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#096 女性とともに今に息づく女人高野
女人道
明治5年(1872)に、全国寺社の女人禁制が廃止されたものの、高野山では独自の山規によって明治時代後半の日露戦争頃まで、女性が居住することはできなかった。これは弘法大師空海の時代から高野山は修行の場であったためであり、女性蔑視ではなく僧侶らが修行に集中できるよう、女人禁制がとられていた。高野山内に入れない女性たちは、高野山外周の尾根道を歩いて「ひと目、壇上伽藍(だんじょうがらん)や奥之院(おくのいん)を見てみたい」「修行をしている我が子の姿を見たい」という願いを叶えていた。江戸時代後期の『高野山独案内(こうやさんひとりあんない)』の絵図には、京大坂道の出入り口にある不動坂口の女人堂から嶽弁天(だけべんてん)を経て大門へ至る道に「にょにん道」という記述がある。また、女人堂の石造地蔵尊の銘に「女人くまの道」とあることから、不動坂口女人堂から嶽弁天を登山し、大門から熊野に向かったのだろうと、想像できる。
明治後半に女人禁制が解かれるまで、高野山内へは女性が立ち入ることはできなかった。それまでの間、女性たちが、「一目壇上伽藍や奥之院を見てみたい。」、「修行をしている我が子の姿を見たい。」と、高野山の外周の尾根道に拓いたのが、女人道である。
【文責】 高野町教育委員会
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