「信長公のおもてなし」が息づく戦国城下町・岐阜STORY #006

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岐阜城からの眺め 岐阜城からの眺め 岐阜城からの眺め
岐阜城からの夜景 岐阜城からの夜景 岐阜城からの夜景
長良川の鵜飼漁の技術 長良川の鵜飼漁の技術 長良川の鵜飼漁の技術
正法寺(岐阜大仏) 正法寺(岐阜大仏) 正法寺(岐阜大仏)
船上の遊宴文化 船上の遊宴文化 船上の遊宴文化
岐阜まつり 岐阜まつり 岐阜まつり

みどころspot

  • 岐阜城と城下町

    日本遺産「信長公のおもてなし」3つのキーワード

     戦国時代、織田信長公の義父にあたる斎藤道三公は井口(いのくち)と呼ばれる城と町を築きました。1567年、その町を手に入れた織田信長公は、この地を岐阜と名付けるとともに「天下布武」を掲げ、天下取りの夢に邁進します。冷徹非道、戦上手、改革者、破壊者等のイメージで語られることが多い信長公ですが、岐阜城やその城下で行ったのは戦いではなく、以外にも手厚いおもてなしでした。

     そのおもてなしは、

    意外な演出による驚き[Surprise]、

    豪華な接待による満足[Satisfaction]、

    見どころ満載のまちの壮観[Spectacle]

    の【3つのS】がポイントになっています。

    エエトコタント岐阜市 日本遺産3つのShinzui

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  • 山麓居館復元イメージCG

    岐阜城でおもてなし ー山麓の居館ー

     岐阜城の山麓に築かれた館は、訪問者が最初に訪れる場所で、そこでは建物や庭の見学、踊りと歌、オヤツや食事、贈り物等の接待が行われました。元亀3年(1572)に日本布教長フランシスコ・カブラルが来訪した際、信長公は歓迎の晩餐会を開きますが、食事までの待ち時間に自ら果物を持っていくとともに、庭にいる鳥を殺させて料理に出すよう命じています。
     また天正2年(1574)に岐阜を訪れた堺の茶人・商人の津田宗及(つだそうぎゅう)に対しては、彼一人のためだけの茶会を開き、美濃特産の干柿を含んだ豪華な料理を振る舞いました。堺の代表的な人物であった宗及の扱いは破格で、ご飯のおかわりは信長公自らがよそっています。
     近年の発掘調査では、複数の庭園や金箔飾り瓦が見つかっており、居館の姿がイメージできるようになってきました。

    関連する構成文化財
    ・岐阜城跡【国史跡】
    ・史跡岐阜城跡(織田信長居館跡)出土金箔飾り瓦【市重要文化財】

    国史跡岐阜城跡

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  • 岐阜城復興天守と石垣

    岐阜城でおもてなし ー山上の城郭ー

     信長公は軍事施設である山上にも人を招きました。永禄12年(1569)、ポルトガルの宣教師ルイス・フロイスは柴田勝家の案内で山上を訪れ、豪華な座敷でお茶と食事をいただきましたが、その際も信長公が膳を運び給仕を行いました。フロイスは、膳を頭上に掲げて感謝の気持ちを示したところ「汁をこぼさぬよう、まっすぐに持つように」と信長公に声をかけられたことを記しています。
     なお、信長はフロイスとの別れ際に次のように告げています。「美濃へは何度でも訪れよ」と。

    関連する構成文化財
    ・岐阜城跡【国史跡】

    国史跡岐阜城跡 山上の城跡

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  • 山上からの眺め

    岐阜城でおもてなし ー山上からの眺めー

     慶長5年(1600)の関ケ原の戦い以降、江戸時代を通じて岐阜城の天守は失われたままでしたが、明治43年(1910)に初代復興天守が建設されました。昭和18年(1943)に一度焼失するも、昭和31年(1956)に2代目復興天守が再建され、現在に至っています。濃尾平野を一望する天守からの絶景は、信長公自慢の風景で、昔も今も大きな見どころです。
     永禄12年(1569)に岐阜を訪れた京都の公家・山科言継(やましなときつぐ)は、岐阜滞在中に「山の城一覧の望(山上の城も見たい)」とお願いし、晩餐会に招かれました。食事の後に城内の見学をしていますが、山上からの眺めについて「険難の風景、言語に説くべからず(険しい風景は、言葉にすることができない)」とその感想を記しています。
     おもてなしの舞台となった長良川・金華山・城下町の景観は国重要文化的景観に選定されています。

    関連する構成文化財
    ・岐阜城復興天守【国重要文化的景観】
    ・長良川中流域における岐阜の文化的景観【国重要文化的景観】

    岐阜市観光情報 岐阜城天守閣

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  • 長良川の鵜飼

    鵜飼でおもてなし ー長良川の鵜飼ー

     信長公は、長良川や金華山を背景に行われる鵜飼を接待の場として用います。
     永禄11年(1568)に信長公の元を訪れた武田信玄の使者、秋山伯耆守虎繁(あきやまほうきのかみとらしげ)は山麓での食事や能の鑑賞の後、長良川での船による鵜飼観覧に招かれました。信長公は武田信玄に気を遣い、獲れた鮎を自ら確認して甲府に届けさせています。また信長公は「鵜匠」の名称を与え、禄米十俵を給して保護したと伝えられており、その後も徳川家康・秀忠親子が鑑賞しこれを称えたことで、鵜飼は時代を通じて大事に守られてきました。松尾芭蕉は「おもしろうてやがて悲しき鵜舟かな」と有名な句を残しています。

    関連する構成文化財
    ・長良川の鵜飼漁の技術【国重要無形民俗文化財】
    ・長良川鵜飼用具【国重要有形民俗文化財】

    ぎふ長良川の鵜飼

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