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#096 女性とともに今に息づく女人高野
金剛寺の境内
金剛寺は、奈良時代に和泉国出身の行基(ぎょうき)が創建したと伝わる。一時は衰退したが、同じく和泉国出身の僧・阿観(あかん)によって平安時代末期に再興されている。阿観は高野山で修行した後に金剛寺を整備し、今日まで続く行事である「正御影供」を始めた。平安時代末期、金剛寺の支援者となったのは後白河上皇の妹である「八条女院(はちじょうにょいん)」である。名は暲子(しょうし)といい、鳥羽上皇と美福門院の娘である。彼女は両親から多くの荘園を受け継ぎ、これらは「八条院領」と呼ばれる。そして、その経済的基盤により両親の菩提を弔い、皇女として政治的にも影響力を持つようになった。金剛寺も彼女の祈願所となり皇族との結びつきを強めていった。八条女院に仕える女房だった浄覚・覚阿姉妹が出家して阿観に帰依し院主となったこともあり、金剛寺は女人高野と呼ばれるようになった。ちなみに多宝塔の下から発見された白磁の骨壷の主は、八条女院とも言われている。
『河内名所図会』に「女人の高野と称号し給ふ」と紹介された、ストーリーの中核をなす寺院である。金剛寺境内は、高野街道に近く、隆盛期には天野谷に100程度の子院から構成されていた。空海も修行をした寺として伝えられ、畿内最南端にありながら京の朝廷との関係が強く、後白河院の妹、八条女院の祈願所とされた。
【文責】 河内長野市教育委員会 文化財保護課
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