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概要
慶長13年(1608)、松平康重は丹波八上城に移り、翌14年(1609)徳川家康の命によって新たに笹山に新城を築城した。諸大名が築城を助ける、いわゆる公儀(天下)普請であった。松平氏は元和5年(1619)、岸和田に移り、松平(藤井)、松平(形原)両氏を経て、寛延元年(1748)青山氏がここに封ぜられ、明治維新に至った。城は篠山盆地の平野中に独立する丘陵に営まれた平山城で、あまり高くはないが、盆地の一隅の高城山に築かれた八上城を南東に望み、視野は極めて広い。頂部に方形状の本丸とこれを守る二の丸とを置き、城壁は高石垣をもって固める。その周囲には内堀をめぐらし、さらにこれをほぼ方形状に三の丸と幅広い外堀とをもって囲む。三の丸の北(大手)・東及び南に開かれた虎口にはいずれも馬出を備えている。本城は、山陰道を押える要衝として重きをなし、家康はその堅固に過ぎることを責めたと伝わる。城郭建築や、三の丸にあった複雑な構えなどは失われているものの、全体の規模はよく遺存し、特に南門の馬出が概ね完存し、東門もまた概ね旧態をとどめている。馬出遺構が保存されていることは現在では貴重であり、且つ外堀は今もなお水を湛えて、方形状の曲輪が同心的に配置された縄張の典型を見る事ができる城郭史上価値のある遺跡である。史跡指定以降、高石垣の修理や大書院の木造本格復元、内堀整備などの史跡整備が進められており、往時の姿を取り戻しつつある。
ストーリーの位置づけ
デカンショ節「並木千本咲いたよ咲いた濠に古城の影ゆれて♪」他幾度となく歌詞の中で歌われる篠山城跡は、天下普請により慶長14年(1609)年、徳川家康が山陰道の要衝に築いた城であり、平成12年には大書院が復元され一般公開されている。現在は、三の丸跡をデカンショ祭の主会場とし、篠山城跡の存在は市民の心のシンボルとなっている。
【文責】 丹波篠山市観光交流部商工観光課・丹波篠山市教育委員会文化財課












