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#100 中世日本の傑作 益田を味わう

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  • 有形文化財
  • 登録有形文化財
  • 記念物
  • 史跡
  • 名勝
  • 室町時代
  • 江戸時代
  • 島根県益田市
  • 建造物

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文化財体系 有形文化財/登録有形文化財/記念物/史跡/名勝
年代 室町時代
江戸時代
所在地 島根県益田市
分野 建造物

概要

【医光寺の共通の説明】かつて医光寺の西側に崇観寺があった。崇観寺は南北朝時代に斎藤長者の妻直山妙超により開かれたと伝わり、益田兼見は応安4年(1371)に崇観寺の本尊の釈迦如来坐像の大檀那となり、永徳3年(1383)の置文(家訓)の中で、崇観寺を諸山としたこと、益田家として特に大切にすべき寺院と位置付けたことなどを記している。
戦国時代に崇観寺はなんらかの理由で衰退し、戦国時代初期の益田家当主益田宗兼が医光寺をその後進寺院として興隆させた。
【医光寺庭園】臨済宗医光寺の中世に築かれた庭園である。雪舟の作と伝わる。
鶴池に亀島を配し、石組みで枯滝を表す。中国の神仙世界の一つ蓬莱山を表し、長寿への願いが込められた庭と考えられている。
【医光寺中門】医光寺の中門である。四脚門で、切妻造、桟瓦葺とする。本柱は丸柱、控柱は角柱とし、頭貫で固め、出組組物で軒を支える。頭貫に亀甲紋を地紋彫りし、虹梁や木鼻など随所を彫刻で華やかに飾り、境内景観を特徴づけている。

ストーリーの位置づけ

臨済宗医光寺の西隣にかつてあった臨済宗崇観寺は室町幕府の諸山に列せられた重要な寺院。益田氏も諸山にするために運動し、特に「賞翫」=大切にすべき寺院と位置づけている。崇観寺が衰退したあと、医光寺がこれに替わって重視された。
庭園は雪舟の作庭と伝わり、萬福寺庭園とは趣を異にするが、四季折々の美しい姿を楽しむことができる。
開山堂の仏像群は、南北朝・室町の優品ばかりである。

【文責】 益田市教育委員会文化財課

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