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#005 海と都をつなぐ若狭の往来文化遺産群
後瀬山城跡
小浜は中世以降日本海海運の拠点として、また中国大陸との交易の港として栄えたが、その小浜湊の背後に聳える後瀬山(標高 約170メートル)に、大永2年(1522)若狭守護武田元光が築いた城が後瀬山城である。後瀬山は万葉集の歌枕ともなった名山であるが、城は山頂に御殿と通称される主郭を設け、それより北北東と北西の2方向に延びる尾根上に、連続してくるわを配置する構造となっている。
海に面し、山裾には丹後街道が走る要害の地に築かれた後瀬山城は、大永二年(1522)、若狭守護武田元光が築城し、京極高次による小浜城築城が開始されるまでの約80年間、歴代若狭国主の城であった。 若狭武田氏は応仁・文明の乱までは、京都に居住し、室町幕府を支えるとともに、都の一流の文化人・公家たちと交流し、和歌・連歌などの文芸をたしなんでいた。元光が後瀬山に築城し、若狭に常住するようになってからは、都の戦乱を避けた文化人たちが、武田氏を頼って多く若狭を訪れた。館では都の連歌師を迎えてしばしば連歌会が行われた。 室町時代末期の連歌師・里村紹巴の若狭を訪れた際の紀行文には、紹巴が朽木、熊川を経て街道をたどって小浜に入り、武田館にて7代目信豊・松の丸に面会したという記事が記載されている。街道を通じて若狭に入ってきた都の洗練された文化は後瀬山城に集い、若狭に文芸の花を開かせた。
【文責】 小浜市文化交流課
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