鳥地方を結び、古代の都である飛鳥と外交の玄関口であった難波津(現在の大阪市)をつなぐ重要なルートでした。
2. 遣隋使・遣唐使の出発点
竹内街道は、遣隋使や遣唐使が中国大陸へ向かう際の出発点としても知られています。彼らはこの街道を通って難波津に向かい、そこから船で中国へ渡りました。また、中国や朝鮮半島からの外交使節も訪れたため、竹内街道は国際交流の道としても機能し、仏教伝来など日本と中国・朝鮮半島の文化交流において重要な役割を果たしました。その影響は街道に沿って、聖徳太子らによって建立された仏教寺院からも窺えます。
3. 竹内街道の名前の由来
「竹内街道」という名称は、大阪府太子町と奈良県葛城市の境にある峠、「竹内峠」が由来となっており、竹内峠での大改修が行われた明治時代につけられたもので、現在も多くの人が往来しています。また、竹内峠には、古代からの伝説が残っています。例えば、聖徳太子がこの峠を越えた際に、峠の神に祈りを捧げたという話があります。このような伝説は、街道が単なる交通路ではなく、精神的な意味合いも持っていたことを示しています。
4. 街道沿いの遺跡
竹内街道沿いには、古代の遺跡や古墳が多く存在します。これらの遺跡は、当時の人々の生活や文化を知る手がかりとなっています。特に、世界遺産に認定されている百舌鳥・古市古墳群の地域の一部と重なっていることや、太子町には多くの天皇や聖徳太子が祀られており、王領の谷とも呼ばれています。これらの遺跡は、考古学的な研究の対象となっており、古代日本の文化や社会構造を理解する上で重要な役割を果たしています。
5. 信仰の道
春分と秋分の年2回、太陽の軌道が三輪山と二上山を直線で結び「太陽の道」となります。
この三輪山の三輪明神には蛇の伝承が伝えられており、三輪明神が蛇の頭で二上山の麓にある長尾神社が蛇の尾っぽといわれています。また、この長尾神社は堺まで続く竹内街道の始点・終点でもあり、高野山に続く高野街道、初瀬街道が交差することから、交通安全の神としても信仰されています。
竹内街道・横大路(大道)は江戸時代になると、伊勢参りのための道へと役割を変化させ、現代でも道しるべとなる灯篭や道標が残り、随所に旅籠や茶屋で賑わっていた面影を残しています。なかでも、橿原市の今井町や八木札の辻では今も伝統的建築物が並び、江戸時代の街並みを伝えていなす。ちなみに、先ほど紹介した長尾神社は伊勢の外宮と東西一直線に位置しており、古来より旅の安全祈願で厚く信仰されていただけでなく、古来の人々の知恵や技術を窺い知ることができます。

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