きっと恋する六古窯─日本生まれ日本育ちのやきもの産地─STORY #050
2025.03.19
一般
六古窯千年、つづけ万年
終わりはないけど、始まりはある。
-六古窯のはじまりについて-
日本人とやきものの関わりは縄文時代にさかのぼり、世界で最古級の縄文土器の生産が約16,000年前に始まったと言われています。食糧の保存や調理などの生活用具や祭祀用具など、私たち人間の暮らしに必要不可欠なやきものづくりが、脈々と営まれ文明を築き、分野を超えて、さまざまな文化を深めてきました。
現在まで、受け継がれてきた歴史と精神、技術は長きに渡りますが、物事にはいつだって始まりがあるものです。六古窯各産地の窯で、どのように陶磁器が生産され、なぜ続いてきたのか、遠い過去に想いを巡らせました。
現在まで、受け継がれてきた歴史と精神、技術は長きに渡りますが、物事にはいつだって始まりがあるものです。六古窯各産地の窯で、どのように陶磁器が生産され、なぜ続いてきたのか、遠い過去に想いを巡らせました。
古代から中世前期まで続いた猿投窯の技術により、愛知県をはじめ周辺窯業地へと伝播し影響を与えました。
その一つ、瀬戸は、千余年のやきものの伝統を誇り、陶磁器一般を「せともの」と指すことからうかがえるように、古くから続くやきもののまちです。周囲に広がる丘陵地は、やきものづくりに欠かせない良質な陶土や木々に恵まれておりました。
瀬戸焼を語る上で、加藤四郎左衛門景正(通称:藤四郎)は重要な人物です。藤四郎が貞応2年(1223)に永平寺を創建する曹洞宗の開祖道元禅師に従って中国へ渡り、やきものの技法を学んで帰国しました。その後、やきものに適した土を求め全国を回る中、仁治3年(1242)瀬戸の祖母懐地域に良い土を発見し、瀬戸で窯を開き、生産を始めたと言われています。
その一つ、瀬戸は、千余年のやきものの伝統を誇り、陶磁器一般を「せともの」と指すことからうかがえるように、古くから続くやきもののまちです。周囲に広がる丘陵地は、やきものづくりに欠かせない良質な陶土や木々に恵まれておりました。
瀬戸焼を語る上で、加藤四郎左衛門景正(通称:藤四郎)は重要な人物です。藤四郎が貞応2年(1223)に永平寺を創建する曹洞宗の開祖道元禅師に従って中国へ渡り、やきものの技法を学んで帰国しました。その後、やきものに適した土を求め全国を回る中、仁治3年(1242)瀬戸の祖母懐地域に良い土を発見し、瀬戸で窯を開き、生産を始めたと言われています。
常滑も瀬戸と同じ猿投窯の系譜にあたりますが、常滑は釉薬を使わない焼締陶器が特徴です。大型の壺や甕の生産を得意とし、高い技術が越前や信楽、丹波をはじめ全国のやきもの産地に影響を与えました。
また、明治時代に下水道や鉄道の整備に必要な土管の国内需要が急増すると、常滑では型を使って量産することに成功し、正確で高品質な土管は近代日本の発展を支えました。
また、明治時代に下水道や鉄道の整備に必要な土管の国内需要が急増すると、常滑では型を使って量産することに成功し、正確で高品質な土管は近代日本の発展を支えました。
越前焼の歴史をひも解くと、その誕生は今から約850年前の平安時代末期に遡ります。元々須恵器を焼いていた地域でしたが、平安時代末期に常滑の技術を導入して焼締陶器を作り始めました。
最初に窯が築かれたのは、現在「越前陶芸村」のある越前町小曽原だったと言われています。壺、甕、擂鉢などの特徴から、初期の越前焼の生産は常滑からこの地まではるばるやって来た陶工の集団が行っていたものと思われます。
最初に窯が築かれたのは、現在「越前陶芸村」のある越前町小曽原だったと言われています。壺、甕、擂鉢などの特徴から、初期の越前焼の生産は常滑からこの地まではるばるやって来た陶工の集団が行っていたものと思われます。
丹波焼は、兵庫県丹波篠山市今田町立杭を中心に成立しており、その発祥は平安時代末期に遡ることがわかっています。
草創期には常滑の影響を受け、常滑や越前窯と同じ穴窯を備え、焼き締めで壺・甕・片口など、庶民の求めに応じたやきものの生産が盛んに行われていました。
また、登窯導入とともに取り入れられた「蹴りロクロ(日本では珍しい立杭独特の左回転ロクロ)」といった独特の技術も生み出されました。
草創期には常滑の影響を受け、常滑や越前窯と同じ穴窯を備え、焼き締めで壺・甕・片口など、庶民の求めに応じたやきものの生産が盛んに行われていました。
また、登窯導入とともに取り入れられた「蹴りロクロ(日本では珍しい立杭独特の左回転ロクロ)」といった独特の技術も生み出されました。
信楽焼は、鎌倉時代後期、常滑の技術が伝わり、開窯当初は、窯構造も常滑特有の「甕窯」と呼ばれる窯に類似しており、壺、甕、鉢などのやきものづくりが始められました。
戦国時代には茶陶を作り、近代以降は茶陶に限らずタイルや植木鉢、たぬきの置物など、古琵琶湖層から採れる可塑性の富む粘土のおかげであらゆる大きさのやきものを生産する歴史が展開してきました。
戦国時代には茶陶を作り、近代以降は茶陶に限らずタイルや植木鉢、たぬきの置物など、古琵琶湖層から採れる可塑性の富む粘土のおかげであらゆる大きさのやきものを生産する歴史が展開してきました。
一方、備前は古墳時代に朝鮮半島から伝わった須恵器の製作技術をもとに発展した無釉の焼締陶器です。平安時代末期に備前市伊部の地で生産を開始した備前焼は、鎌倉時代から壺、甕、擂鉢を中心とした実用的な製品を生産します。室町時代末期から安土桃山時代にかけては、茶道具として人気を博し、名だたる茶人に重宝されました。その後は、細工物、土管、煉瓦など、需要に応えた新たな製品を展開しました。また、戦後には金重陶陽をはじめ、5名もの備前焼作家が人間国宝に認定され、現代でも多くの愛好者がいます。
千年以上続いてきたのは、広域に独自の流通圏を得ることのできる海運、市場に近い立地や消費者のニーズ・時代にあわせ、生活雑器、茶陶、建築・衛生陶器など、多種多様なやきものを作り出してきたからではないでしょうか。
中世から現在も続き、今を生きるわたしたちが、身近に触れることができるのも、ものづくりの精神を今もなお引き継ぐ「人」、途絶えることがなかった「火」、やきものに適した豊富な「土」、これらが重なり合って生み出されたものであろうと気づかされました。
これから先も、終わることのない物語を六古窯は描き続けていきます。
中世から現在も続き、今を生きるわたしたちが、身近に触れることができるのも、ものづくりの精神を今もなお引き継ぐ「人」、途絶えることがなかった「火」、やきものに適した豊富な「土」、これらが重なり合って生み出されたものであろうと気づかされました。
これから先も、終わることのない物語を六古窯は描き続けていきます。