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2025.10.29

特集

日本遺産巡り#48◆すべての道は飛鳥に通ず。
国を開き、激動の時代を越えた「日本最古の国道」をゆく。

竹内街道

むかしむかし、紀元前は縄文時代から、人々は狩猟道具や生活道具の原材料となるサヌカイトという石を求め、現在の大阪府と奈良県にそびえる二上山周辺に行きました。さらに古墳時代には古墳をつくるための石材、特に石棺の原材料である凝灰岩が運び出されたことなどからも、二上山を起点に複数の道ができました。
時は経ち613年、推古天皇がそれらの道を利用して難波の港から飛鳥の王宮に至る「官道」を整備したのが、竹内街道・横大路(大道)です。

「外交の道」として整備した竹内街道・横大路(大道)が、「庶民信仰の道」「経済の道」などと呼ばれるようになった由縁をたどるため、飛鳥の王宮があった横大路の東端から、港につながる竹内街道の西端をめざしました。

横大路の東端からスタート。
「庶民信仰の道」「経済の道」の息吹を感じるまちへ。

まずやってきたのは、奈良県桜井市にある愛宕神社です。ここは横大路の東端で、北の平城京から南へと敷かれた上ツ道と交差する地点でもあります。

愛宕神社 下を流れる寺川から浮くように、しかし重厚感を持って鎮座する姿は、道行く人の目を引きます。

スタート地点から案内してくださったのは、太子町役場まちづくり推進部観光産業課の鍋島さんです。

太子町役場 鍋島さん 太子町役場 鍋島さん

鍋島さん:横大路はここから西に伸びていきますが、東の伊勢へと伸びる道は初瀬街道といいます。少し北東にある海柘榴市(つばいち)と初瀬川の交差点には、随からやってきた裴世清(はいせいせい)が泊まった迎賓館もあったでしょう。
裴世清とは6世紀後半から7世紀前半に生きた隋・唐代の官吏で、608年に遣隋使の小野妹子らを送って来日しました。その際に難波津から海柘榴市の術(ちまた)まで、大和川をさかのぼるという大変なまわり道になったことも、官道の整備が必要だと思わせたきっかけだったのではと考えられます。
鍋島さん:これから辿っていく横大路から竹内街道は、道幅などは敷設時と異なりますが、ルートはほぼ同じです。発掘調査で見つかった側溝から、主要な部分の当時の道幅は18~20mほどあったと推定されています。一方、大和盆地でこの道と南北に交差する古代の重要な道には上ツ道・中ツ道・下ツ道があります。「日本書紀」の壬申の乱の記述に登場するこの道も時代の移り変わりの中で田んぼや民家、別の道路などに姿を変え、現在はほとんど残っていません。しかしそれでも、道幅は同じく20mほどの大道であったと考えられ、下ツ道跡などの発掘調査では道路側溝も見つかっています。

ちなみに、横大路と竹内街道はほぼ一本につながった道なのに、名称が分かれているのはなぜなのでしょうか?

鍋島さん:おおよそ、藤原京の条坊制が広がっていた範囲を通る道を横大路と呼んでいます。古代からあった道ではあるはずなのですが、上・中・下ツ道と違って『日本書紀』に横大路の名はありません。中世以降にこう呼ばれていたことは明らかですが、敷設当時はどのように呼ばれていたかわからないんです。

仁王堂八幡神社 仁王堂八幡神社

次に訪れたのは、横大路を数メートル歩いた先にある仁王堂八幡神社です。鳥居をくぐると、こじんまりとした神社ながら丁寧に手入れされた上品な空間に引き込まれ、江戸時代にタイムスリップしたような気持ちになります。

鍋島さん:江戸時代中期に創建されたと推定されている神社で、明治時代初期に小西橋付近から移転したと伝えられています。かつての境内地に建てられた道標や灯籠もここに集められており、「庶民信仰の道」を感じる場所です。
 

金毘羅大権現と彫られた灯籠 金毘羅大権現と彫られた灯籠

鍋島さん:「金毘羅大権現」と彫られた灯籠がありますね。金毘羅さんは海や船の神様なので、なぜ海に面していないこの地にあるのかと不思議に思われるのですが、その由縁は、奈良の産物が横大路や竹内街道を通って大阪の港に集められてから、太平洋側を通り江戸へ、または、日本海側をまわり北海道へ、と流通されていったことに関係します。「経済の道」としての歴史が見えますね。
【愛宕神社】
所在地 奈良県桜井市谷161
アクセス 近鉄「桜井駅」から徒歩で約7分
【仁王堂八幡神社】
所在地 奈良県桜井市谷170
アクセス 近鉄「桜井駅」から徒歩で約9分
次に少し東に移動して、横大路と下ツ道の交差点、八木札の辻に来ました。

ここ八木町は、江戸時代には交差点を中心に伊勢参りや大峰参詣へ向かう旅人の往来が間断なく、市が立ち多くの旅籠が軒を連ねる地域でした。「札の辻」という名前は、掲示物が張り出される「高札場」、現在で言うところの掲示板が由来になっているそう。人が集まる中心地だったということがわかります。現在も木造の古建築が多く残されており、「八木札の辻交流館」はもともと旅籠だった建物です。屋内を見学することもでき、八木町の歴史がわかる資料が並びます。

八木札の辻 八木札の辻

下ツ道と横大路の交点であることを示す立て看板 下ツ道と横大路の交点であることを示す立て看板

すぐ南西に位置する今井町にも江戸時代の町屋風景が広がります。今井町の歴史がわかる資料館「今井まちなみ交流センター華甍(はないらか)」に立ち寄り、今井町のジオラマを見せていただきました。

今井町は、もとは興福寺一乗院の荘園だった地域で、戦国時代末期に一向宗本願寺坊主の今井兵部によって建設された寺内町です。江戸時代に幕府領になってからは、堺などと盛んに交流し商業都市として繁栄し、「海の堺、陸の今井」と呼ばれるようになりました。また、両替商や豪商、造り酒屋なども並び、「大和の金は今井に七分」と言われるほどに富を集めた地でもあります。

現在も約5百軒の町屋が並ぶ今井町を歩くと、時代劇に迷い込んだような不思議な感覚になります。先祖代々受け継いでいる住宅、福祉施設として利用されている建物、落ち着く雰囲気の飲食店やお土産物屋さんなど、当時の景観を守りながら今も穏やかな人のぬくもりを感じられる町並みです。

稱念寺(称念寺) 稱念寺(称念寺)

今井町の町並み 今井町の町並み

江戸時代から伝統様式を保つ美しい民家は、敷地の一部を見学用に公開しているところも多く、その中の一軒「高木家住宅」をのぞいてみました。

約200年前の商家でありながら武家にしか認められなかった書院造りのお座敷もある住宅です。高い天井に明かり取りの窓、ロープで障子を開閉できるブラインドのような仕掛けなど、現代建築との共通点も多く、江戸時代から伝わる生活用具や、お雛様などのお飾りや、槍、火縄銃などの武器も展示されています。

高木家住宅の玄関 高木家住宅の玄関

奥行きのある室内 奥行きのある室内

室内から見る中庭 室内から見る中庭

井戸のある勝手口  井戸のある勝手口 

火縄銃 火縄銃

何人もが駆け上がった階段箪笥 何人もが駆け上がった階段箪笥

他にも見学できる住宅が何軒もあるので、各家に代々伝わる特徴や魅力の違いを味わってみるのも良いですね。

【八木札の辻交流館】
所在地 奈良県橿原市北八木町2丁目1番1号
アクセス 近鉄「大和八木駅」南口から徒歩で約7分
【今井まちなみ交流センター華甍(はないらか)】
所在地 奈良県橿原市今井町2丁目3番5号
アクセス 近鉄「八木西口駅」から徒歩で約5分
【高木家住宅】
所在地 奈良県橿原市今井町2丁目3番5号
アクセス 近鉄「八木西口駅」から徒歩で約5分

横大路から竹内街道へ。
その前に、道の始まりと、外国から見た「日本国」をひもとく。

竹内街道に入る前に葛城市歴史博物館を訪れ、館長の神庭さんにお話を伺いました。パネルを見ながら、諸説ある道の誕生話をしてくださいました。

葛城市歴史博物館 館長神庭さん 葛城市歴史博物館 館長神庭さん

神庭さん:このパネルは古代の想定ルートです。マップ中央付近にある「大坂道」は、卑弥呼の墓だと言われる箸墓古墳をつくるための石を運んだ道だと言われています。
なるほど、もともとあった「石の道」を利用して街道がつくられたという説が理解できます。

神庭さん:古墳時代の中頃に、河内地域の開発が進んだのですが、大和川から土砂が多く流れ込むために地盤がゆるいことが欠点でした。大阪に「くいだおれ」という言葉があるでしょう。これは一説ですが、「杭を打っても倒れてしまうほど地盤がゆるい」という言葉がもとになっているとも言われているんですよ。

「杭だおれ」から「食いだおれ」と、発音は同じでも意味がまったく違うのはおもしろい話です。

神庭さん:外交の玄関口としての港が、大阪湾沿岸につくられます。その港と大和を結ぶ道のひとつに、大津道(長尾街道)があります。「大津」とは「大きな港」という意味です。外国からの使者は、船に乗り、海からやってきました。百舌鳥古墳群の巨大古墳は、海からの見え方を意識していると考えられています。ちなみに大津道の沿線には、古市古墳群が位置しています。当時の王権が持つ力の大きさをアピールするルートになっていました。

竹内街道を西から東へと辿っていくと、二上山を囲むように2本のルートに分かれていることに気づきます。

神庭さん:推古朝にできた「大道」は現在、竹内峠を越えるルートとされていますが、穴虫峠を越えるルートを推す人もいます。その理由は、穴虫峠を越えるほうが道がなだらかだからです。しかし勾配が急だと思われている竹内峠も実際は難所は2箇所だけで、あとはなだらかな道なんです。そのため、かなり遠回りになる穴虫峠越えよりも竹内峠越えが有力だと考えられています。

そして、どの道も横大路につながります。

大和と河内を結ぶ交通路(古代の想定ルート)

館内にはパネルのほか、縄文時代から二上山の麓で人々が生活を営んできたことを証明する竹内遺跡の出土品なども展示されています。薄く割れる特性を持つサヌカイトからつくられた打製石器や縄文土器、弥生土器、埴輪などを見ていると、初めて歴史の面白さにふれた小学校の頃の記憶が蘇り、なつかしくなります。

神庭さん:近畿地方でサヌカイトが採れるのは二上山だけでしたから、縄文時代からサヌカイトを求めて人々は二上山をめざしたと考えられます。二上山は遠方からもすっきりその姿が見えて目印になりやすいですし。

竹内遺跡の出土品 竹内遺跡の出土品

ところで、人々はどう石を運んでいたのでしょうか? 交通機関のない時代に、重い石を運ぶことはとても困難だったのではと想像できます。

神庭さん:馬が渡来したのは古墳時代ですから、縄文・弥生時代は人間が担いで運んでいたのだと思います。昔の人は力持ちだったと言いますが、大変な重労働ですよね。そこで面白いのは、弥生時代になると石をそのままの形で遠方まで運ばなくてもいいように、二上山麓の人々が石器に加工し始めるんです。当時の石器を見ると3種類くらいの規格に分けられるので、分業制の流れ作業で大量生産をしていたのではと考えられます。

そんなに昔から効率良い生産制が成立していたとは驚きです。関西の人が商売上手だと言われるのは、古来より続くDNAなのかもしれないと思えてきます。

神庭さん:竹内街道について興味がある方は、ぜひ葛城市歴史博物館に来てください。私が在館している時は、声をかけてくだされば質問にも対応します。ここで興味を深めてから、各地を巡ってもらえると嬉しいです。

葛城市歴史博物館 葛城市歴史博物館

【葛城市歴史博物館】
所在地 奈良県葛城市忍海250-1
アクセス 近鉄御所線「忍海駅」から徒歩で約2分

竹内峠を越えて、聖徳太子が眠る森まで、
歴史を色濃く残す竹内街道を辿る。

長尾神社 長尾神社

葛城市歴史博物館を後にして、竹内街道の始点である長尾神社から再開です。雨が降る中、葛城市役所産業観光部商工観光プロモーション課の増田さんが合流して案内してくださいました。

葛城市役所 増田さん 葛城市役所 増田さん

増田さん:横大路と竹内街道の境にある神社だと言われていますが、実は道が少しだけ南北にずれています。正確には、ここは竹内街道の東端と長尾街道の南端が重なる地点で、横大路の西端は長尾街道の数メートル北で重なっています。

国道166号線が横大路とほぼ重なる ※マップの下が北側 国道166号線が横大路とほぼ重なる ※マップの下が北側

増田さん:伊勢神宮と同じ神様を祀っていて、この地域で一番格式高い神社です。3月には豊作を願う「おんだ祭り」、10月にはだんじりがでる「秋祭り」など伝統行事が続いています。

一の鳥居 一の鳥居

境内から鳥居をのぞくと、まっすぐな道の300mほど先に一の鳥居が小さく見えます。私たちは二の鳥居から入ってきたようです。
増田さん:蛇の伝承が伝わる三輪明神は一の鳥居の方角にあり、三輪明神が蛇の頭で、この長尾神社が蛇の尾だと言われています。三輪明神は、横大路の東端として最初に紹介した奈良県桜井市にあるため、とても大きな蛇ですね。

また長尾神社は交通の要衝に位置することから、現在でも「交通の神様」として慕われているそう。

増田さん:横大路と竹内街道、長尾街道のほか、高野山に続く高野街道も近いなど、多くの街道とつながっているため、ご利益のある場所として旅の安全祈願に訪れる人も多い神社です。

【長尾神社】
所在地 奈良県葛城市長尾471
アクセス 近鉄南大阪線「磐城駅」から徒歩で約5分
さて、葛城市歴史博物館で峠越えルートの話題に上がった竹内峠にやってきました。竹内街道と名付けられた由来はこの峠にあります。国道166号線に接しており、ちょうど奈良県と大阪府の県境です。ここから東が奈良県であることを記した石柱や、鶯の関跡の文学碑が建っています。

石柱と文学碑 石柱と文学碑

鍋島さん:明治元年、堺役所が大阪府から独立して堺県が発足しました。その中で約4年間だけ奈良県を堺県が併合していた時期があって、竹内街道の重要性が増したことでこの竹内峠の難所を荷車が通れるようになだらかに整備したんです。奥の大きな石碑は、その工事が完了した直後の明治19年に建てられたものです。道の整備が終わってすぐ堺県は廃止され、今の県境に戻りました。手前の細い石碑は奈良県が再設置された後の大正9年に奈良県が建てた県境碑です。

ここで、街道から少し外れて竹内街道敷設から100年が過ぎた奈良時代に建てられたという鹿谷寺跡をめざします。

お地蔵様

鹿谷寺跡に向かうため二上山の麓を歩くと、大きなお地蔵さまがありました。よく見ると左右に文字が彫ってあり、道標も兼ねているようです。

鍋島さん:見えにくくなってしまっていますが、右に“つぼさか”左に“たいま”と彫ってあります。それぞれ壷阪寺と當麻寺のことで、旅人に旅籠がある場所を案内しています。この道標は昔の人が1日に歩いたとされる約40㎞までを目安にすると、大阪市内からここまで約30㎞ですから、ちょうど宿を決めたい地点ですね。

地図を見ると、當麻寺までは約4㎞ですが、壷阪寺まではあと約20㎞もあります。

鍋島さん:壷阪寺までは遠すぎますよね。だから暗に、峠は険しいけれど近くに當麻寺があるから、そこで今晩の宿を決めましょうと促す道標だったのではと考えられます。

山道

ここから鹿谷寺跡までは少し急な山道になります。

スタート地点

スタート地点に木の杖が置いてあり、こうした心遣いは奈良時代から続いているのかもしれないなと想像してほっこりした気持ちになりました。

丸太で組まれた階段

丸太で組まれた階段を10分ほどのぼり、最後は岩肌を越え、鹿谷寺跡に到着。冬でしたが汗だくです…。

石切り場

鍋島さん:ここは古代の石切り場でした。今も残る凝灰岩の岩肌を見ると、ノミで石を切り出した跡が見て取れます。もともとはこの辺りすべてが岩盤で、都や寺院をつくるためにここから石を運んだんですね。奈良時代には河内地域に寺院をつくる技術者が多く住んでいて、その中には遣隋使や遣唐使とともに大陸からやってきた石材加工の職人もいただろうと言われています。
なるほど、岩肌には立方体に石を切り出したような跡がいくつもあります。

十三重石塔 十三重石塔

鍋島さん:十三重石塔は岩壁を切り残してつくられたものと考えられています。(十三重石塔を指して)おそらくこの辺りで石材を切り出す仕事が終わり、残った岩壁で巨大な石塔と石窟に線刻三尊仏をつくることになったのでしょう。またこの石塔は、長安の都にあった大雁塔や小雁塔に似せてつくられたと考えられており、日本では類を見ない外観です。大陸文化を伝えた遣隋使や遣唐使の往来を示す史跡と言えますね。

約5.1mある十三重石塔の最上層付近は風化が激しく、原形は不明とのこと。歴史の長さに気が遠くなり、畏れすら感じます。

岩窟

十三重石塔の右奥には、金網と有刺鉄線に守られた形で、岩窟に彫りこまれた線刻の三尊仏坐像が鎮座していました。金網の隙間から撮影した写真を見ると、三体の仏像がうっすらと確認できます。
鍋島さん:夕日のかかる刻が見やすいと言われていますが、今日のように曇っている時も見やすいですね。中央の少し上に仏様の顔があることがわかりますか? そこを頼りにすると、左右にも同じ高さに仏様の顔があり、蓮の花びらの上に座禅を組む三体の姿が見えてくるでしょう。手は、阿弥陀如来の手印を結んでいます。

鹿谷寺跡まで登るのは少し大変でしたが、ここでしか見られない景色があります。
奈良時代の風を感じられる場所でした。

【竹内峠】
所在地 奈良県葛城市~大阪府太子町(住所としては「大阪府南河内郡太子町山田」となっています)
アクセス 近鉄南大阪線「上ノ太子駅」から路線バスに乗り「六枚橋東」で下車、徒歩で約60分。
車の場合:南阪奈道路「太子インター」または「羽曳野東インター」で降りて約10分、万葉の森駐車場から徒歩で約20分。
さて、竹内街道に戻って西に行き、聖徳太子が眠る叡福寺にやってきました。

叡福寺 叡福寺

多くの偉業を成し遂げたことで誰もが知る聖徳太子ですが、この竹内街道・横大路の敷設にも大きく貢献しています。それは遣隋使として派遣された小野妹子が、東西南北に広く道が整備された随の都の様子を聖徳太子に報告したことがきっかけだったと考えられています。

聖徳太子は、隋との国力の圧倒的な違いに危機感を覚え、外国と対等につきあうためには国づくり、つまり道の整備が必要だと、叔母である推古天皇に進言したことでしょう。そうしてつくられた官道が、竹内街道・横大路です。道幅が広くまっすぐで、道中から歴代の王陵である巨大古墳を紹介できる官道は、外国からの使者に国力を示すことに成功し、日本は「国家」として認められて外交関係を築くことができたのです。

叡福寺は聖徳太子ゆかりの地として歴代の天皇や権力者に重んぜられるとともに、太子信仰の霊場としても栄えてきました。

聖徳太子御廟 聖徳太子御廟

新しく献燈された燈篭があり、現代も深く信仰する人が多いことを感じられます。

横穴式石室

鍋島さん:後方の円墳とつながる3段目の屋根の奥に横穴式石室があり、中には聖徳太子とその妻、母の3人が眠っているとされています。

石碑

鍋島さん:聖徳太子三骨壱廟窟偈文碑は江戸時代につくられた石碑で、石室内に遺されていたとされる聖徳太子の遺言が彫られています。偈文には「自分は妻と母と一緒に、ここに葬られる。後の人々はここを弥陀三尊の聖地として大切にしてほしい」という太子の願いが書かれています。また最後の一文に、一度参詣すれば極楽浄土へ行けると書かれていることから、叡福寺を参詣する人が後を絶ちません。
太子廟窟偈碑の後ろを見ると、円墳を守るように石碑が二重に囲んでいることに気づきます。

鍋島さん:これは結界石といって聖域を示すものです。内側の碑は奈良時代から平安時代に凝灰岩でつくられたもので、弘法大師が一晩で建てたというのは叡福寺の七不思議の一つです。外側の碑は花崗岩(かこうがん)製で、江戸時代に建てられたものです。聖徳太子と結縁したいと熱望した人々が資金を集めてつくった石碑で、浄土三部経という極楽往生の教えを記した経典の文字がびっしりときざまれ、1枚1枚に建てた人の名前が彫ってあるのが見えます。

石碑

【叡福寺】
所在地 大阪府南河内郡太子町太子2146
アクセス 南大阪線「上ノ太子駅」から路線バスに乗り「聖徳太子御廟前」下車すぐ
車の場合:南阪奈道路「太子インター」または「羽曳野東インター」で降りて約5分

叡福寺の公式サイトはこちら

「日本の顔」となり外交の道を開いた経済の中心地、堺市へ。

金岡神社 金岡神社

竹内街道をさらに西へ行き、金岡神社にやってきました。ここから先は、堺市博物館学芸員の白神さんと堺市役所文化観光局歴史遺産活用部文化財課の冨島さんが、雪が降る中、案内してくださいました。

堺市博物館学芸員 白神さん 堺市博物館学芸員 白神さん

堺市役所 冨島さん 堺市役所 冨島さん

冨島さん:竹内街道と難波大道が交差する場所ということで来ましたが、正確には難波大道に接していません。難波大道があったとされるルートは、この神社より少し東になります。

この金岡神社は、道が交わる交通の要衝だったからというより、村の鎮守として建てられた神社だろうとのこと。こじんまりとした神社ながら、樹齢900年と言われる楠木や、樹木の根に守られるように建つ祠などが残されており、歴史の長さを感じます。

手水場には「大道町」と彫られていました。 手水場には「大道町」と彫られていました。

樹齢900年の楠 樹齢900年の楠

案内板

白神さん:案内板に書かれていることはあくまで伝承で、資料がないため学術的な裏付けはありません。この地帯は水の便が悪く、豊かな地ではなかったはずなんです。平安時代に開発されてから人が住むようになったのかもしれませんが、「なぜここに?」と違和感が多い不思議な神社です。絵師の巨勢金岡がこの神社の名前の由来なのですが、巨勢氏は奈良県御所市を本拠とした古代豪族ですし、巨勢金岡の大和絵も残っていません。またここは複数の神様が祀られた合祀神社で、その中の住吉三神は海の神様なので、海から離れたこの場所に祀られているのも疑問です。

冨島さん:あくまで、村の鎮守として建てられた神社なのでしょうね。毎年8月には、金岡神社に大太鼓を奉納する「大太鼓担ぎ」というこの地域特有の原初的な行事が行われます。地域の人々に愛され、守られてきた神社だとわかります。

【金岡神社】
所在地 大阪府堺市北区金岡町2866番地
アクセス 大阪メトロ御堂筋線「新金岡駅」または、南海高野線「白鷺駅」から徒歩で約15~20分
車の場合:「太子インター」または「羽曳野東インター」で降りて約3~5分

金岡神社の公式サイトはこちら

仁徳天皇陵古墳 仁徳天皇陵古墳

渡来人に一番見せたかったであろう場所、百舌鳥古墳群にある仁徳天皇陵古墳にやってきました。日本最大の前方後円墳で、世界文化遺産にも登録されています。全長は約480mあり、その周りを墳丘の周りを水を湛えた濠が三重に囲み守っています。鳥居があるのは古墳の前方、つまり方墳側です。

水を湛えた濠 水を湛えた濠

白神さん:現在は濠に水がたっぷり張られていますが、古墳がつくられた当時はもっと水が少なかっただろうと言われています。水を抜くと裾が広がりますから、本来は全長500mを超えると考えられます。

仁徳天皇は『古事記』や『日本書紀』に記される日本の第16第天皇で、聖帝と称されました。
 
白神さん:しかしそれらは神話や伝説として記されたもので、歴史的な証拠となる資料はありません。つまり実在の人物かどうかも定かではなく、この古墳も仁徳天皇が眠っているという証拠はないのです。仁徳天皇陵古墳がつくられたのはおそらく5世紀半ばだろうと言われていますが、『日本書紀』によると仁徳天皇が亡くなったのは399年ということからも時代が合わず、仁徳天皇の子供である履中天皇の古墳の方が先につくられているのも違和感があります。

ミステリアスな話ですね。この巨大古墳をつくるのには15年8か月かかっただろうと試算されているそうで、そのために多くの人材や資材が投じられたことを思うと、仁徳天皇という存在の大きさや畏敬の念の強さを感じます。

古代の想定海岸線

冨島さん:この資料は、古代の想定海岸線です。現在は埋め立てられて陸地はもっと西へ広がっていますが、この地図を見ると海に近い場所に古墳群があります。面白いのは、巨大な前方後円墳が海に側面を向けてつくられていることで、外国から来た使者に古墳をより大きく見せるためであったと考えられます。「こんなに大きな古墳をつくる国力があるんだ」と思わせることは、外交関係を築くために重要だったのでしょう。また、この仁徳天皇陵がある百舌鳥古墳群と、東の内陸に位置する古市古墳群をつなぐ道も古代からあり、その道を整備して竹内街道になったとも考えられます。そしてこの地図を見ると、次に向かう開口神社がある場所は海の中ですから、当時の竹内街道のスタート地点はここだったとも考えられます。

【仁徳天皇陵古墳】
所在地 大阪府堺市堺区大仙町
アクセス JR阪和線「百舌鳥駅」から徒歩で約8分

仁徳天皇陵古墳の情報はこちら

開口神社 開口神社

さあ、とうとう竹内街道の西端、開口神社まで辿り着きました。

冨島さん:堺の港の入り口です。金岡神社と同様、複数の神様が祀られている合祀神社ですが、もとはもっと敷地が広く、行基により建立された念仏寺もある神仏習合の地だったんです。明治政府が出した神仏分離令によって寺院がなくなってしまったんですね。

大寺さん

現在も地元の人々が「大寺さん」と呼ぶのは、念仏寺の通称が「大寺」だったことに由来するそうです。資料を見ると、以前は三重塔も建っていたことがわかります。

手水舎

戦火をくぐり抜け残ったという手水舎には、「宝永7年」と刻まれています。

針供養の針塚の横に刃物供養塔があり、古代より刃物の一大産地である堺市特有だなと感じます。
合祀神社であるとともに、大阪府立泉陽高等学校発祥の地、堺の幼稚園教育発祥の地などの石碑も建ち、さまざまなジャンルにおいて大切な地となっているようでとてもにぎやかです。

撮影スポット

すぐ裏にある商店街と面した鳥居は、撮影スポットになっていました。
冨島さん:すぐ北に東西に伸びる大小路という道があり、その北は摂津国、南は和泉国でした。2つの国の境にあるから、ここは「堺市」と名付けられたんですね。

白神さん:そしてこの開口神社は、北と南をあわせても代表となる「堺の総鎮守」です。村の鎮守というより町の鎮守で、遠方からも人が参詣に来ていました。堺市は「海の堺、陸の今井」と言われるように外交の入り口で、海と陸のハブ的役割を果たしており、開口神社はその中心地だったんです。たくさんの神様や、かつては寺院も集まっていたのは、人々の心の拠り所だったからじゃないかなと思っています。

商店や住宅に囲まれたにぎやかな環境にあり、多種多様な神様が集合している開口神社。今も昔も人々の活力が集まっているようで、明るい気持ちになれる場所でした。

【開口神社】
所在地 大阪府堺市堺区甲斐町東2丁1-29
アクセス 南海本線「堺駅」から徒歩で約10分

開口神社の公式サイトはこちら

現在も続く「経済の道」。
歴史を継承しながら人々の心をつなぎ、未来へ。

ここまで横大路から竹内街道を辿り、強く感じたことがあります。それは、この道が時代を越えて残ってきたのは、便利だからという理由だけでなく、人々の想いが生まれ、交差してきた道だからではないかということ。外交のために整えられた道が、各地から人や物を運び込み新たな文化を発展させる道となり、信仰を広める道となり、産物や加工品を流通させる庶民の道となり、歴史を動かしてきたのです。

人が道をつくり、道が新たな価値を生み、心をつなぐ。壮大なドラマが、この道には横たわっていました。
そして現在、道は県境を越えて自治体をつないでいます。

鍋島さん:日本遺産に選定されてから、奈良県と大阪府が強く連携を取るようになりました。こうした自治体の動きは全国的にも珍しいことです。先日も竹内街道沿いの地域事業者が参画したイベントを開催し、多くのお客様でにぎわいました。この先、例えば奈良の特産品を使って大阪の和菓子屋さんが新商品をつくり竹内街道の名物になるなど、新たなコラボレーションが生まれたらいいな、など夢は広がります。

「経済の道」は今も続いているのですね。

鍋島さん:2025年春には竹内街道歴史資料館がリニューアルし、竹内街道の1400年に渡る歴史を近年の発掘調査成果や解読を進めた古文書などの新しい調査結果を反映した展示も加わります。まずは地域の人々がこうした歴史を知って誇りを持ち「伝統をつなぐために町並みを守りたい」と思ってもらえると嬉しく思いますし、そうした魅力が全国に伝わってほしいと願っています。

子どもから大人まで、歴史を大切にしながら新たな縁をつないでいく――。
それも古くからある「道」の役割なのだろうと感じ、この先どんな歴史を紡ぎ未来へと続いていくのかが楽しみになりました。

【竹内街道歴史資料館】2025年4月 リニューアルオープン
所在地 大阪府南河内郡太子町大字山田1855
アクセス 近鉄長野線「喜志駅」又は近鉄南大阪線「上ノ太子駅」より金剛バスに乗車、「六枚橋東」で下車徒歩で約15分。
【本稿で紹介した構成文化財】 仁王堂八幡神社
八木札の辻
今井町
長尾神社
竹内峠
鹿谷寺跡
叡福寺
金岡神社
百舌鳥古墳群:仁徳天皇陵古墳
開口神社
横大路
竹内街道

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