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2024.02.29

特集

日本遺産巡り#29◆「なんだ、コレは!」 信濃川流域の⽕焔型⼟器と雪国の⽂化

岡本太郎も感嘆した⼟器と、
雪国の縄⽂⼈が⽣み出した「⾐⾷住」とは

世界有数の雪国である新潟県の信濃川流域。およそ5,000年前、縄文時代における暮らしの象徴が「⽕焔型⼟器」です。ほとんどが新潟県域で出土しており、雪や寒さなどによる厳しい環境での暮らしを支えました。また、炎が燃え盛る様子を彷彿とさせる意匠は、当時の人々の感性を宿したものとされます。

⽕焔型⼟器や雪国文化をめぐるストーリーは、『「なんだ、コレは!」 信濃川流域の⽕焔型⼟器と雪国の⽂化』として日本遺産に認定されています。縄文時代の⽕焔型⼟器や遺跡、いまも残る食文化に触れれば、「衣・食・住」の原点をたどることができるでしょう。

まるで芸術作品!
新潟県域の「⽕焔型⼟器」

⽕焔型⼟器 ⽕焔型⼟器

⽕焔型⼟器を深く知るために訪れたのは、新潟県の十日町市博物館。同市・笹山遺跡から出土した、⽕焔型⼟器をはじめとする国宝928点などが収蔵・展示されています。

縄文時代の土器といえば、縄目の文様が印象的。しかし、⽕焔型⼟器にはこの文様がほとんどなく、芸術作品のように複雑なデザインが特徴です。

⽕焔型⼟器は如何にしてできたのか、特徴は何か。十日町市博物館副参事で学芸員をつとめる石原正敏さんに伺いました。

学芸員の石原正敏さん 学芸員の石原正敏さん

石原さん:⽕焔型⼟器と呼ぶためには、3つの条件があります。1つ目は、平らな縁の部分にギザギザとした「鋸歯状口縁(きょしじょうこうえん)」があること。2つ目は、上部4箇所に「鶏頭冠(けいとうかん)」と呼ばれるニワトリの頭のような突起があり、すべてが同じ方向(時計回りまたは反時計回り)を向いていることです。そして最後は、胴部に縄目の文様がないこと。実は、新潟県で多く出土している⽕焔型⼟器には縄を転がしたような文様が入っていないんです。

⽕焔型⼟器 ⽕焔型⼟器

石原さん:⽕焔型⼟器が初めて発見されたのは昭和11(1936)年のこと。長岡市の馬高遺跡から出土しました。これを「”⽕焔”⼟器」といい、同じ特徴を持った土器の総称を「”⽕焔型”土器」と呼びます。そして⽕焔型⼟器は、ほぼ新潟県内、とくに長岡市や十日町市、津南町などの信濃川流域で多く発見されています。
隣県の山形や富山でも似たような土器が出土しているものの、新潟の⽕焔型⼟器とは少し特徴が違うのだとか。⽕焔型⼟器は、信濃川流域で営まれた暮らしの証といえます。

話を聞きながら館内を進むと、国宝展示室の中にひときわ大きな⽕焔型⼟器が鎮座していました。

⽕焔型⼟器 ⽕焔型⼟器

石原さん:笹山遺跡から出土した14の⽕焔型⼟器には、それぞれに指定番号が付けられています。そしてこちらは、指定番号1番。実物の残存率は95%と、⽕焔型⼟器としては特に保存状態がいいのが特徴です。さらに、一般的な⽕焔型⼟器の高さが25〜30cmなのに対して、こちらは46.5cmと大きいのもポイント。状態の良さと芸術性が高いことから、土器のなかで唯一の国宝に指定されています。実物を見るために遠方から訪れる人も多くいますよ。
均整のとれた美しさと大きさには、思わず息をのむような迫力が。そして、指定番号1番の出土に関して、奇跡といえる逸話が残っているのだとか。

石原さん:指定番号1番が出土したのは昭和57(1982)年7月8日。当初、この日で発掘作業を終え、撤収する予定でした。ところが、最終日の8日朝に作業員が、掘削していた場所の土が黒っぽいことに気づいたんです。「何かが埋まっているはず」と、もう少し深く掘ってみることに。そんな土壇場で発掘されたのが、指定番号1番です。もし、地面の色に違和感を持たなかったり、最終日だからと諦めて掘削を続けなかったりしたら、重機で粉々に壊されていたかもしれませんね。

その後、指定番号1番は4年もの歳月をかけて復元され、出土から17年後の平成11(1999)年に国宝に指定されました。

縄文時代の⼟器づくりについて、石原さんはこう推測します。

石原さん:縄文時代の人々は四季をよく理解し、季節や自然と共生していました。雪がたくさん積もる冬は土器づくりには適していません。その代わりに、「春になったらこんな土器をつくろう」と、芸術性の高い⽕焔型⼟器の構想を練っていたのかもしれません。そう考えると、⽕焔型土器は、雪国だからこそ生まれた文化財といえます。

石原さん:おもしろいのは、村上市や糸魚川市、そして阿賀町など、さまざまな地域で同じような⽕焔型⼟器が作られていたことです。IT技術はおろか、書物もない時代に、それがどうやって伝わったのか。それはまだ明らかになっていませんが、土器を眺めながら自分なりの考えをめぐらせてほしいですね。

【⾐】 雪国の知恵がたくさん!
縄⽂時代の編み物「アンギン」とは

縄⽂時代の編み物「アンギン」 縄⽂時代の編み物「アンギン」

今回訪れた人口5万人の新潟県十日町市は、日本有数の豪雪地帯で、世界的にみても積雪量に対して人口規模が大きい都市なのだそう。

「アンギン」は、雪国の知恵として現代まで残されているものの一つ。編衣(あみぎぬ)という言葉がなまり、アンギンと呼ばれています。

石原さん:タテ糸とヨコ糸を絡ませて編み、タテ糸に強いヨリがかかっているのが特徴です。編みの技術は、縄文時代前期(6,500年前ごろ)から存在していたと言われています。縄文時代の冬には、動物の毛皮のようなものを着て、その上からアンギンを重ねるというような服装をしていたのではないでしょうか。

アンギンに多く使われているのは、カラムシと呼ばれる多年草の繊維。信濃川流域では、現在もカラムシ栽培やアンギン編みの技術が継承されています。これも、古くから積雪や寒さをしのぐ必要のあった雪国ならではの文化と言えるでしょう。
■十日町市博物館 施設紹介

「国宝・火焔型土器のふるさと-雪と織物と信濃川-」をテーマにした十日町市博物館。土器のほかに、越後縮と呼ばれる織物や、豪雪地の暮らしをしのばせる積雪期用具などの重要文化財も鑑賞することができます。

ショーケース内の展示を見るだけでなく、レプリカに触れたり、組み立てたりといった体験型のブースも多数用意されています。縄文時代や雪国の暮らしを身近に感じ、より深く理解できるはずです。
【十日町市博物館 アクセス】
電車の場合 JR飯山線・ほくほく線 
十日町駅(西口)から徒歩10分

公式ホームページはこちら

【⾷】縄⽂時代からの⾷⽂化に迫る

人々は土器を活用し、どのような食生活を送っていたのでしょうか。

そこで訪れたのは、新潟県立歴史博物館。5,000年前の生活の様子を再現した実物大のジオラマが見どころで、まるでタイムスリップしたような臨場感の中で縄文文化を学ぶことができます。今回は、専門研究員をつとめる宮尾亨さんと館内をめぐりながら、遺跡や出土品からわかる当時の食文化を教えていただきました。

宮尾さん:縄文時代における食糧の調達方法は「狩猟採集」がメインでした。農業をせず、獣や魚、木の実などを収集する方法です。日本海側地域が豪雪地帯になったのは9,500年前。山間部に積もった雪はやがて融けて水源となり、森を育てます。この地域の森にはドングリすなわちコナラ、ブナなど、実を大量につける落葉広葉樹が多いのですが、それらはクマやイノシシ、シカのエサになります。そうして増えた動物の一部を人間がいただく、というサイクルが成り立っていました。

宮尾さん:魚や貝類も縄文時代から食べていました。銛で突くこともあれば、釣針を使って獲っていた可能性もありますね。その証拠に、シカの角や動物の骨でできた銛や釣針が貝塚から発掘されています。

宮尾さん:おもしろいのは、当時から現代のような食べ方をしていた可能性があること。というのも、ある貝塚で発掘された魚の骨に、切れ目が入っていたんです。つまり、現代でいう三枚おろしのように、さばいて切り分けていたと考えられます。きちんと処理をして、食べやすく調理していたんですね。

宮尾さん:貝塚からわかる食文化はほかにもあります。例えば、約9,000年前以降の多くの貝塚から発掘されているフグの骨。縄文時代、フグのどの部分が有毒で、どの部分を食べなければ良いか分かっていて、フグを食用していたと考えられます。また、わずか1〜2mmの巻貝が大量に貝塚から見つかった例もあります。海藻につく巻貝で、可食部分の少ない微小巻貝なので、貝自体を採取しているわけでなく、海藻を食べていたことが推定されます。

すでに現代のような食文化があった縄文時代。⽕焔型⼟器では、どのようなものを調理していたのでしょうか

宮尾さん:⽕焔型⼟器で調理したものの中で有力なのは「サケ」です。かつて信濃川には無数のサケが遡上していました。サケは川で生まれ、海で育ち、産卵のために再び川を遡上します。火焔型土器を科学分析すると、海産物を高温で加熱した際に発生する脂肪酸が検出されることがあります。海から遠く離れた信濃川上流の遺跡で出土した火焔型土器で海産物由来の脂肪酸が検出されることから、火焔型土器で調理したものの有力候補にサケが想定されるわけです。

宮尾さん:肉や魚と同時に、木の実も重要な食料でした。というのも、木の実は肉や魚よりも、エネルギーとして必要な糖質(デンプン)が多く含まれているからです。さらに、秋には大量に木から落ちるため、簡単かつ安定して収集できるんですね。

宮尾さん:トチの実も、縄文時代から食べられていた木の実の一つ。木の下にまとまって落ちるので、採集するのが楽なんです。また、アクが強く硬いため、クマなどの動物に横取りされることもありません。アク抜きや煮て柔らかくする作業で使われていたのが土器です。幅広い食材を調理できるようになったのは、耐熱耐久性の高い土器があったからこそです。

土器は、信濃川流域の自然の恵みを余すことなく享受するための重要な道具でした。宮尾さんは、縄文時代と現代とのつながりについて、こう話します。

宮尾さん:縄文時代の土器づくりや調理の手法は、自然の恵みや偶然の産物、人々の知恵がうまく噛み合って生まれました。そして、そうしたことを繰り返して暮らしに定着させ、長年受け継いできたんです。広い意味でいえば、酒や味噌など、新潟の豊かな食文化のルーツとなっているのは、縄文時代に築かれた技術や文化ではないでしょうか。
■新潟県立歴史博物館 施設紹介

新潟県立歴史博物館では、長岡市の馬高遺跡を参考に作られたジオラマなどを通し、縄文時代の暮らしや文化を追体験することができます。

昭和30年代の雪の町を再現したジオラマも見どころ。遺跡めぐりとあわせて同館を訪れれば、縄文時代や雪国の文化を深く知ることができるでしょう。
【新潟県立歴史博物館 アクセス】
電車・バスの場合 JR長岡駅大手口7番線(長岡駅前=希望が丘=長峰団地=技大=ニュータウン・歴史博物館線)発から
越後交通バスで約40分、
博物館前下車

公式ホームページはこちら

新潟といえば⽇本酒!発酵⾷品も縄⽂時代と関係していた!

新潟の名物といえば日本酒。実は、縄文時代から酒が作られていた可能性もあるのだそうです。宮尾さんによると、縄文時代のものとされる木製容器の中を分析すると、果実の種と、ショウジョウバエの羽根や卵が発見されたのだとか。ここから、果実を発酵させ、そこにショウジョウバエがたかっていたと推測されます。つまり、果実酒のようなものが存在していたかもしれないということです。

新潟は日本酒や味噌、醤油などの発酵食品の製造が盛んな地域。その源流には、縄文時代の文化があったのです。そこで訪れたのは、新潟最古の酒蔵である「吉乃川」。室町時代の創業から、日本酒を通して県内外の食文化を盛り上げてきた企業です。
新潟最古の酒蔵「吉乃川」へ

吉乃川が蔵を構えるのは長岡市の摂田屋地区。古くから日本酒や味噌、醤油などの蔵が集まり、発酵と醸造のまちとして知られています。吉乃川が創業したのは、今から470年以上前の1548年。以降、摂田屋地区の風土や人とともに歩んできました。

吉乃川の日本酒は、新潟で主流の淡麗辛口でありながらも、柔らかな口当たりで飲みやすく、余韻が心地よく残るのが特徴。この秘密は、仕込みに使う水にあります。敷地内で汲み上げる水は、ミネラルをほどよく含んだ軟水。この仕込み水によって、キレイでありながらもまろやかな余韻を残す酒ができるのだそうです。

室町時代に創業し、多くの人に愛される吉乃川。酒造りの根幹には、雪国や信濃川が育んだ豊かな自然の恵みがありました。

そんな吉乃川の酒造りについて、蔵元の川上麻衣さんはこう話します。

蔵元の川上麻衣さん 蔵元の川上麻衣さん

川上さん:弊社らしい酒が醸せるのは、この地の気候風土や水、米、そして伝統の技があるからこそ。その4つが掛け合わされ、個性を作っています。地元の方に飲まれ続けてきた定番酒はもちろん、多様な味わいの酒を取り揃えているのも吉乃川の特徴です。甘味や酸味が引き立っているものや、香りが華やかなもの、そして飲みやすいスパークリングなど、幅広い商品を展開しています。

「極上シリーズ」飲み比べセット 新潟土産におすすめの「極上シリーズ」飲み比べセット。新潟らしい淡麗辛口の代表格ともいえる味わいが堪能できる

川上さん:吉乃川では、多くの人にお酒の楽しみを提供し、より豊かな毎日を過ごしていただきたいという思いがあります。そのため、日々たのしむお酒として気軽に晩酌で飲める銘柄が多いんです。プレミアムな銘柄もありますが、どちらかといえば、食中酒(脇役)として普段の食事を引き立たせることを大切にしています。日常生活でリラックスできる時間を提供したいですね。

蔵元の川上麻衣さん 地元長岡の企業と開発したオリジナルのフルステンレスボトル「カヨイ」。ボトルには吉乃川のロゴとロットナンバーが刻まれる

最近では吉乃川の独自サービス「カヨイ」が人気です。吉乃川と地元長岡の企業がオリジナルで開発したステンレス製のボトル「カヨイ」に、酒蔵でしか飲めないプレミアムなお酒を詰めて直接皆様のお家に発送。飲み終わったボトルを吉乃川に返却することで「おかわり(有料)」ができるサービスです。かつて日本に存在した「通い徳利」という販売方法から生まれた、酒蔵とお客様が直接つながるオリジナルのサービスです。

時には、返送されたボトルにお客さんからの手書きのメッセージが添えられていることもあるのだとか。このサービスには、お客様とより深いつながりを醸していきたいという吉乃川の思いが込められています。
■吉乃川 酒ミュージアム「醸蔵」

酒ミュージアム 醸蔵(じょうぐら) 酒ミュージアム 醸蔵(じょうぐら)の外観

吉乃川の敷地内にある「酒ミュージアム『醸蔵(じょうぐら)』」では、吉乃川の歴史や酒造りが学べる「展示コーナー」、吉乃川の様々なお酒がテイスティングできる「SAKE バー」、限定酒などの幅広いラインナップが揃う「売店」があります。酒造りの様子がイメージしやすくなり、日本酒がより身近に感じられることでしょう。

酒造りの工程を遊びながら学べる「酒造り体験ゲーム」も

また、「SAKEバー」では、同施設限定のお酒を味わったり、飲み比べをしたりと、吉乃川の日本酒に触れることができます。仕込み水を使った水出しコーヒーや麹甘酒「朝麹」もあり、ドライバーやお子様でも楽しめます。

【吉乃川 酒ミュージアム「醸蔵」 アクセス】
電車の場合 JR宮内駅より徒歩約10分

公式ホームページはこちら

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【コラム】摂田屋で醸された商品がそろう「発酵ミュージアム・米蔵」

発酵ミュージアム・米蔵 発酵ミュージアム・米蔵

吉乃川のそばにある「発酵ミュージアム・米蔵」も、あわせて立ち寄りたいスポット。摂田屋地区でつくられた味噌や醤油などを購入できるほか、地元食材を使ったおにぎりもいただけます。観光案内所としても機能しており、イスやテーブルも利用できるため、観光情報を集めたり、ひと休みしたりするのもおすすめです。

【発酵ミュージアム・米蔵 アクセス】
電車の場合 JR宮内駅から徒歩約10分

公式ホームページはこちら

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【住】雪国を支えた「竪⽳住居」とコミュニティ「環状集落」

縄文時代における信濃川流域の「衣食住」について知るため、最後に訪れたのは長岡市の馬高縄文館。馬高・三十稲場遺跡に関する資料や、⽕焔型⼟器の中で最初に発見された「⽕焔⼟器」などを展示しています。

また、隣接する馬高遺跡内には、元々建っていたとされる場所に竪穴住居を忠実に再現。縄文人が見ていた景色を想像しながら文化を学ぶことができます。

縄文時代に主流だった竪穴住居や環状集落、そして雪国ならではの暮らしについて、長岡市立科学博物館および馬高縄文館の館長である小熊博史さんに伺いました。

小熊さん:竪穴住居とは、地面を少し掘りくぼめ、壁や屋根に茅(かや)をふいて仕上げ、土間を作って囲炉裏を置いた家屋のこと。床を掘り込まない平地式や、高床構造の建物も知られていますが、⽕焔型⼟器が作られていた縄文時代中期、この辺りでは竪穴住居がメジャーだったとされています。床を掘り込むことで、冬は暖かく、夏は涼しいというメリットがあるようです。

小熊さん:馬高遺跡には、床面が長方形のタイプと、円形のもの2種類の竪穴住居が復元されていますが、縄文時代には両方存在していました。現代でもさまざまな形の家屋があるように、当時もムラや家族によって多様な住居を建てていたのではないでしょうか。床の大きさは、長方形のもので約3×7.5〜8m。夫婦と子ども、といった4〜5人ほどで暮らせるサイズです。
雪国ならではの竪⽳住居の特徴とは?

雪がない地域に比べると、信濃川流域の竪穴住居は柱が太い傾向にある、と小熊さんは話します。

小熊さん:有機質である木は土に還るため、住居を支える柱自体が発掘されることはほとんどありません。しかし、かつて柱があった部分は土が黒ずんでいるため、遺跡調査では、柱の位置やサイズを特定することができるんです。柱跡の直径を比べてみると、雪が降らない地域よりも少し太いことがわかりました。さらに、屋根は三角形にとがっているため、積もった雪は地面に落ちます。そのため、雪が大量に積もったとしてもすぐに潰れることは少なかったのではないでしょうか。
現代にも通ずるコミュニティ・ムラ

縄文人は、環状集落と呼ばれるムラを形成し、共同生活を送っていました。人々は、環状集落でどのような暮らしをしていたのでしょうか。

小熊さん:馬高遺跡は、北のムラから南のムラへと、やや規模を縮小して移転した形跡があり、どちらからも遺構(住居の跡)が発掘されました。遺跡を俯瞰すると、遺構は放射線状に広がり、中心には遺構がありません。ここがムラの広場であり、人々の共同の場所だったとされます。柱の跡が放射線状に広がっているのは、住居が広場の中心を向いているから。これが環状集落の基本的なスタイルです。

小熊さん:ヒトが生きるには水が必要。そのため、水のある場所のそばに住まいが築かれます。事実、馬高遺跡のそばにも、小さい川が流れていました。

住民同士で協力し合っていた縄文人たち。ムラの小さなコミュニティの中だけで生活していたと思いきや、外部との交流もあったそう。
小熊さん:馬高遺跡では、石鏃(せきぞく)や磨製の石斧、玉類も発掘されました。これらの原料の一部は、遺跡周辺で採れるものではなく、糸魚川が原産の蛇紋岩(じゃもんがん)やヒスイなどのほか、佐渡や長野県、伊豆諸島原産の黒曜石も見つかっているんです。つまり、これらの石材は、遠方から持ち込まれたということ。当時から馬高遺跡は、他の地域との交流があり、遠方の品々が集まっていたんですね。

他地域とのつながりによって、さまざまな文化や物品がもたらされた馬高遺跡。ムラの外との交流も、⽕焔型⼟器の誕生に影響を及ぼしているのではないでしょうか。
■馬高縄文館

約1,000点もの総展示数を誇る馬高縄文館。収蔵庫には、馬高・三十稲場遺跡で発掘された遺物がほとんど収められており、コンテナの数はなんと1,100箱。復元途中の土器もあり、ガラス越しに見ることができます。
生前には、長岡を訪れており、縄文土器を見て「なんだ、コレは!」と驚嘆した岡本太郎さん。馬高縄文館では、芳名帳に残された言葉とサインも見ることができます。

【馬高縄文館 アクセス】
電車・バスの場合 JR長岡駅からバスで25 分

公式ホームページはこちら

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【コラム】なじょもんでは⼟器や勾⽟づくりも体験できる!

遺跡や博物館と合わせて訪れたいのが、津南町にある農と縄文の体験実習館「なじょもん」。室内や縄文ムラで土器や勾玉づくり、アンギン編み、そして木の枝や松ぼっくりなどを使った工作などが体験できます。
さらに、屋外の縄文ムラでは竪穴住居に入ることも。津南町の沖ノ原遺跡をモデルにし、当時と同じ大きさで復元したもので、近隣住民が手作りしたそうです。

土器が並ぶ「整理室」も同施設の見どころ。一般的には、教科書やガラス越しでしか見られない出土品を間近で観察したり、本物の⽕焔型⼟器に触れたりすることもでき、大人から子供まで楽しめます。縄文グッズも販売されているので、お土産を購入するのもおすすめです。

【農と縄文の体験実習館 なじょもん アクセス】
電車・バスの場合 JR越後湯沢駅より森宮野原行きバス、
津南町「卯の木上口」下車
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恵まれた自然や、人との共生の中で生まれた⽕焔型⼟器や雪国文化。それらは悠久の時を経て磨かれ、現代の暮らしにつながっています。信濃川流域を訪れ、縄文文化を追体験すれば、日常の何気ない「衣・食・住」も、価値の高いものに見えてくるはずです。
【本稿で紹介した構成文化財】 信濃川
笹山遺跡出土品
馬高遺跡出土品
馬高・三十稲場遺跡

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