地下迷宮の秘密を探る旅〜大谷石文化が息づくまち宇都宮〜STORY #057
ストーリーSTORY
壁がせり立つ巨大な空間には、柱が整然と並び、灯された明かりと柱の影が幾重にも続く。
柱と柱の間を曲がると、同じ光景がまた目前に広がり、
しだいに方向感覚が失われていく。
江戸時代に始まった大谷石採掘は、
最盛期に年間 89 万トンを出荷する日本屈指の採石産業として発展し、
地下に巨大な迷宮を産み出していった。
大谷石の産地・宇都宮では,石を「ほる」文化、
掘り出された石を変幻自在に使いこなす文化が連綿と受け継がれ、
この地を訪れる人々を魅了する。
この大量の凝灰岩の岩山に目を付けた人々は、この地でこの石と共に暮らしてきた。古くは、縄文時代に岩山の洞穴を住居として利用し、古墳時代には横穴を掘って墓地とした。奈良・平安時代には、日本最古の磨崖仏とされる大谷観音を、自然の岩窟の壁面に彫りだし、信仰の場をつくりだした。大量の石に恵まれた宇都宮の人々は、長い時の流れの中で、この石に祈りや願いを「彫り」、そして石材として「掘って」きたのだ。
石工が掘りだした巨大地下迷宮
昭和30年代に機械が導入されるまで、採掘は手作業で行われ、わずか18×30×90cmの石材1本を切り出すために、石工は約4,000回も鶴嘴を振るったという。この広さに到達するまでには気が遠くなる人の手がかかっているのだ。
冷気が張り詰める坑内には、天井を支えるために残した柱が立ち並び、行く先々を照らす明かりが重層的な影を生み、神秘的な情景を醸し出す。巨大な柱の先を曲がると、再び柱が立ち並ぶ光景が目前に広がり、次第に方向感覚が失われていく。ここは、採掘産業を支えた石工たちが、手作業で掘りだした巨大な地下迷宮なのである。
左:公開されるカネイリヤマ採石場跡地/右:採掘の様子(1950年代後半~1960年代)
大谷石産業の歴史
掘り出した石で築いた都市文化
大谷石で外壁を覆うカトリック松が峰教会聖堂では、浮彫を施した大谷石タイルを複雑に組み合わせ、象徴的な丸いアーチや西洋中世の教会建築の意匠を実現した。対照的に、日本聖公会宇都宮聖ヨハネ教会聖堂では、同じ大谷石タイル張りでありながら、石の自然な表情を活かした素朴なたたずまいの敬虔な信仰空間をつくりだした。また、耐火性に優れ調湿・消臭効果を備える大谷石は、食品醸造に適し、味噌や酒、醤油などの商家の蔵に用いられた。江戸時代から続く老舗では、いまでも石蔵で宇都宮の味をつくりだしている。
建造物以外にも、人々の憩いの場となる庭園の花壇や園路、道路の敷石にも用いられた。やわらかな大谷石は様々な表現・活用を可能とし、多様なデザインを欲した都市づくりに重宝されたのである。
左:宇都宮聖ヨハネ教会聖堂/右:宇都宮大学庭園(中央園路に大谷石が使われる)
農村の暮らしに溶け込む大谷石
左:大谷石建造物の街並み(芦沼集落)/右:大谷石造の祠(岩原神社)
凹が拡がり、凸が生み出される宇都宮
地下の巨大な凹が大きくなればなるほど、石のまち宇都宮の魅力が凸出していく。これからも宇都宮の人々は、大谷石と共に暮らしていく。
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ピックアップコラムCOLUMN
日本遺産に関するエピソードや
トリビアをお届けします。
歴史と文化に寄り添う大谷石
平成30年5月に、「地下迷宮の秘密を探る旅~大谷石文化が息づくまち宇都宮~」のストーリーが「日本遺産」に認定された。
このストーリーは、宇都宮に住む人々が古より地元で産出する大谷石を代表とする凝灰岩を様々な形に変え、生活の中で使い続けてきた物語である。
ところで,サブタイトルにある「大谷」を何と読むか。
戦国武将好きの人なら「大谷刑部」、野球ファンなら「大谷翔平」選手を思い浮かべ、「おおたに」と読む方が多いかもしれない。
しかし、宇都宮市の「大谷」は「おおや」と呼ぶ。地名の呼び方を調べてみると、西日本では「おおたに」、東日本では「おおや」が多いようである。
それでは、「大谷」という言葉はいつごろから使われ始めたのか。
「大谷」とは字のごとく「大きな谷」の場所を言い表していると考えられる。
まさに大谷石の産出する場所の景観は、姿川によって形成された大きな谷間の地である。
その場所に奈良時代の終わりごろに磨崖仏が彫られた。
この磨崖仏のある大谷寺は鎌倉時代初期に「坂東三十三ヵ所」の一つに選ばれており、その名の通り大きな谷あいに建てられた寺としてそれ以前から「大谷寺」として知られていた可能性がある。
橋本澄朗氏はこの寺を下野薬師寺の僧侶の山林修行の場であったと指摘する。
すでに、古代にはこの地を「大谷」と呼んでいたのかもしれない。
この大谷の地の基盤となる大谷石は、1500万年前に火山の噴火で噴出した大量の軽石が海底に堆積してできた軽石火山礫凝灰岩で、この石を本格的に建材として使い始めるのは江戸時代になってからのことである。
蔵などの建物の壁材や屋根材、城や神社の石垣などの土木構造物に利用されるようになる。
特に、大事なものを収納する蔵への石の利用は、それまでの板葺き屋根の板蔵だったものを火災から守ることを目的として使われるようになる。
さらに明治以降は、建築材や土木構造材への利用が普及し、これを後押ししたのが、石材軌道や鉄道網による運搬手段の発達である。
より多くの石材を一度に遠くまで運ぶことができるようになり、採石量も徐々に増加した。
そのような中、アメリカ人建築家のフランク・ロイド・ライトが、東京の帝国ホテルを設計するにあたり、柔らかく加工しやすい石を用いることなり、当初は石川県小松市の通称「蜂の巣石(菩提石とも)」の使用を考えたが、東京から遠いことから、産出量が多く東京に近い大谷石が選ばれた。
大正12年(1923)9月1日に発生した「関東大震災」において、その日、完成披露パーティーが行われていた帝国ホテルの被害が最小限であったことから、そこに使われた大谷石の評価は高まり、全国的にその名が知られることになる。
昭和30年代の採掘機の機械化、さらに鉄道輸送からトラック輸送への輸送手段の変化などにより昭和48年(1973)には、その生産量が89万トンとピークをむかえるが、その後のコンクリートの普及などにより、大谷石の需要は低下し、現在は内装材としての利用や、採石場跡地の観光活用など新たな取り組みが行われている。
宇都宮には、いまだ多くの大谷石など地元の凝灰岩を使った石蔵や神社の鳥居・祠などが残っており、宇都宮の独特な景観を醸し出している。
これが、長い年月をかけ培ってきた宇都宮の「大谷石文化」の具現化した姿であり、この文化を私たちはこれからも末永く守り続けていきたい。