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令和6年8月2日(金)北海道仁木町の小学生が、自分たちの町を開拓した仁木竹吉の故郷、藍のふるさと阿波、吉野川市川島町の構成文化財を訪問しました。今年は吉野川市市制20周年、仁木町町制60周年、仁木竹吉生誕190年記念です。日本遺産ストーリーを現地学習し、自分たちの先祖がどのような生活をしていたのかを学習しました。
仁木・銀山小学校5・6年生27名、教職員3名、仁木町役場職員10名、計40名
吉野川の川湊に立つ川島の浜の地蔵は、1843(天保14)年4月に建立され、台座高が2m67cmあり吉野川流域の台座が高い地蔵のなかでは第3位である。台座には、願主として、川島の有力な藍師・藍商だった姓と同じものが刻まれており、その一人に「大島源左衛門」の名が刻まれている。北海道へ藍作の地を求め、北海道余市郡仁木町を開拓した「仁木竹吉」の父である。
稲田家御家中筋目書によれば、竹吉は天保5(1834)年に麻植郡児島村(児島塚・善入寺島)の小高取、大島源左衛門の7男として生まれ、嘉永6(1853)年に大島家から美馬郡拝原村の仁木大蔵家の仁木伊兵衛のもとへ養子に入ることが許可となっているが、拝原村には居住せず、児島村に居住していた。
明治7(1874)年の吉野川の水害に苦しむ流域の農民の窮状、惨状を救済するために渡道を決意し、同8(1875)年1月に郡長に「北海道渡航ニ付御添翰願」を提出し、3月に北海道へ向かい道内を視察した。北海道でも藍草の生育が可能なことを確信し、開拓使へ「北海道藍・煙・菽麦拡張論」を建言し、同9(1876)年1月に種子の取り寄せを誓願した 。同12(1879)年5月に「殖民二付願」を開拓使に出し、余市郡への殖民計画と移民団の創設に着手した。同年12月5日に仁木村と村名設置の儀が出され、同13(1880)年3月6日に仁木村の設置が布告となった。
台座に刻まれた父の名は、出身地に唯一残る史料である。
仁木・銀山小学校5・6年生27名、教職員3名、仁木町役場職員10名、計40名
吉野川の川湊に立つ川島の浜の地蔵は、1843(天保14)年4月に建立され、台座高が2m67cmあり吉野川流域の台座が高い地蔵のなかでは第3位である。台座には、願主として、川島の有力な藍師・藍商だった姓と同じものが刻まれており、その一人に「大島源左衛門」の名が刻まれている。北海道へ藍作の地を求め、北海道余市郡仁木町を開拓した「仁木竹吉」の父である。
稲田家御家中筋目書によれば、竹吉は天保5(1834)年に麻植郡児島村(児島塚・善入寺島)の小高取、大島源左衛門の7男として生まれ、嘉永6(1853)年に大島家から美馬郡拝原村の仁木大蔵家の仁木伊兵衛のもとへ養子に入ることが許可となっているが、拝原村には居住せず、児島村に居住していた。
明治7(1874)年の吉野川の水害に苦しむ流域の農民の窮状、惨状を救済するために渡道を決意し、同8(1875)年1月に郡長に「北海道渡航ニ付御添翰願」を提出し、3月に北海道へ向かい道内を視察した。北海道でも藍草の生育が可能なことを確信し、開拓使へ「北海道藍・煙・菽麦拡張論」を建言し、同9(1876)年1月に種子の取り寄せを誓願した 。同12(1879)年5月に「殖民二付願」を開拓使に出し、余市郡への殖民計画と移民団の創設に着手した。同年12月5日に仁木村と村名設置の儀が出され、同13(1880)年3月6日に仁木村の設置が布告となった。
台座に刻まれた父の名は、出身地に唯一残る史料である。
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