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STORY #013

津和野今昔
~百景図を歩く~

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【津和野百景探訪4】津和野踊り  津和野百景図第九十九図 盆踊り

津和野で踊る400年目の盆踊り(°▽°)
津和野踊りは、津和野藩主亀井氏が鳥取鹿野城主だった戦国時代に考案された踊りだと伝えられています。
亀井 政矩(かめい まさのり)公が津和野藩主となった1617年から、津和野城下でも盆踊りとして踊られるようになったとされ、今年2017年は400周年として盛大に踊ろうとしています。

今年も8月10日の「柳まいり」を皮切りに、津和野町内各所の盆踊りで踊られ、8月15日殿町での盆踊りで踊りの輪が閉じます。

津和野百景図では、盛大に踊られている様子が活写されていますが、黒頭巾に白いハチマキ、団扇をさした装束は今日も受け継がれています。
津和野踊りの由来として、伝えられているのは以下のような話です。

亀井家初代亀井茲矩(これのり)公が鳥取鹿野城主だったとき、茲矩公は中国地方を攻略していた羽柴秀吉の麾下で奮闘していました。
秀吉は鳥取城攻略を指揮していましたが、鳥取城支城の金剛城(こんこのじょう)との挟み撃ちにあい、攻めあぐねていました。秀吉は、茲矩公に邪魔な金剛城の攻略を命じました。
難攻不落の金剛城は正攻法で攻めても、陥落しません。金剛城主は音曲や歌舞を好んでいることを知り、茲矩公は一計を案じます。

玆矩は郷土芸能に新しい舞踊(つわの踊りの原型)を取り入れ、笛や太鼓を加えて、城下の村々に盛んに踊られました。人々は喜び、その踊りはたちまちのうちに大流行したのです。

そして天正九年(1581)七月十四日、盂蘭盆会(旧盆)の日。

城下の人々は普段より美しく装いをこらした姿で舞いを披露しました。

その一団の中に、玆矩は鎧を来た一隊を変装させて加えていました。
(これが津和野踊りの衣装の源。黒ずきんは、甲冑を隠すためのものだったのです。)

一団は踊りながら、しだいに金剛城下に溢れだしました。

敵方、金剛城中の男女は、この一団を見ようと歓声をあげて集い、ついには城主や家臣たちも見物に城を出ました。

踊りも終わりに近づく頃、にわかに城に火が起りました。

敵方が気づき城を仰いだときには、すでに亀井勢の家紋の入った旗がひるがえり、踊り子の装いはとられて戦士となり、城はすっかり奪われていました。

玆矩の企てた奇策は、見事成功をおさめたのです。

その後、戦勝の記念としてお盆に踊られたこの踊りは、亀井氏が津和野藩に移封されたのちも伝えられ、そのまま津和野踊りとして今日も踊られています。

URL : http://odori.tsuwano.ne.jp

【津和野百景探訪3】津和野城出丸  津和野百景図第二図 三本松城出丸

三本松城は鎌倉時代から段階的に長い期間をかけて整備されたお城です。中世から近世にかけての、山城の特徴を見ることがきるのは、そういう城の成り立ちから。
出丸は、正中元年(1324)に、吉見直行が本丸の増築の際に築かれたものですが、江戸時代になり坂崎出羽守によって石垣が築かれました。
難攻不落の三本松城でしたが、本丸の北側は地形的にも死角となるウィークポイント。北東(丑寅の縁起が悪い方角)の太皷谷に神社を築いたのもは、弱点をそういう意味でも補強したかったのかもしれません。
大手道から敵が攻めてきた場合に挟撃するなど、出丸が加わることで三本松城がより強固な城となったのでした。
現在は石垣が残るのみでしたが、石垣の上は塀で囲まれ、南東隅と北東隅に櫓が設けられていました。現在もその痕跡は確認することができます。
※現在津和野城跡は石垣の整備を行っており、出丸内には入れない場合がございます。

URL : https://tsuwano100.net/blog/306

【津和野百景探訪2】鷺舞神事  津和野百景図第十七図 祇園會鷺舞ひ

雌雄の白鷺が、城下町情緒あふれる街頭で、荘厳な舞を披露する鷺舞。
もともと、京都の祇園祭で踊られていた芸能を、山口の大内氏が取り入れ、さらに時の津和野藩主であった吉見正頼が大内家から輿入れしてきた妻のために、津和野でも始めたもの。1542年より始まりました。
坂崎氏が津和野藩主になり廃止されたが、1617年に津和野藩主となった亀井氏が復活させました。1643年に、町衆を京都に派遣して、鷺舞を再習得したと伝えられており、中断した時期を外しても400年以上は続けられている祭礼です。

夏の疫病除けなどを祈願する神事であるが、夫婦の鷺が優雅に舞い、最後に結ばれる舞は夫婦円満や子孫繁栄、さらには五穀豊穣の意味を読み取る人もいる、とても縁起がいいお祭りです。
現在も有志が鷺舞保存会を結成し、舞だけではなく前後の祭礼も受け継いでいます。
(国の重要無形文化財)

URL : https://tsuwano100.net/blog/484

日本遺産ストーリーを徹底解説! 津和野町日本遺産センター

津和野町では日本遺産ストーリー「津和野今昔〜百景図を歩く〜」の世界を、津和野百景図(複製)や動画、鷺舞の衣装実物展示などの立体物、パネルなどを駆使して紹介するガイドセンターです。
コンシェルジュが常駐し、津和野の歴史旅、文化遺産観光を懇切丁寧にガイドします。
コンシェルジュは日々、魅力的なストーリーの発掘や研究に勤しみ、どんどん「持ちネタ」を増やしています! まち歩きイベントの実施や和紙人形作り体験など、様々なプログラムも開発しています。
伝統芸能の継承、学校教育への協力、日本遺産を活用したビジネスプランの策定など、日本遺産を戦略的に活用するプランニングも実施しています。
津和野町へお越しの際、立ち寄っていただくと、津和野の魅力が重層的なものになると確信しています。
日本遺産センター。訪ねて歩けばより印象深く、歩いて訪ねると思い出深く。あなたの津和野旅行をよりよりものになるように、サポートします。

島根県鹿足郡津和野町後田ロ253

TEL : 0856721901

URL : https://tsuwano100.net

【津和野百景探訪1】津和野城跡  津和野百景図第一図 三本松城

幕末の津和野の名所を描いた津和野百景図の100枚の風景のうち、半分以上の風景が残っている、津和野。幕末の景色を実際に見たり、歴史のつながりや現在の暮らしに息づく伝統文化を体感できる、かけがえのない日本遺産のまち、それが津和野です。
さて、現在の津和野に残る幕末の景色を伝えていく津和野百景探訪第1弾は、津和野百景図第一図の三本松城(津和野城)です。
津和野城は、能登国からやってきた吉見頼行(よしみ・よりゆき)が永仁3年(1295)に築城したのがはじまりで、3代直行が増築した。つまり鎌倉時代から開発されてきた山城で、慶長5年(1600)に坂崎出羽守直盛が城主となり、元和3年(1617)に鳥取鹿野城主だった亀井政矩が転封されて明治4年(1871)の廃藩まで亀井氏が城主を務めました。明治7年(1874)に建物は解体されたものの、石垣や竪堀などの構造物がよく残り、中世から近世にかけての変遷がよく分かる全国的にも貴重な文化財です。
観光のお客様から「石垣しか残ってないんでしょ?」と残念そうな声をかけられることも多いのですが…。城の全域にわたって構造物が残っており、古代遺跡のような雰囲気を醸し出すのは見ものだとオススメしています。石垣からの城下町の眺めも抜群で、この景色をもとに、さだまさしさんが名曲「案山子」の歌詞を書いたほど。
三本松城は、1687年に落雷で天守閣を焼失していますので、地元の人にとっては天守閣のない姿こそ、愛着のある景色と言えます。現在修復作業に入っていますが、新緑の時期、紅葉の季節、1年中見ごろのスポットです。

URL : https://tsuwano100.net/blog/290