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2024.02.29

特集

日本遺産巡り#28◆『古事記』の冒頭を飾る「国生みの島・淡路」

ここは日本のはじまりの島。
海の民の軌跡をたどる旅へ出よう。

兵庫県の淡路島 兵庫県の淡路島

淡路市教育委員会の伊藤宏幸さん(中央)、淡路島観光協会の地白雅則さん(右)、森崎ひとみさん(左) 淡路市教育委員会の伊藤宏幸さん(中央)、淡路島観光協会の地白雅則さん(右)、森崎ひとみさん(左)

瀬戸内海東端に位置する、兵庫県の淡路島。わが国最古の歴史書『古事記』に記された日本神話の冒頭「国生み神話」で、“日本で最初に生まれた島”として描かれています。
なぜ、神話の重要な舞台として選ばれたのが淡路島だったのでしょうか。
考古学をご専門とする淡路市教育委員会の伊藤宏幸さん、淡路島観光協会の地白雅則さん、森崎ひとみさんと一緒に島を巡りながら、その秘密を紐解いていきました。
古くから神々の物語が根付く、謎めいた島をめぐる。
古事記によると、伊弉諾尊(イザナギノミコト)と伊弉冉尊(イザナミノミコト)という二柱の神が、天浮橋(あめのうきはし)から天沼矛(あめのぬぼこ)で地上をかきまぜると、矛の先からしたたり落ちた雫が積もって「おのころ島」となりました。「おのころ」は漢字で書くと「自凝」。おのずから凝り固まってできた島であるという意味です。二神はおのころ島に降り立って結婚し、日本列島の島々を生みましたが、最初に誕生したのがここ淡路島だったといいます。
淡路島には、おのころ島であると言い伝えられている地や、イザナギノミコト・イザナミノミコトとの関係が深い場所が数多くあります。ここでは、島に散りばめられた伝承の謎について迫っていきます。

絵島 絵島

まず訪れたのは、淡路島の北の玄関口・岩屋港。ここでは明石海峡を背景に、おのころ島の伝承地の一つ、「絵島」を望むことができます。『枕草子』『平家物語』や、西行の和歌などに登場する、歴史的な月見の名所として知られ、現在も毎年、中秋の名月の日にここで観月会が開催されています。2022年3月1日には県指定文化財の名勝となりました。

伊藤さん:仁徳天皇が淡路島周辺の小島をおのころ島と見立てて詠んだ歌が残されているように、淡路島には古くからおのころ島と考えられてきた場所が数多くあります。
ここ絵島は、その中でも代表的な候補地の一つ。かつてこの明石海峡で大きな勢力を持って活躍した海の民たちが、ひときわ目を引く絵島の造形美に魅了され、おのころ島=絵島の説を語り伝えたのがはじまりかもしれません。江戸時代には国学者の本居宣長がおのころ島=絵島の説を支え、本格的に伝承地として広まりました。

古事記によると、おのころ島は天の沼矛からしたたり落ちた潮が固まってできたもの。確かに絵島は、見れば見るほど、その様子を想像させる独特な形状をしています。
 

伊藤さん:淡路島北部の地質はほとんどが花崗岩ですが、絵島は約3千500万年前の砂岩層が残る、地質学的にも珍しい場所です。雨風や波に削られて浮かんだ岩肌の美しい模様や形は、昔の人々にとっても神秘的に感じられたのではないでしょうか。植生はマツ、ウバメガシ、カイヅカイブキなどがあります。江戸時代の絵図と見比べても、絵島の姿は現在まで大きく変わっていません。自然が創り出したこの唯一無二の芸術をぜひ、多くの方に見て味わっていただきたいですね。

「AWAICHI」モニュメント 「AWAICHI」モニュメント

ここ岩屋港は、淡路島を一周する人気のサイクリングコース「アワイチ」のスタート地点にもなっており、国内外から多くの人が訪れます。
昔の人々が国のはじまりの場所と位置づけるほどの景勝で、今も変わらず多くの人々の心をつかむ絵島は、旅の始点にふさわしい場所と言えるのではないでしょうか。
【絵島】
住所 兵庫県淡路市岩屋884-4
アクセス 淡路ICから車で3分

おのころ島神社 おのころ島神社

おのころ島の伝承地は、実は陸地にも存在します。高さ21.7m、巨大な朱色の鳥居が目を引く「おのころ島神社(自凝島神社)」です。日本三大鳥居の一つにも数えられており、南あわじ市のシンボルのような存在となっています。
伊藤さん:おのころ島神社は三原平野の中央、小高い丘に位置しますが、かつてこの場所は海に浮かぶ島だったといわれていて、古くから「おのころ島」として崇敬されてきました。周辺にはイザナギノミコト・イザナミノミコトが創った国土「葦原国(あしはらこく)」であるとされる場所や、二神が降り立った天浮橋など、国生み神話伝承地が残されています。

境内には、国生み神話に関する重要な石が安置されています。 境内には、国生み神話に関する重要な石が安置されています。

伊藤さん:これは「鶺鴒(せきれい)石」といい、イザナギノミコト・イザナミノミコトは、この石に止まったつがいのセキレイを見て、国生みのヒントを得たといいます。そのため、この神社は縁結びや夫婦円満、安産などの御利益があると言われているんですよ。

良縁や安産を祈願するために、全国から参拝客が訪れるそう。奉納されている絵馬は、ハート型のもの、イザナギノミコト・イザナミノミコトが描かれたものなどがあり華やかです。
【おのころ島神社】
住所 南あわじ市榎列下幡415
アクセス 西淡三原ICから車で6分

おのころ島神社の情報はこちら

こうして国生みの大業を果たしたイザナギノミコト・イザナミノミコトの二柱の神様を祀るのがここ、伊弉諾神宮(いざなぎじんぐう)です。古事記・日本書紀に記載がある中では全国で最も古い神社で、国生みに始まる全ての神功を遂げたイザナギノミコトが余生を過ごした「幽宮(かくりのみや)」の所在地であるとされています。
イザナギノミコトは古くから淡路島の人々にとっての島神様であり、厚く信仰されてきたといいます。「初詣といえば伊弉諾神宮」と言う人も多いほど、島民には馴染み深い神社のようです。

夫婦大楠 夫婦大楠

境内には様々な文化財がありますが、特に目を引くのが樹齢約900年、樹高30m以上、県指定天然記念物のクスノキです。二つの幹をもつ貴重な「夫婦大楠」であり、二株の木が合体して成長したとされていることから、イザナギノミコト・イザナミノミコトの命が宿る御神木として、夫婦円満などのご信仰があります。

モニュメント「陽の道しるべ」 モニュメント「陽の道しるべ」

伊弉諾神宮を中心とした太陽の運行図 伊弉諾神宮を中心とした太陽の運行図

さらに、手水舎付近で存在感を放つのが、モニュメント「陽の道しるべ」です。伊弉諾神宮が実施した調査によると、この神宮を中心に東西南北、太陽が上る方向・沈む方向に全国の有名な神社が位置しているといい、このモニュメントはその位置関係を示しています。天照大御神(あまてらすおおみかみ)を祀る伊勢神宮、大国主大神(おおくにぬしのかみ)を祀る出雲大社など、イザナギノミコト・イザナミノミコトの子孫を祭神とする重要な神社が配置されており、これが計算されたものなのか、偶然なのかは未解明ではあるものの、淡路島の神秘性を感じられるスポットとなっています。

【伊弉諾神宮】
住所 淡路市多賀740
アクセス 津名一宮ICより車で約5分

伊弉諾神宮関連情報はこちら

淡路島を実際に歩いてみることで、海の民によって生み出された伝承が島の各地に広がり、大切に守られ語り継がれてきたことがわかりました。
島の伝承が古事記の冒頭、国生み神話となるまでにはどんな経緯があったのか、その真相を解明するには、淡路島で海を生業の場としていた「海人(あま)」について知ることが鍵となるといいます。

伊藤さん:古事記で語られる神話は、日本各地で語り伝えられていた伝承を取り入れまとめられたものとする説がありますが、その目的は、天皇を頂点とする国づくりを進める王権の正当性を社会に知らしめることであったと考えられます。つまり、神話の舞台に選ばれた場所の多くは、王権とのつながりが強い地域だったと考えられるわけです。淡路島にはそのつながりを作った功労者、海人と呼ばれる人々がいたことが、同時期の歴史書『日本書紀』に記されています。海人は朝鮮半島へ船で渡れるほど高度な航海術を持った集団で、さまざまな物資・文化を島に運び込んだり、王権に送り届けたりといった交易のほか、漁業、海の警備、軍事など多様な面で活躍していました。次第に天皇や有力氏族からその技術が高く評価され、信頼を寄せられるようになったことで、海人が大切に語り伝えてきた伝承が、神話として古事記に取り上げられたのではないかと考えられます。

当時の海人の活躍と王権との関わりについて、島で見つかった遺跡や出土品から詳しく知ることができるといいます。実際に現地を訪れて、海人の足跡をたどってみましょう。
青銅・鉄・塩・・・ 島の文化を築き、王権とつながった海人とは?
淡路島の価値を高めた海の民の足跡は、弥生時代までさかのぼって確認できるといいます。滝川記念美術館では、淡路島の古代の様子を知る手がかりとなる貴重な出土品が展示されています。職員の奥井真由美さんに、淡路島の青銅器についてお話を伺いました。

滝川記念美術館 職員 奥井真由美さん 滝川記念美術館 職員 奥井真由美さん

奥井さん:朝鮮半島から金属文化が伝わった弥生時代、青銅器は主に、豊穣を祈る祭事の道具として作られていました。この時代は金属自体が大変珍しいものでしたし、表面が青くさびる前にはこのように光沢を帯びてきらきらと輝いていますから、神につながる特別な道具として大切に扱われていたことが想像できますよね。
伊藤さん:そうですね。こうした青銅器は、山間部に埋納された例が多いのですが、ここ淡路島では「松帆銅鐸」や「古津呂銅剣」をはじめ、その多くが海岸地帯の砂の中から発見されています。この島の人々にとって海が大切な場所であり、海を望む海岸地帯が神聖な場所であったのではないでしょうか。後に海人と呼ばれる海の民たちが青銅器のマツリに深く関わり、大きな影響力を持っていたということがわかります。

奥井さん:代表的な青銅器といえば、銅鐸を思い浮かべる人が多いんじゃないでしょうか。本館で展示されている松帆銅鐸は、2015年、南あわじ市の海岸部で7点が出土されました。紀元前に作られた、発見数の少ない最古級の型。しかも、同じ鋳型で作ったと思われる銅鐸が、海を隔てた島根でも発見されています。当時の人や物の流れが、私たちの想像する以上に豊かであることが、ここから見えてきます。
これだけでもすごいのですが、この銅鐸でさらに注目すべきなのは、銅鐸の中につり下げて音を鳴らすための棒「舌(ぜつ)」が一緒に見つかったということ。しかも、この舌にはつり下げるためのひもの痕跡まであったのです。当時のひもは植物を編んで作られていますから、土の中で朽ちずに現在まで残っているのは奇跡のようなことです。この発見から、これまでは諸説あった銅鐸の音の鳴らし方が初めてしっかりと確認できたのです。

松帆銅鐸と、ひもの痕跡が残る「舌」 松帆銅鐸と、ひもの痕跡が残る「舌」

松帆銅鐸を忠実に再現したレプリカも展示されています。 松帆銅鐸を忠実に再現したレプリカも展示されています。

伊藤さん:このように内部に「舌」をつるした銅鐸をつり下げて、揺らして音を鳴らしていたと思われます。

レプリカを鳴らしてみると、室内いっぱいに重厚な音が響き渡ります。これまで金属の音を聞いたことがなかったこの時代の人々にとって、銅鐸の音色はいっそう神聖なものに感じられたのではないでしょうか。

銅鐸 銅鐸

銅鐸がこれほど質の良い状態で見つかるというのは非常に珍しいことだといいます。古代の淡路島の人々の精巧な技術を、ぜひ間近で観察してみてください。

松帆銅鐸7点と「舌」がすべて展示されています。 松帆銅鐸7点と「舌」がすべて展示されています。

棒状石製品 棒状石製品

さらに展示室には、鳴門海峡にある「沖ノ島」の13基の古墳から発見された、「棒状石製品」をはじめとする漁具中心の副葬品も並んでいます。これらの古墳が海人の長が葬られたものであること、古墳時代には天皇や有力氏族からの信頼を得た海人がさらに勢力を強めていったことがわかります。

【南あわじ市滝川記念美術館 玉青館】
住所 南あわじ市松帆西路1137-1
アクセス 神戸淡路鳴門自動車道「西淡三原I.C.」より車で約5分。

南あわじ市滝川記念美術館 玉青館情報はこちら

淡路島の姿は、紀元前後を境に大きく変化します。平野の集落で青銅器文化が栄えたのと対照的に、鉄器生産のムラが山間部に成立し、鉄器文化が畿内中心部に先駆けて広まっていきました。その背景には、海を渡って鉄器作りの技術や材料を島に運び込んだ海の民の功績があるといいます。

五斗長垣内遺跡 五斗長垣内遺跡

播磨湾を望む小高い丘にある「五斗長垣内(ごっさかいと)遺跡」は、2世紀に鉄器生産を開始し、100年以上栄えたという集落の跡です。2004年の台風被害からの復旧事業に伴う発掘調査の際、農地だった地面の下から建物跡や出土品が発見され、調査が進められました。23棟の竪穴建物跡が見つかり、そのうち12棟が鉄器づくりを行う鍛冶工房だったそうです。2012 年9月には国史跡に指定されました。
伊藤さん:鉄器の素材を作り出す製鉄の技術がまだ日本に定着していなかったと考えられる弥生時代、巧みな航海術をもって朝鮮半島の先端技術を運び込んだ海の民たちのおかげで、淡路島ではいち早く鉄器文化が栄えました。この遺跡は鍛冶職人たちがまとまって暮らしていたムラの跡で、ここに当時の建物を再現しています。人々はこのような竪穴建物の中で鉄を加工し、必要な道具を作っていました。
実は、これらの建物の復元作業に私も携わっています。今でも定期的に、私たちが傷んだ箇所を手作業で修復しながらこの景観を維持しているんですよ。自由に見学できるので、じっくりとご覧になってください。

大型の竪穴建物跡 大型の竪穴建物跡

竪穴建物跡の内装 竪穴建物跡の内装

大勢の人が一緒に作業をするための、直径約10.5m、高さ約7.5mの大きな竪穴建物も再現されています。中に入ってみると広々としていて、非常にしっかりとした構造であることがわかります。

伊藤さん:柱の位置などから骨組みを計算し、当時の建物に近い形で復元しています。当時の人々はクレーンも使わずこれを完成させたというのですから驚きですよね。建物の床には炉の跡があり、ここで熱した鉄を石の上で叩いて形を整えていました。火を扱う仕事ですので、大きな建物の広い作業場は、鉄器づくりには適していたはずです。こうした建物からも、人々の鉄器づくりにかける思いが伝わってきます。
ここでは鍛冶作業が体験できるイベントが定期的に開催されていますので、ぜひイベントにおいでいただき当時の環境でのものづくりを体感してみてください。

出土した鉄器や製鉄道具の数々が、遺跡内の施設に展示されています。 出土した鉄器や製鉄道具の数々が、遺跡内の施設に展示されています。

伊藤さん:この場所での鉄器づくりは、朝鮮半島の鉄が手に入らなければ成り立たなかったと思います。この地が海に囲まれていることにより、鉄が手に入る地域とも繋がれたものと考えられます。淡路島の物流や産業、文化の発展において、海の民の存在はなくてはならないものだったということですね。
まだ多くの謎が残されている五斗長垣内遺跡。
最大の不思議はこの立地です。生産拠点として利便性の高い海岸付近や平野部から離れ、まるで覆い隠されているかのように山間地に形成されていたのはなぜでしょうか。今後、このムラが持っていた役割が解明されていくことで、淡路島の歴史が大きく変わるかもしれません。

【五斗長垣内遺跡】
住所 淡路市黒谷1395-3
アクセス 神戸淡路鳴門自動車道「北淡IC」出口つきあたりを左折(山側へ)。道中案内有り

五斗長垣内遺跡の情報はこちら

王権とつながりを深めていった淡路島の海の民たちは、後に「海人」として名を馳せるようになりました。日本書紀には「御原の海人」や「野島の海人」など、淡路島の地名を持つ海人の活躍が記されています。海人が果たした役割は航海や軍事などさまざまでしたが、ここで注目したいのは塩づくりです。

貴船神社遺跡 貴船神社遺跡

紀元前後に出現した山間地の集落は次第に姿を消し、海人による塩生産の拠点が海岸部に広がっていきます。人々の生活に欠かせない塩づくりを担った海人は、王権からの信頼をさらに高めていきました。
現在は、西海岸の人気ドライブコース・淡路サンセットライン沿いに、古墳時代から奈良時代にかけての製塩場の跡「貴船神社遺跡」が残っています。
 

石敷炉を再現したモニュメント 石敷炉を再現したモニュメント

伊藤さん:目の前に広がる砂浜一帯が大規模な製塩場だったことが近年の発掘調査でわかりました。ここで見つかったのが、海人が製塩の際に使用した「石敷炉(いしじきろ)」で、砂に石を敷き詰めることにより熱効率の向上を図っています。炉の上で海水を煮詰めるための製塩土器も、効率よく塩を生産できるように底の形状の改良が行われていたことがわかっています。こうした技術革新が進み、塩の大量生産が可能になると、淡路島産の塩が王権にも供されるようになっていったのです。

生産されていたのは、海藻を利用して作る「藻塩」。この製法でできた塩はミネラルを豊富に含み、海藻のうまみが凝縮しているそう。モニュメントから当時の製塩作業の様子を知ることができます。
塩をはじめ、海人が生産するさまざまな海の幸が都に運ばれ、その名声が行き渡ると、淡路島は天皇の食膳を司る地域として「御食国(みけつくに)」と呼ばれるようになっていきます。平安時代には、朝廷の儀式で用いる塩が「淡路の塩」と定められていた記録もあるといい、淡路島が特別な地であると考えられていたことがわかります。

【貴船神社遺跡(緑の道しるべ大川公園)】
住所 淡路市野島平林
アクセス 淡路ICから車で約10分

貴船神社遺跡関連情報はこちら

淡路島の歴史と文化を一堂に集めた博物館「洲本市立淡路文化史料館」。ここでは、島内各所で出土された銅鐸や製塩土器、漁具など、海人の足跡をたどることができる資料のほか、島で発見された恐竜の化石や、民俗芸能、美術工芸の展示やパネル解説などがあり、地質時代から現代に至るまで、淡路島のすべてがわかる施設となっています。
歴史展示室には、淡路島で唯一見つかった、古墳時代の首長の権威を象徴する銅鏡「三角縁神獣鏡」が展示されていました。
 

伊藤さん:この三角縁神獣鏡は、洲本市のコヤダニ古墳から出土したものです。比較的小規模な海人の古墳とは異なり、三角縁神獣鏡が納められていたのは大きな古墳ではなかったかと考えられます。それはこの地を治める首長の墓ということになります。王権と深くつながる力を持った首長の下、暮らしていた人々の姿が想像できます。

それぞれの時期の海人の活躍を知ることで見えてくる、淡路島が古代国家形成期に果たした役割の大きさ。
淡路島が古事記の冒頭に選ばれたことも、決して不思議なことではないと感じられます。


【洲本市立淡路文化史料館】
住所 洲本市山手1-1-27
アクセス 洲本ICから車で約15分

洲本市立淡路文化史料館 ホームページ

海人が創った御食国 現在に受け継がれた食文化を楽しむ
淡路島の海人と王権は、食を通してそのつながりをますます深めていきました。淡路島の塩や海産物の評判は都にまで届き、万葉集などの歌集や書物にも「淡路の塩」や「御食国・淡路」といった表現が数多く登場します。
現在まで大切に受け継がれてきた食文化は、島の食糧自給率が100%を超えるという事実にも表れています。
淡路島観光協会の地白さんと森崎さんから、島の食産業の特徴について教えていただきました。

地白さん:淡路島で代表的な作物といえばタマネギですよね。兵庫県のタマネギ生産量は全国3位で、そのほとんどが淡路島で作られています。島の地形としては珍しい広大な平地・三原平野があり、なだらかな扇状地で水はけが良いのでタマネギ生産に適しています。

見渡す限りのタマネギ畑と、あちこちに建てられた「玉ねぎ小屋」は、淡路島ならではのユニークな風景。ここで1~2ヶ月タマネギをつるして乾燥させることにより甘さが増すのだといいます。

三毛作 三毛作

森崎さん:この地域は三毛作が盛んで、各農家は稲作が終わるとレタスなどの野菜、タマネギへと作物を切り替え、1年を通して生産を続けます。平野が作物ごとに塗り分けられてできるパッチワークのようなカラフルな模様は、多種多様な食材が一つの島から採れることが一目でわかるおもしろい光景ですよ。

地白さん:そのほかにも、海に囲まれた土地ならではの新鮮な海産物や、淡路牛の中でも最高級の「淡路ビーフ」など、淡路島には高品質な食材がたくさんあります。ぜひ、「御食国」の豊かな食文化を楽しんでくださいね。
 

うずの丘 大鳴門橋記念館 うずの丘 大鳴門橋記念館

そんな淡路島のグルメをまるごと堪能できる観光施設がここ「うずの丘 大鳴門橋記念館」。
鳴門海峡を見下ろす丘の上にあり、360度のパノラマビューを楽しめる展望台や、シンボルの大きなオブジェ「おっ玉葱」は人気の撮影スポットとなっています。
館内には、鳴門海峡に発生する渦潮の仕組みを楽しく学べる「うずしお科学館」のほか、淡路島産の新鮮な野菜やお土産を販売するショップ、淡路島の食材をふんだんに使ったメニューを提供する飲食店が並んでいます。

私たちがランチに選んだのは、淡路牛や地元の野菜、米にこだわった定食。福良湾から鳴門海峡までを見渡せるテラス席で頂きました。
【うずの丘 大鳴門橋記念館】
住所 南あわじ市福良丙936-3
アクセス 淡路島南IC から車で約3分
鳴門海峡名物、世界三大潮流の一つに数えられる渦潮を、クルーズ船から観察することができます。国生み神話でイザナギノミコト・イザナミノミコトがおのころ島を生み出す際に矛で地上をかき混ぜる描写は、この渦潮から連想されたものかもしれません。海人もかつて船の上から眺めたであろう迫力満点の大渦を、ぜひ間近で楽しんでください。

【うずしおクルーズ チケット販売窓口・乗り場】
住所 南あわじ市福良港 うずしおドームなないろ館
アクセス 淡路島南ICから車で約13分

うずしおクルーズ チケット販売窓口・乗り場 ホームページ

阪神間のリゾート島としても近年注目を集め、島内外の企業がホテルや飲食店、観光施設を次々と開業している淡路島。
神話やその背景にある海人の活躍の歴史に目を向けることで、島の魅力をより深く体感することができますよ。
【本稿で紹介した構成文化財】 絵島
おのころ島神社
伊弉諾神宮
松帆銅鐸
棒状石製品
五斗長垣内遺跡
貴船神社遺跡(緑の道しるべ大川公園)
コヤダニ古墳出土 三角縁神獣鏡

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