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2023.08.08
特集
日本遺産巡り#16◆近世日本の教育遺産群 -学ぶ心・礼節の本源-
誰もが「学び」にアクセスできた、近世の個性豊かな学校をめぐる
その背景には、日本各地で設立された藩校や郷学、私塾、寺子屋といった、さまざまな階層を対象とした学校の存在がありました。そして、人々が学校で身に付けた教養や礼節は、明治維新以降の近代化の原動力となるとともに、現在の日本人の気風にも受け継がれています。
それらを、茨城県、栃木県、岡山県、大分県にまたがる日本遺産「近世日本の教育遺産群─学ぶ心・礼節の本源─」として認定されています。
教育遺産世界遺産登録推進協議会の藤尾隆志さんに、近世日本で学びの場が全国に広がったわけ、そして日本遺産の「近世日本の教育遺産群」として指定されている4つの学校の特徴や見どころについて解説していただきました。
「学びたい!」 人々の向学心がベースにあった近世の教育爆発
藤尾隆志さん|藩主の来館や特別な行事のみ開門された弘道館の正門前で
藤尾さん:現存する日本最古の学校である足利市の「足利学校」、近世最大規模の藩校(藩士の学校)である水戸市の「弘道館」、郷校(領民のための学校)として名高い備前市の「閑谷学校(しずたにがっこう)」、身分や年齢、学歴を超えて生徒が集まる私塾の代表格である日田市の「咸宜園(かんぎえん)」と、学校にまつわる文化的要素が中心となっています。
4か所とも「学校」ではありますが、生徒の属性、学ぶジャンルが異なり、近世の日本人が多様な学びに触れられたことを示しています。
――近世日本で学びの場が広がった理由は、どのようなところにあるでしょうか。
藤尾さん:戦乱の世が終わり、「泰平の御代」と呼ばれる平和な時代が訪れたことが、一つの要因と言えそうです。1637年の島原の乱以降、幕末の動乱まで社会は安定し、法と組織が整備された「文書社会」へと移行していきました。時代の流れに伴い、各藩主や教育者は武士や領民の読み書きの能力を高めようと、学校をつくった。それが、教育現場の広がりにつながったのです。
その結果、人々は身分や年齢、地域を超えて多様な知識と教養を習得し、礼儀作法といった規範が社会で共有されていきました。
――情報網がとぼしい時代に教育の価値が伝わり、学校が全国に広がったことに驚かされますね。
藤尾さん:本当にそうですね。平和な世の中になり、書物を読みたい、新しい世界を知りたい、知識をつけて働きたいといった「学びへの意欲」が社会的に高まっていたのだと思います。実際に、遠方から多くの書物を求めて足利学校に訪れた人々、その名声を聞き、閑谷学校へ視察に来ていた人々の存在が、記録からもわかっています。
さらに、文書社会を生き抜こうとする藩主は、人材育成の必要性を強く感じていました。民衆の意欲と藩主の意向が重なり合うことで、教育と学びという文化が醸成されていったのだと思います。
――学校での教育内容は、幕府によって定められていたのでしょうか。
藤尾さん:本幕府が運営する「昌平坂学問所」のような教育機関では、江戸幕府の官学である朱子学が中心に学ばれていましたし、藩校や郷校でも朱子学を含む儒学が中心に学ばれていました。しかし、義務教育ではなかったため、学びの方針は学校運営者や学者に任され、儒学の中でも朱子学以外の流派や、国学や医学、蘭学なども学ばれていました。
江戸時代というと、強固な身分制度が存在し、閉鎖的なイメージもありますが、教育に限ると地域性や学校運営側の独自性が発揮されていた時代だったと言えます。例えば、私塾の咸宜園は年齢・学歴・身分を問わず入学できる学校であり、地域を超えて幅広い人々が入門していました。
弘道館の向かいに位置する「水戸城跡 二の丸展示館」では、市内の教育遺産について学ぶことができます
藤尾さん:当時の世界と比較しても、近世日本の識字率は高かったと言われています。また、礼儀正しさも同時に身につけていました。ある宣教師の記録では、「日本人は、子どもですら大人のような配慮と冷静さを兼ね備えている。そして、敬意を持ち合わせている」と評価されていました。
幕末には、日本に開国を求めたペリー提督もこのような文章を残しています。「男性だけではなく女性も教養を身につけている。もし開国して、技術や知識を得たら、アメリカや欧米の強力なライバルになるだろう」。ペリーは、武士だけでなく一般市民とも交流していたとされ、教養や礼節の浸透ぶりに驚いたことがわかります。
藤尾さん:おっしゃるとおりです。また、明治維新後に欧米の近代的な教育制度が導入されますが、そうなると教育現場と教員が必要ですよね。それが、江戸時代に整備されていた学校と先生がそのまま近代教育の場で活躍するケースも多かったそうです。近世の教育現場が学制にそのまま移管できたことも日本の近代化につながっているのだと思います。
【水戸城跡 二の丸展示館(旧水戸彰考館跡)】
住所 | 茨城県水戸市三の丸2-9-22 |
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アクセス | JR水戸駅北口から徒歩約10分 |
近世日本を代表する4校の「ここがすごい!」
貴重な書籍の宝庫、儒学の聖地として一目置かれ、吉田松陰や高杉晋作など著名人も数多く訪問しました
足利学校では、僧侶が儒学のほか、特に「易」について学んでいたことが知られています。戦の吉凶を占うために使用されていた易は、戦乱の世では特に重視されていた学問です。軍学書「甲陽軍鑑(こうようぐんかん)」によると、武田信玄が配下を採用する時に、足利学校で易を学んでいたかどうかを一つの基準にしたという逸話もあります。
【足利学校(あしかががっこう)】
住所 | 栃木県足利市昌平町2338 |
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アクセス | JR両毛線足利駅から徒歩10分、東武足利市駅から徒歩15分、北関東自動車道足利ICから10分 |
講堂のほか、習芸斎や飲室・聖廟や閑谷神社、敷地を取り囲む石塀まで多くの建物が現存しています
藤尾さん:閑谷学校は、江戸時代前期の1670年に建設され、現存する世界最古の公立学校といわれています。学問を好んだ岡山藩主の池田光政によって、村や地域の指導者たちを養成する目的で設立されました。郷校の中でも日本最大規模の学校であり、他の藩からも学びに来る人がいるほどでした。
また、講堂の床に正座して論語を学ぶ「閑谷論語塾」は、旧閑谷学校の伝統を今に伝えています。国宝の講堂で当時の空気を感じながら論語を学び、解説を聞ける貴重な機会です。
【旧閑谷学校(しずたにがっこう)】
住所 | 岡山県備前市閑谷784 |
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アクセス | JR山陽本線「吉永駅」下車。タクシーでおよそ10分、市営バスでおよそ12分、徒歩およそ40分 |
文武両道を理想とし、午前は文館で学問を修め、午後は武館で武道を鍛えることを日課としたそうです
藤尾さん:弘道館は、江戸時代後期の1841年、水戸藩第9代藩主徳川斉昭によって開校された日本最大規模の藩校です。「文武一致」「神儒一致」「学問事業一致」などの精神が掲げられ、現実の政治や社会に役立つ学問の習得を目標としました。儒学だけではなく神道や武芸、さらに西洋医学、天文学など幅広い学問を修めることができ、江戸時代の総合大学と呼べる存在です。
藤尾さん:弘道館は、日本三名園のひとつである偕楽園とともに「一張一弛」の理念の元につくられました。「一張一弛」とは、弓を緩めたり、張ったりするように、人が学ぶ時にも修練と休養の両方が必要という考え方です。弘道館で修練し、偕楽園で梅を見ながら休養する。これらを繰り返すことで、学びは深まっていきます。弘道館の大きな建物と偕楽園の広い庭園の両方を見ることで、当時の学びの様子がイメージしやすくなるはずです。
また、弘道館の広い敷地には建物が多く残っており、見どころも豊富です。藩主専用の正門をくぐると御殿(正庁)があり、その奥には至善堂があります。御殿は、藩主が臨席する部屋です。至善堂は、水戸徳川家が勉強していた部屋であり、徳川慶喜が勉強や明治維新後に謹慎した時に使用した部屋でもあります。正門と正庁、そして至善堂はいずれも国の重要文化財に指定されています。
弘道館には、孔子を祀った孔子廟だけではなくタケミカヅチという武の神様を祀った鹿島神社があります。弘道館では、「神儒一致」が掲げられていたため、神道と儒学の両方が重視されているのです。これは他の藩校では見られない特色ですね。
【弘道館(こうどうかん)】
住所 | 茨城県水戸市三の丸1-6-29 |
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アクセス | JR水戸駅北口から徒歩8分、水戸駅北口4番のりばから路線バス「10偕楽園行き」に乗車し3分 |
咸宜園跡を有するエリアは「淡窓」という町名。創設者、廣瀬淡窓の偉業を現代に伝えています
藤尾さん:咸宜園は、1817年、儒学者の廣瀬淡窓により現在の大分県日田市に開塾された私塾です。私塾とは、学者や教育者が開いた学校で、幕府や藩に規定されない独自の活動が展開されていました。咸宜園の特徴は、年齢や学歴、身分に関わらず、塾生を受け入れる「三奪法」による平等主義にあり、身分制の敷かれていた江戸時代において、庶民も学ぶことができました。その数は5,000人にものぼります。
また、咸宜園に隣接する豆田町は学園都市として栄えていました。町民は門下生に下宿を用意するなど咸宜園の運営を支え、咸宜園の卒業生が豆田町で寺子屋やサロン的な場所を開くなど、学びの循環が見られました。旧宅や当時の町並みも一部残っており、思いを馳せながら散策すると楽しいですよ。
【咸宜園(かんぎえん)】
住所 | 大分県日田市淡窓2-4-2-13 |
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アクセス | JR日田駅から徒歩およそ15分 |
「受験にとらわれない多彩な学び」が近世日本の教育の「らしさ」
「地域性・運営者のビジョンが反映された多彩な教育が近世の学校の魅力」と語る藤尾さん
藤尾さん:キリスト教の禁止など例外はあるものの、「学びの多様性」に特徴があると言えます。日本は、中国や韓国と異なり、科挙(官僚登用試験)が根付きませんでした。そのため、いわゆる受験勉強に特化することなく、さまざまな学問を受け入れる余地があったのです。儒学だけではなく、神道、国学、洋学など幅広い学問を学べましたし、読み書きや礼節といった基礎的な学びが身分を超えて広まった。この学びの多様性が、近世日本の教育遺産群が持つ魅力だと感じます。
さらに、当時を偲ばせる学校そのものも、目に見える形で存在しています。『学びの多様性』という無形的な価値と、有形的な価値の両方を備えていることが、近世日本の教育遺産群における大きな特徴です。
――今後、近世日本の世界遺産登録に向けて、どのような活動を進められますか?
藤尾さん:まず、教育遺産群が存在する4市(水戸市・足利市・備前市・日田市)の気運を高めていきたいです。2023年2月には、日本遺産にまつわる講座を水戸城大手門内で開きました。また、秋には海外の有識者を招いた国際シンポジウムを開催する予定です。連綿と続く教育遺産群のストーリーを多くの方に知っていただくため、このような講座やイベントを積極的に開催したいと思います。また、世界遺産へ登録するために、海外の方へ向けた情報発信も力を入れていきたいですね。
【本稿で紹介した構成文化財】 | 旧弘道館 足利学校跡 旧閑谷学校 咸宜園跡 |
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