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2024.03.18

特集

日本遺産巡り#31◆“日本最大の海賊” の本拠地:芸予諸島 -よみがえる村上海賊 “Murakami KAIZOKU” の記憶-

いったい何者だったのか?
いくつもの顔を持つ村上海賊を追って。

瀬戸内海の西部、広島県と愛媛県の間に密集して連なる大小の島々、芸予諸島。現在では西瀬戸自動車道、愛称「しまなみ海道」により1時間ほどで渡ることができるこの一帯を、かつて「日本最大の海賊」と呼ばれた勢力が本拠地としていました。「村上海賊」です。

南北朝期に資料上に登場し、豊臣政権のころこの地を去った彼らは、現代人の私たちが「海賊」という名から連想する姿とは一線を画す集団だったようです。では、いったいどんな人たちだったのか? しまなみ海道の眺めを楽しみつつ、想像を膨らませてみませんか。

“海賊の目”で芸予諸島を一望

来島海峡大橋 来島海峡大橋

起点は愛媛県今治市。車で市街地を抜け、しまなみ海道で最長のつり橋・来島海峡大橋を東に進み、大島に渡ります。島の南部にある亀老山展望公園の展望デッキに上り、まずは芸予諸島を眺めてみましょう。西方の今治方面に目を向けると、深い青色の海と緑色の島々からなる美観を、真っ白い橋梁が貫いていきます。
ここが日本有数の急潮流の一つに数えられる来島海峡。村上海賊のうち、来島・能島村上氏が押さえていた要所です。標高308mの山頂からでも海面の白波が確認でき、潮流の激しさが想像できます。荒々しさと美しさを併せ持つこの風景を見て、海賊たちは何を思ったのでしょう。
因島・能島・来島――村上氏は三家
村上海賊は三つの家があります。広島県側の沿岸航路を押さえた「因島(いんのしま)村上氏」。芸予諸島の中央を通る最短航路でにらみを効かせた「能島(のしま)村上氏」。そして、愛媛県沿岸の航路を手中にした「来島(くるしま)村上氏」。合わせて「三島(さんとう)村上氏」とも呼ばれます。
彼らがいつ、どこから来て、どのように三島に分かれたのか、などについてはわかっていません。資料上に登場するのは南北朝期の1349年。「野嶋」(能島村上氏)の海賊が幕府の船を警固したという記録が最初です。当時は瀬戸内の諸勢力の一つに過ぎなかった村上海賊は、こうした警固活動を通じて周辺大名などとの関係を築き、次第に力をつけていきました。同族意識で結ばれた彼らは、ときにガッチリ連携し、ときには反目もしながら、瀬戸内海の秩序と航海の安全を下支えしたといわれます。

亀老山展望公園から大三島方面の眺め 亀老山展望公園から大三島方面の眺め

【亀老山展望公園】
所在地 愛媛県今治市吉海町南浦487番地4
アクセス 今治方面から:大島南ICより車で約10分
尾道方面から:大島北ICより車で約15分

亀老山展望公園の情報はこちら

村上海賊の姿に迫る手がかりがここに

今治市村上海賊ミュージアム 今治市村上海賊ミュージアム

右から今治市文化振興課日本遺産推進係の福山佳範さん、今治市村上海賊ミュージアム学芸員の松花菜摘さん、今治市文化振興課日本遺産推進係の藤井健太郎さん

今治市村上海賊ミュージアムは、亀老山から20分ほど走った大島北東部、能島城跡を望む海岸にあります。能島村上氏が代々伝えてきた文化財や発掘調査での出土品を中心に、村上海賊の全容にわたる解説とともに展示する博物館です。学芸員の松花菜摘さんが館内の案内をしてくださいました。
村上海賊の “いくつもの顔
①水軍
最初に「水軍」としての村上海賊を見ていきましょう。常設展示室には戦国時代の船の模型や能島城跡から出土した武器が展示されています。

左から安宅船(あたけぶね)、関船、小早船 左から安宅船(あたけぶね)、関船、小早船

松花さん:「水軍(海の軍隊)」としての村上海賊は、機動性に優れた「小早船(こばやぶね)」や中型船「関船(せきぶね)」を主に用いていました。潮流や地形を利用した巧みな操船技術で敵船を翻弄させたり、弓・鉄砲・焙烙玉を使った遠距離攻撃を行い、仕上げに敵方の船を乗っ取るという戦法を得意としていたようです。

館外に展示された小早船の復元船 館外に展示された小早船の復元船

松花さん:また、毛利輝元に協力して、織田信長配下の水軍を撃破した「第一次木津川口の戦い」では、火薬を仕込んだ兵器「焙烙(ほうろく)」を敵船に投げ入れ、織田の大船団をことごとく焼き崩したことが、毛利・織田双方の資料に記録されています。

海賊が接近戦で使った武器。(画像は江戸時代のもの) 海賊が接近戦で使った武器。(画像は江戸時代のもの)

織田の水軍を焼き崩した焙烙。(イメージ模型) 織田の水軍を焼き崩した焙烙。(イメージ模型)

要するに水軍としての村上海賊は、遠隔戦でも接近戦でもめちゃくちゃに強い軍団だったのです。敵に回すとやっかいな相手だけに、当時の有力武将たちも彼らとの関係づくりには細心の気配りをしたようです。
三島村上氏は、それぞれが状況に応じて毛利氏についたり、大友氏や織田氏についたりしたものの、家臣に納まることはありませんでした。常に独立した海戦のエキスパートとして、力ある武将たちと対等に渡り合ったのです。

能島村上家に伝わる猩々陣羽織 能島村上家に伝わる猩々陣羽織。鮮やかな緋色は想像上の動物「猩々」の血で染めたと伝わっています。

紅地白引両上字紋幟 紅地白引両上字紋幟

②海の安全保障
しかし水軍としての活動は、村上海賊の一面でしかありません。むしろ彼らの本業は、戦うことではなく、通行料の徴収とその代価としての警固活動にありました。

松花さん:瀬戸内海を東西に移動する船は、必ず本州と四国の間に南北に連なる芸予諸島のどこかを通ることになります。彼らはその要所要所に多くの城を築き、縄張りを主張するとともに海峡を監視しました。航行する船から通行料を徴収する代わりに、他の海賊に襲われるのを防いだり、「上乗り」といって船に乗り込んで水先案内を行ったりすることが、彼らの主な生業でした。
村上海賊を「日本最大の海賊」と記した宣教師ルイス・フロイスは、海上を安全に通行するため「能島殿」に交渉し、紋章が入った絹の旗をもらったことも書いています。この旗を「過所旗(かしょき)」といい、通行料を払った船に通行許可証として渡していました。「怪しい船に出合った時にこの旗を見せるがよい」と伝えたといいます。

村上武吉が発給した過所旗の複製版(原資料は山口県文書所蔵)

現存する過所旗には、能島村上氏を示す「上」の字が大きく書かれています。他の海賊たちも、この旗を見たら引き返すしかありませんでした。それほど村上海賊は周囲から恐れられていたのでしょう。強いが故に成立した安全保障ビジネスといえます。
しかし、ときには通行料の支払いを免れようとする船もありました。関所破りです。鬼のように強い村上海賊が黙って見過ごすはずがありません。
松花さん:もちろん、払わない船はボコボコにしました。能島の拠点・上関で関所破りが起きた際、すぐに能島へ報告され、因島とともに蒲刈で相手の船団を待ち伏せして、鉄砲や焙烙を使って大損害を与えたという記録があります。

この経緯については「関所破りボコボコ事件」と題する館内展示に詳しい説明があります。

「関所破りボコボコ事件」についての資料展示

③漁業
さて、次なる村上海賊の海での活動は、「漁業」です。

松花さん:能島城跡では、土錘(漁網に取り付けるおもり)が数多く見つかり、漁師のような活動もしていたと考えられます。また、周辺の大名に海産物を贈ったりしています。

これは素直に理解できますね。村上海賊を構成する人々の中には、平時は魚を取って暮らしていた人たちが数多くいたのでしょう。そして、芸予諸島の激しい潮流に精通した漁師だからこそ、水先案内人も務められたのかもしれません。
④流通業
さらにさらに、彼らは「流通」にも関わっていたと考えられます。松花さんの説明が続きます。
松花さん:能島から1kmほど北に位置する見近島からは、中国・ベトナム・朝鮮などの焼き物が数多く出土しました。同じ形のお皿が大量に見つかっているため、商品になる予定の在庫品だったのでしょう。台帳などの記録は残っていないので想像するしかありませんが、村上海賊が商品流通に何らかの形で関与していたと考えて間違いないと思います。
マルチな活動と先端技術
松花さんとともに館内を巡り、彼らが営んだ活動の広がりが見えてきました。軍事と安全保障、漁業に流通業。加えて、造船・修繕、築城や港湾土木、鍛冶といった高度技術も磨いていたでしょう。「海賊」という言葉からは想像できないほど多面的に行動する集団。それが村上海賊の姿だったのでは? ……想像は膨らみます。
自らの勢力を維持・発展させるために、自然環境をたくみに利用し、地域の人々を巻き込んで展開した彼らの活動が、今日の瀬戸内海地域の海事産業につながっていったのかもしれません。
「Pirates」じゃなく「Kaizoku」
「村上水軍」と呼ばれることも多いせいか、「海賊」と「水軍」を同義語のように感じていましたが、決してそうではなかったことも、よくわかりました。

松花さん:「村上水軍」と呼んでしまうと、「水軍」以外の側面が抜け落ちてしまい、村上海賊を正しく説明できなくなります。
そもそも「水軍」という言葉自体、彼らの時代にはあまり使われていません。当時、水軍に当たる集団は、「警固衆(けごしゅう)」とか「船手(ふなて)」などと呼ばれていました。また東国では、水軍のことを「海賊」と呼んでいました。このように、「海賊」は当時から使われていた言葉ですが、その意味は地域や時代により変化しています。
現代では、“船を一方的に襲って金品を強奪するパイレーツ”が「海賊」だと思われています。しかし彼らは「パイレーツ」とは異なります。ですから私たちは、村上海賊を「PIRATES」ではなく、「NINJA」や「SAMURAI」と同様、日本固有の存在「KAIZOKU」として世界に発信しています。

ミュージアムにはこの他にも興味深い史料展示がたくさんあり、「Murakami KAIZOKU」に関心がある方は一見の価値ありです。

【今治市村上海賊ミュージアム】
所在地 愛媛県今治市宮窪町宮窪1285番地
アクセス 今治方面から:大島南ICより車で約15分
尾道方面から:大島北ICより車で約5分

今治市村上海賊ミュージアムの情報はこちら

祈る心を歌にして氏神に捧げた海賊たち。

大山祇(おおやまづみ)神社 大山祇神社

大島から、しまなみ海道で本州方面へ。伯方島を経由し、芸予諸島最大の島である大三島に降り立ちました。ここには、村上海賊をはじめとする海の武将たちが氏神として崇め、武運と航海の安全を祈願した「大山祇(おおやまづみ)神社」が鎮座します。
総門をくぐり、厳かな雰囲気が漂う広い境内を進むと、樹齢2600年を数えるご神木、「乎知命(おちのみこと)御手植の楠」がありました。

御神木:小千命-おちのみこと(乎知命)御手植の楠 御神木:小千命-おちのみこと(乎知命)御手植の楠

上の句「塵とのみつもりて雪やたかま山」に対し、「さえ行く月はかつらぎのさと」と応えたのは、能島村上氏全盛期の当主、村上武吉。連歌は、1人で詠む短歌とは異なる機知や教養が問われる一面があります。日本総鎮守・伊予国一宮である由緒ある大山祇神社には、村上海賊の武器や武具のほか、自らの思いを読み連ねた「法楽連歌」が奉納されました。松花さんの説明を思い起こします。

松花さん:大三島東岸の沖合に浮かぶ海城、甘崎城主の村上吉継は、一人で約270句も詠んでいます。また神社には、吉継を「地頭神主」と記した史料が残っており、海賊でありながら神社にも携わる文化人だったことがわかります。
一方、能島城跡からは、茶道や香道の道具も見つかっています。「海賊」というと野蛮なイメージがつきまといますが、歌を詠んだり香を聞いたりといった文化的な一面も、彼らは持っていたんですね。

芸予諸島の荒海で勇躍した彼らは、有力武士たちと対等に渡り合うために欠かすことのできない文化・教養を着実に身につけていったのでしょう。また一つ、村上海賊の新しい顔が見えた気がしました。

【大山祇神社】
所在地 愛媛県今治市大三島町宮浦3327番地
アクセス 大三島ICから車で約10分

大山祇神社の情報はこちら

守りの要所に観音堂を設けた因島村上氏。

白滝山

白滝山観音堂

しまなみ海道をさらに本州方面に進み、愛媛と広島の県境を越えます。生口島を経て、因島に到着しました。文字通り、因島村上氏が拠点とした島です。他の二氏の居城である能島城・来島城は、いずれも小さな島全体が一つの城として機能していたのに対し、大きな面積を持つ因島には岬に設けた海城や内陸部の山城など、多くの拠点が点在していました。
島北部にある白滝山に上ってみましょう。古代から山岳信仰の対象となった場所で、戦国時代の因島村上氏当主の吉充が居城(青木城)の控えの要害とした際に、観音堂を造営したと伝わっています。
ここで旅行者の目を惹きつけるのは、観音堂の先にズラリと並ぶ石仏群、五百羅漢像。一つひとつ異なる表情を持つ約700体は、時代が下った江戸後期に設けられたものです。もしも因島の海賊衆がこの光景を見たら、どんな感慨を持ったことでしょう。

ズラリと並ぶ石仏群、五百羅漢像 展望台から北の本州方面を臨む。

【白滝山展望台・五百羅漢像】
所在地 広島県尾道市因島重井町
アクセス 今治方面から:因島南ICから車で約15分
尾道方面から:因島北ICから車で約7分

白滝山・五百羅漢情報はこちら

因島から向島を通り抜けると広島県尾道市街。しまなみ海道本州側の終端、旅の終わりです。ここで宿を取った翌日、今治方面へ引き返すことにしました。
今治市職員の福山さん・藤井さんから「ぜひ体験してください!」と強く勧められていた「能島城跡上陸&クルーズツアー」に参加するためです。

村上海賊の行動力の原点は親密なコミュニティにあった?

能島村上氏の居城をめざして

ライフベストを着てクルーズ船へ ライフベストを着てクルーズ船へ。

再び訪れた大島。村上海賊ミュージアムの正面にある「能島城跡上陸&潮流クルーズ」発着場所からクルーズ船に乗り込んで、能島村上氏の居城跡に向かいます。
 

能島全景。中央の高台が本丸跡です。

能島城は、能島と鯛崎島という2つの小島からできていました。先に少し触れたように、「島に城を築いた」のではなく「島全体を城にしている」のです。船で能島に近づけば、その意味がわかります。海面から急角度で立ち上がる崖は、山城でいう切岸のよう。また土を削って平らに均した地形はいかにも人工的で、まさに島そのものが城跡に見えます。
これって海の流れなの?
出発して10分もかからずに、能島周辺でもっとも激しい潮流が体感できるポイントにさしかかります。流れの速さと落差は、もはや海というより激流川下りのようです。
学芸員の松花さんから「能島城は、防御の工夫が比較的少ないお城」と説明されたことを思い出しました。切岸を思わせる岩壁に加え、高度な操船技術を要する急潮流が天然の防御策として働くので、人工的な防御の工夫は最小限ですんだのかもしれません。

最大10ノット(時速約18km)にも達するという急潮流 最大10ノット(時速約18km)にも達するという急潮流

岩場に並ぶ大穴のヒミツ
能島の東側から反時計回りに進み、船は島北部の「船だまり」というなだらかな海岸に近づきます。潮の流れが穏やかなエリアです。能島城跡上陸&潮流クルーズのガイド、斉藤靖之さんによれば、ここが能島城の表玄関だったと考えられるそうです。

斉藤さん:海賊衆は能島の山を削って、本丸・二の丸・三の丸という平坦部を造成し、建物を築きました。そこで出た土をここに埋めたんですね。だから、船だまりは埋め立て地です。水際の岩に大きな穴が開いているのが見えるでしょう?

斉藤さんが指さす船だまり奥の岩場には、複数の穴が穿たれていました。これは「岩礁ピット」という、船着場に欠かせない設備です。村上海賊ミュージアムにもそのレプリカが展示されており、学芸員の松花さんからこんな説明を聞いていました。

岩盤に穿たれた岩礁ピット 岩盤に穿たれた岩礁ピット

松花さん:村上海賊の海城の特色として、岩礁ピットがあります。ここに柱を立てて船を繋いでいたと考えられます。海から陸に向かって並んだものは、現在も各地の港に残る「雁木」と同じ機能を持つと考えられ、海面水位の干満差が3メートルにもなる瀬戸内の島々で、どんな水位であっても船の発着・係留を可能にする工夫なのでしょう。

能島では合わせて約400ほどの岩礁ピットが見つかっているそうです。
能島城本丸で酒を酌み交わす
南部平坦部の桟橋から、いよいよ能島上陸です。整備された階段を上り三の丸へと進みます。

クルーズガイドの斉藤靖之さん クルーズガイドの斉藤靖之さん

斉藤さん:2005年から10年間かけて発掘調査が行われた結果、能島城跡では15棟の建物跡が見つかりました。三の丸にはその一つ、蔵と考えられる大きな建物がありました。航行する船から通行料として集めた金品を保管していたのかもしれませんね。
そして三の丸から本丸へ。

斉藤さん:本丸では、お酒を飲む素焼きの器(かわらけ)の破片が1万点以上見つかっています。能島の海賊衆は、ここで酒を酌み交わしたのでしょう。また本丸では、物見やぐらだったと思われる正方形の建物跡も見つかっています。海抜26メートルの本丸に建てたやぐらから四方の海を監視して、何かあれば迅速に対処したのだと思われます。
「城」というと瓦葺きの門や天守閣を連想するものですが、発掘調査の結果、瓦は一かけらも見つからなかったそうです。いったいどんな建物だったのでしょうね。

倉庫が建っていたと考えられる三の丸 倉庫が建っていたと考えられる三の丸

矢びつと呼ばれる場所。弓の稽古場だったのかも? 矢びつと呼ばれる場所。弓の稽古場だったのかも?

家族のようなコミュニティ?
さらに二の丸へと進みます。ここは主に居住スペースだったと思われます。何度か立て替えられたと見られる住居跡が見つかっているそうです。近世のお城のような漆喰や屋根瓦で外装した堅固な建物ではなかったはずで、頻繁な建て替えが必要だったのかもしれません。

斉藤さん:能島城には150人ほどが暮らしていたと考えられているそうです。戦時だけ人が集まる砦とは違い、常時ここで生活していたんです。煮炊きする道具や漁網用の土錘がたくさん出土したことが、そう考えられる理由です。
加えて、女性のお化粧道具や子どもが遊ぶおはじきなども見つかっています。戦う男たちだけでなく、その家族も一緒に暮らしていたんですね。


能島は周囲約846m、鯛崎島約256m。この小さな島に暮らしていた、さまざまな世代の数多くの人々。そして、交わされた数多くの酒杯。きっと、島全体が一つの家族のような親密さでつながっていたのに違いありません。だからこそ、いざというとき一糸乱れず行動することができ、瀬戸内の覇権を握ることができたのでしょう。

二の丸から見た鯛崎島 二の丸から見た鯛崎島。かつてはつり橋でつながっていたという伝承もあります。

【能島城跡上陸&潮流クルーズ】
所在地 愛媛県今治市宮窪町宮窪1293番地2
アクセス 今治方面から:大島南ICより車で約15分
尾道方面から:大島北ICより車で約5分

能島城跡上陸&潮流クルーズ情報はこちら

来島城跡を見下ろして
三島村上氏の居城をコンプリート。

来島海峡大橋を今度は西に進んで四国本土に戻ります。しまなみ海道をたどる村上海賊の旅もゴールに近づいてきました。今治市街に入る前に少しだけ寄り道して市の北部へ。来島海峡に突き出す半島の先にある来島海峡展望館・糸山展望台を訪ねます。

来島 来島

ここ糸山展望台からは、来島がすぐそこに見えます。先ほど上陸した能島同様、島全体が来島村上氏の居城・来島城だったところです。能島と鯛崎島が無人島だったのとは異なり、来島では数世帯が漁業を営んでおり、今治市波止浜港から船で5分ほどで渡ることができます。

【来島海峡展望館・糸山展望台】
所在地 愛媛県今治市小浦町2丁目5−2
アクセス 今治市街から車で約15分

来島海峡展望館の情報はこちら

2016年に日本遺産に認定された「“日本最大の海賊”の本拠地:芸予諸島――よみがえる村上海賊“Murakami KAIZOKU”の記憶――」。
「海賊」という言葉を大きく飛躍する彼らのいろいろな顔に思いを馳せる旅に、出かけませんか。しまなみ海道のダイナミックな景観と、瀬戸内の荒波に育まれた海の幸も、ぜひ楽しんでくださいね。
【本稿で紹介した構成文化財】 大三島
大山祇神社法楽連歌
能島城跡
見近島
能島村上家伝来資料軍
来島城跡
白滝山(五百羅漢)

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