地下迷宮の秘密を探る旅〜大谷石文化が息づくまち宇都宮〜STORY #057

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2024.03.13

一般

歴史と文化に寄り添う大谷石

大谷地域(上空から) 大谷地域(上空から)


平成30年5月に、「地下迷宮の秘密を探る旅~大谷石文化が息づくまち宇都宮~」のストーリーが「日本遺産」に認定された。
このストーリーは、宇都宮に住む人々が古より地元で産出する大谷石を代表とする凝灰岩を様々な形に変え、生活の中で使い続けてきた物語である。

ところで,サブタイトルにある「大谷」を何と読むか。
戦国武将好きの人なら「大谷刑部」、野球ファンなら「大谷翔平」選手を思い浮かべ、「おおたに」と読む方が多いかもしれない。
しかし、宇都宮市の「大谷」は「おおや」と呼ぶ。地名の呼び方を調べてみると、西日本では「おおたに」、東日本では「おおや」が多いようである。

それでは、「大谷」という言葉はいつごろから使われ始めたのか。

「大谷」とは字のごとく「大きな谷」の場所を言い表していると考えられる。
まさに大谷石の産出する場所の景観は、姿川によって形成された大きな谷間の地である。
その場所に奈良時代の終わりごろに磨崖仏が彫られた。
この磨崖仏のある大谷寺は鎌倉時代初期に「坂東三十三ヵ所」の一つに選ばれており、その名の通り大きな谷あいに建てられた寺としてそれ以前から「大谷寺」として知られていた可能性がある。
橋本澄朗氏はこの寺を下野薬師寺の僧侶の山林修行の場であったと指摘する。
すでに、古代にはこの地を「大谷」と呼んでいたのかもしれない。

この大谷の地の基盤となる大谷石は、1500万年前に火山の噴火で噴出した大量の軽石が海底に堆積してできた軽石火山礫凝灰岩で、この石を本格的に建材として使い始めるのは江戸時代になってからのことである。
蔵などの建物の壁材や屋根材、城や神社の石垣などの土木構造物に利用されるようになる。
特に、大事なものを収納する蔵への石の利用は、それまでの板葺き屋根の板蔵だったものを火災から守ることを目的として使われるようになる。
さらに明治以降は、建築材や土木構造材への利用が普及し、これを後押ししたのが、石材軌道や鉄道網による運搬手段の発達である。
より多くの石材を一度に遠くまで運ぶことができるようになり、採石量も徐々に増加した。

そのような中、アメリカ人建築家のフランク・ロイド・ライトが、東京の帝国ホテルを設計するにあたり、柔らかく加工しやすい石を用いることなり、当初は石川県小松市の通称「蜂の巣石(菩提石とも)」の使用を考えたが、東京から遠いことから、産出量が多く東京に近い大谷石が選ばれた。
大正12年(1923)9月1日に発生した「関東大震災」において、その日、完成披露パーティーが行われていた帝国ホテルの被害が最小限であったことから、そこに使われた大谷石の評価は高まり、全国的にその名が知られることになる。

昭和30年代の採掘機の機械化、さらに鉄道輸送からトラック輸送への輸送手段の変化などにより昭和48年(1973)には、その生産量が89万トンとピークをむかえるが、その後のコンクリートの普及などにより、大谷石の需要は低下し、現在は内装材としての利用や、採石場跡地の観光活用など新たな取り組みが行われている。

カネイリヤマ採石場跡地(大谷資料館) カネイリヤマ採石場跡地(大谷資料館)

宇都宮には、いまだ多くの大谷石など地元の凝灰岩を使った石蔵や神社の鳥居・祠などが残っており、宇都宮の独特な景観を醸し出している。
これが、長い年月をかけ培ってきた宇都宮の「大谷石文化」の具現化した姿であり、この文化を私たちはこれからも末永く守り続けていきたい。

大谷の奇岩群(越路岩) 大谷の奇岩群(越路岩)

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