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2024.04.24

特集

日本遺産巡り#32◆「いざ、鎌倉」
~歴史と文化が描くモザイク画のまちへ~

「鎌倉時代」だけじゃない!
何度でも楽しめる日本遺産の地 鎌倉の歩き方

源頼朝が幕府を開き、武家政権の中心地として発展した古都鎌倉。

寺院をはじめとする歴史的遺産と自然が調和したまちの姿は、鎌倉幕府滅亡後も人々によって守り伝えられてきました。

各時代の建築や、この地で創作活動に励んだ芸術家たちによって育まれた文化、生業や行事などのあらゆる要素がまるでモザイク画のように組み合わさり、他にはないまちの魅力を形成していく過程は「いざ、鎌倉~歴史と文化が描くモザイク画のまちへ~」のストーリーとして日本遺産に登録されています。

 

日本遺産いざ鎌倉協議会(鎌倉市観光課) 只野 一道さん 日本遺産いざ鎌倉協議会(鎌倉市観光課) 只野 一道さん

さまざまな時代の文化や遺産に触れられる鎌倉市をご案内いただくのは、日本遺産いざ鎌倉協議会(鎌倉市観光課)只野 一道さん。何度でも訪れたくなるこのまちの見どころや、歴史について教えていただきました。

【奈良・平安】発掘調査によって明らかになった
開府以前の歴史を知る

源頼朝によって幕府が開かれる前の鎌倉の姿については、いまだに謎に包まれている部分も少なくありません。しかし、近年の研究では意外な事実が判明したといいます。まずは、平安時代までのこの地の歴史を紐解いていきましょう。
鎌倉の歴史を楽しく学べる、鎌倉歴史文化交流館

鎌倉歴史文化交流館 外観 鎌倉歴史文化交流館 外観

はじめに足を運んだのは、鎌倉歴史文化交流館。この博物館では、原始・古代から近現代までの鎌倉の歴史を、時代・テーマごとに紹介しています。

只野さん:この建物は、イギリスの建築家ノーマン・フォスター氏が率いる設計事務所「フォスター+パートナーズ」によって2004年に竣工された個人邸宅をリノベーションしたものです。館内では、ジオラマやビデオ上映のほか、プロジェクションマッピングやVRなどの最新デジタル技術を使い、鎌倉の歴史と文化を紹介しています。また、中世の景観を彷彿とさせる庭園、高台からの海の眺望も見逃せません。

これまでの研究では、頼朝の時代に政治の中心地として発展するまでの鎌倉は「何もない場所」だったと考えられていました。しかし最近の発掘調査では、実はそうではなかったことが徐々にわかってきているそう。

只野さん:例えば、市内の発掘調査では、墨書で「天平五年(奈良時代の元号、733年)」という文字が書かれた木簡や、役所の跡と思われる〝コの字型〟に並んだ建物の柱の穴も見つかっています。この調査によって、古代の鎌倉は行政の中心地であったと推測できるようになりました。もちろん、この地が大きな都市に発展していくのは鎌倉時代以降のことであることは間違いありませんが、そのベースとなる集落や土壌については、すでにそれより前の時代に存在していたんです。

鎌倉周辺のジオラマ プロジェクションマッピング技術を活用して鎌倉の歴史と地理を解説するジオラマ

窓の外の庭園風景と調和する展示室の空間 窓の外の庭園風景と調和する展示室の空間

鎌倉歴史文化交流館のもう一つの見どころは、細部までこだわり抜かれた建物内部の設え。個人邸宅として建てられたとは思えないほどの立派な建築を目当てに来館される、建築好きの方も少なくないそうです。

大理石でできた壁面の内側からは、光が差し込む

館内で古代から近現代に至るまでの鎌倉の歴史を学んでから市内を観光することで、よりその後の散策が楽しめるようになるはずです。ぜひ鎌倉の歴史を学びに訪れてみてはいかがでしょうか。
【鎌倉歴史文化交流館へのアクセス】
アクセス JR鎌倉駅・江ノ電鎌倉駅より徒歩7分
住所 〒248-0011
神奈川県鎌倉市扇ガ谷1-5-1

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【鎌倉~江戸時代】政治と文化の中心地で
武士たちに思いを馳せる

鶴岡八幡宮 外観 鶴岡八幡宮 外観

武家社会が誕生した鎌倉時代、幕府の初代将軍である源頼朝は、国の政治機能を京都から鎌倉に移します。それ以降、鎌倉は政治の中心として飛躍的な発展を遂げていきました。
源頼朝ゆかりの神社、鶴岡八幡宮
鎌倉の定番観光スポットとして人気の鶴岡八幡宮は、源頼朝ゆかりの神社。当時の人々にとっては、精神のよりどころのような存在でした。幕府の重要祭事として境内で執り行われた「流鏑馬(やぶさめ)」は、800年経った今も代表的な神事として受け継がれています。さらに、政治の中心地であった鶴岡八幡宮は、文化の発信地としても重要な役割を担いました。

鳥居をくぐり、本宮へと続く60段の大石段を上りきると、鶴岡八幡宮の参道である若宮大路を遠くまで望むことができます。
只野さん:若宮大路の中央にある歩道は「段葛(だんかずら)」と呼ばれています。海の方まで続く段葛は、頼朝が妻である北条政子の安産祈願のために海から八幡宮まで引いた道だと言われており、名だたる御家人が石を運んだことを示す資料も残っているんですよ。晴れた日には、ここから由比ヶ浜まで見渡すことができます。ぜひ本殿にお参りする前に、石段の上からの景色もお楽しみください。

本宮の手前にある門の扁額

本宮の手前にある門の扁額には「八幡宮」の文字。「八」の字をよく見てみると、2羽の鳥が対になっているよう。

只野さん:「八」の文字に隠れているのは、八幡様の使いであるといわれる「鳩」です。鶴岡八幡宮内には、他にも鳩のモチーフが施された場所がありますので、探しながら歩いてみるのも面白いかもしれません。
本宮の西側に位置する、丸山稲荷社も境内の見どころの一つだといいます。

只野さん:丸山稲荷社は、敷地内に現存する建物の中でもっとも古くからある地主社です。貴重な室町時代の寺社建築として、国の重要文化財にも指定されています。本宮にお参りした後に立ち寄りやすいため、ぜひ見ていただきたい場所の一つですね。

鎌倉幕府の滅亡後、室町幕府は鎌倉に東国支配のための統治機関を置き、そこに長官である「鎌倉公方(かまくらくぼう)」を配置します。鎌倉が政治の中心地ではなくなったのは、鎌倉公方たちが京都の幕府と対立し、古河に移った後のことだそうです。

只野さん:鎌倉公方が拠点を古河に移すと、経済は徐々に衰退していきます。しかし、政治の中心地ではなくなっても、武家政権が始まった鎌倉の地は、武士たちにとって特別な場所であることに変わりありませんでした。彼らにとって鎌倉を抑えることは、自らの正統性を示すことでもあったんです。そのため、北条氏や豊臣秀吉、徳川家康など、その後の武家政権を支えていった将軍たちは皆、鶴岡八幡宮を保護しました。
 

江戸時代に入ると、歌舞伎や浄瑠璃、浮世絵などの作品で鎌倉が描かれるようになります。庶民の間で鎌倉の名が広く知られるようになると、頼朝ゆかりの地、そして多くの社寺がある名所として、次第に人気の観光地へと変化。まちは多くの人で賑わいました。

鎌倉に来たら必ず立ち寄りたい鶴岡八幡宮。多くの人々が愛し、守り続けてきた美しい景観を楽しみ、中世の歴史に思いを馳せながら散策を楽しんでみてはいかがでしょうか。

【鶴岡八幡宮へのアクセス】
 
アクセス 鎌倉駅から徒歩約10分
住所 〒248-8588
神奈川県鎌倉市雪ノ下2-1-31

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鎌倉国宝館で、鎌倉の仏像の魅力に触れる

鶴岡八幡宮の境内東側にある鎌倉国宝館 鎌倉国宝館 外観

次に訪れたのは、鶴岡八幡宮の境内東側にある鎌倉国宝館。ここは、主に鎌倉時代から室町時代にかけて制作された、地域の代表的な美術工芸品や歴史資料を展示する博物館です。

設立のきっかけとなったのは、大正12年の関東大震災。市内にあった貴重な文化財の多くがこの大災害によって失われてしまったといいます。この経験から、昭和3年に文化財を保護しながら多くの人が鑑賞できる場所として鎌倉国宝館が開館することとなりました。

只野さん:平常展示では、主に鎌倉時代から室町時代にかけての中世に造られた仏像が多く展示されています。これだけ数多くの仏像が常に展示されている公立の博物館は全国的に見ても珍しいため、仏像好きの方はもちろん、仏教美術について学びたい方は、まずここを訪れていただきたいです。
 

鎌倉時代の武士たちが発注して造らせた仏像には、平安時代までに育まれた貴族文化のなかで造られた仏像とは違った特徴があるといいます。

只野さん:例えば、平安時代後期の仏像の多くは、身体の厚みが少ない体型で、穏やかな顔立ちのものが主流です。それに対して、鎌倉時代の仏像は、身体の肉付きがしっかりしています。また、目は「玉眼(ぎょくがん)」を使って表現したものが多いですね。玉眼は、仏像の眼の部分に水晶をはめ込んで、より人間らしい目を表現する技法です。瞳は水晶の裏側に顔料で描き、白目は綿や和紙を詰め、目頭や目尻には赤く染めた和紙を当てて、血走った感じをリアルに表現しています。このような技法によって作られたリアルな姿の仏像が、当時の武士たちに好まれていたようです。

また、土を使った立体的な文様で仏像を装飾する「土紋(どもん)」と呼ばれる技法は、国内でもほとんど鎌倉でしか見られない表現技法だそう。

只野さん:土紋は中国由来の技法と考えられています。外国の文化を積極的に取り入れようとしたのも鎌倉の仏像の特徴です。ちなみに、鎌倉には土紋がある仏像が全部で7体残っているのですが、そのうちの2体は鎌倉国宝館に寄託されているんですよ。
 

鎌倉の仏像 鎌倉の仏像

鎌倉の仏像

今にも動き出しそうな躍動感のある鎌倉の仏像。目を合わせるように正面に立つと、思わず背筋が伸びます。一体一体の仏像の特徴や制作背景について理解を深めながら館内を巡れば、きっと新たな仏像の魅力を発見できるはずです。

【鎌倉国宝館へのアクセス】
アクセス 鎌倉駅から徒歩約12分
住所 〒248-0005
神奈川県鎌倉市雪ノ下2-1-1

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【明治~昭和】別荘地文化のなかで
磨かれた技術とサービスを体感

明治時代、温暖な気候に恵まれた鎌倉は、リゾート地として多くの人々に愛されるようになります。夏には大勢の人が由比ヶ浜の海水浴場を訪れました。明治時代中期に東海道線と横須賀線が相次いで開通すると、多くの政界人、財界人、官僚、軍人、華族などの別荘もこの地に建てられるようになります。

只野さん:鎌倉の商業は、別荘族の御用聞きから発展していったと言っても過言ではありません。上流階級の方に満足していただけるレベルの商品やサービスを提供し続けた結果、この地域の商文化のレベルは向上していきました。上流階級の方々がもたらした文化は、現在まで人々に受け継がれています。ここからは鎌倉の別荘地文化や、そのなかで磨かれた職人の技が体感できるスポットを巡っていきましょう。
鎌倉三大洋館の一つ、旧華頂宮邸で異国情緒を味わう

旧華頂宮邸 外観 旧華頂宮邸 外観

昭和4年に伏見宮家出身の華頂博信(かちょうひろのぶ)侯爵の邸宅として建てられた「旧華頂宮邸」。15〜17世紀のイギリスや中世の北ヨーロッパで流行したハーフティンバースタイルの外観が特徴的な洋風邸宅です。

只野さん:旧華頂宮邸は、市内でも代表的な戦前の洋風住宅建築の一つです。鎌倉文学館や古我邸と合わせて、三大洋館として知られています。鎌倉市では、江戸時代以前の古い建物を文化財として指定するだけでなく、近世近代以降の貴重な建築物についても景観重要建築物等に指定し、保存又は保全に努めています。旧華頂宮邸は平成8年に鎌倉市が取得後、幾何学模様のフランス式庭園を一般公開しています。また、建物の内部は年に2度の公開日に見学することができますよ。

旧華頂宮邸を外から見た時に目に入る斜め十字の文様

留学や渡航の経験があり、ヨーロッパ文化への造詣が深かったという華頂博信侯爵。旧華頂宮邸を外から見た時に目に入る斜め十字の文様は、ドイツやイギリスの一部地域で流行していたハーフティンバーの様式をイメージして作られたものだそうです。

寄木張りの床

只野さん:建物に入ると最初に目に入る玄関ホールは、この邸宅の見どころの一つです。寄木張りの床を見ていただくと、階段周りはきれいに曲線に沿った模様になっています。ここまで細かな部分を考え抜き、手の込んだことをする建築は現代ではなかなか見られません。

邸宅内 邸宅内には、戦前の華やかな宮家の暮らしが想像できる豪華な設えの部屋が並ぶ

邸宅内

異国情緒を感じられる華やかな景観から、撮影地として利用されることもある旧華頂宮邸。桜や薔薇、紫陽花などが咲く庭では、四季折々の景色も楽しめます。
鎌倉の市街地の喧騒を逃れ、清閑な環境でホッと一息つくひとときを過ごしてみてはいかがでしょうか。

【旧華頂宮邸へのアクセス】
アクセス(徒歩) 鎌倉駅から徒歩約35分
アクセス(バス) 鎌倉駅東口 
バス4番のりば「金沢八景駅」行き・「鎌倉霊園正門前太刀洗」行き
ハイランド循環「浄明寺」バス停下車 徒歩6分 報国寺奥
住所 〒248-0003
神奈川県鎌倉市浄明寺 2-6-37

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伝統工芸品・鎌倉彫の魅力を紹介する鎌倉彫工芸館

伝統工芸品 鎌倉彫 伝統工芸品 鎌倉彫

鎌倉を代表する伝統工芸品、鎌倉彫は13 世紀半ばに宋の影響を受けて「鎌倉もの」という名で作られ始めました。明治時代以降、東京から訪れた富裕層の間で鎌倉彫の品が愛用されるようになると、全国的に広く知られるようになります。

鎌倉彫工芸館で、伝統鎌倉彫事業協同組合 理事長の三月 一彦さんに鎌倉彫の特徴や魅力についてお話を伺いました。

伝統鎌倉彫事業協同組合 理事長の三月 一彦さん 伝統鎌倉彫事業協同組合 理事長の三月 一彦さん

三月さん:鎌倉彫の由来についてはさまざまな説がありますが、鎌倉時代初期、中国から禅宗のお坊さんが訪れた際に土産物として持参した「堆朱(ついしゅ)」と呼ばれる漆塗りに由来するという説が有力です。堆朱の美しさに魅了された仏師たちは、木彫りに漆を重ねる技術を取り入れた仏具を制作するようになりますが、これが鎌倉彫の祖型だといわれています。
江戸時代に入ると、仏具以外にも生活雑器や茶器などが多く制作されるようになり、「鎌倉彫」の名は世に広まりました。そして明治維新後、鎌倉彫は大きな転換期を迎えることとなります。

三月さん:政府が発した神仏分離令によって廃仏毀釈の動きが広まると、仏像の制作ができなくなった仏師たちは仕事を失います。そこで、彼らは自分たちの技術を活かし、生活雑器の制作に力を注ぐようになったんです。制作した作品はパリ万博をはじめ、国内外のさまざまな博覧会に出展され、高い評価を得ました。その後、鎌倉の地を訪れた富裕層を中心に愛好家が増え、次第に鎌倉の土産物の定番としての人気も高まっていきました。

鎌倉彫ならではの魅力は、独特の技法から生まれる“古色の美”にあると三月さんは話します。
 

三月さん 三月さん

三月さん:鎌倉彫の制作過程では、木彫りの上から漆を塗った後、漆が乾ききってしまう前にマコモというイネ科の植物から取れた茶色い粉を蒔きつける工程があります。その後、完全に漆が乾いてから全体を磨くと、彫った部分が黒っぽい影に見えるようになります。このマコモ蒔きの工程によって、鎌倉彫特有の落ち着いた色調や陰影が生まれるんです。
マコモ蒔きは、もともと仏師の間で仏像を修理する際に用いられた手法だそう。

三月さん:古い仏像を修復する際、塗り直した部分だけ光沢感が出てしまうと、その部分が目立ってしまいます。そこで、あえて周りと馴染むような少し古ぼけた風合いを出すためにマコモを蒔いたんです。

鎌倉彫で作られたゴルフボールマーカー 鎌倉彫で作られたゴルフボールマーカー

三月さんは、これからも鎌倉彫ならではの魅力を多くの人に知っていただくために活動していきたいと語ります。

三月さん:低コストで大量に商品を作り、それを安い値段で売りさばくという時代は終わりました。だからこそ、今作り手側に求められるのは、他にはないような個性的な商品を一つひとつ丁寧に作り、価値を認めていただける方に提供していく姿勢だと考えています。そのために、私たちはどのようなものを作るべきかを一生懸命考え、定期的に新製品の展示会を開催しています。これからも、さまざまな鎌倉彫を近くで見ていただけるような機会を増やし、今までのイメージとは異なる鎌倉彫を1人でも多くの方に知っていただけたら嬉しいですね。
 
鎌倉彫工芸館では、鎌倉彫の販売やオーダー制作をはじめ、展示会・講習会・体験教室などのイベントも開かれています。ぜひお気に入りの一品を見つけてみてください。

【鎌倉彫工芸館へのアクセス】
アクセス 鎌倉駅から徒歩約12分
住所 〒248-0014
神奈川県鎌倉市由比ガ浜3-4-7

鎌倉彫工芸館の情報はこちら

【現代】近現代の芸術文化を味わう

温暖で過ごしやすく、風光明媚な鎌倉の地は創作活動にうってつけの環境です。横須賀線が開通すると、東京から多くの文化人や芸術家が鎌倉に移住しました。古都鎌倉は、この地を中心に活動する文化人や芸術家たちによって、近代芸術の新たな文化を創出するまちとしてさらなる発展を遂げていきます。

映画文化の魅力を発信する、鎌倉市川喜多映画記念館
鎌倉市川喜多映画記念館は、日本における映画文化の発展を支えた川喜多長政・かしこ夫妻の足跡や、貴重な映画資料を展示する記念館です。夫妻がかつて暮らした旧宅跡に建つ館内には、映画を上映する「映像資料室」も併設。今では貴重となった35ミリフィルムの映写機も使用して、企画展のテーマに合わせた映画の上映を行っています。
 

映像資料室 映像資料室

只野さん:常設展示コーナーでは、この記念館の名前の由来にもなっている川喜多長政・かしこ夫妻について、写真やパネル、ゆかりの品の展示を通じてご紹介しています。2人は映画界を裏側から支え続けてきたため、一般的な知名度は高くありません。しかし、実は日本の映画文化の発展には欠かせない重要な人物なんです。

川喜多長政・かしこ夫妻についての写真と説明 川喜多長政・かしこ夫妻についての写真と説明

1928年、川喜多長政は外国映画の輸入配給を行う東和商事(現:東宝東和)を設立。その後、夫婦二人三脚でヨーロッパの名作映画を日本に紹介してきました。

只野さん:川喜多長政氏は、もともと日本という国を海外の方に知ってもらうために、日本映画を海外に輸出しようとしました。しかし、これがなかなか上手くいかず、困難に直面します。ならば、まずは海外の映画を日本に輸入することから始めようと、今度はドイツやフランスをはじめとするヨーロッパ諸国の名作映画を日本に輸入することにしたんです。

川喜多夫妻が海外の映画人と交流した際の写真 川喜多夫妻が海外の映画人と交流した際の写真

第二次世界大戦後は、徐々に日本映画も海外で認められるようになりました。川喜多夫妻は積極的に日本映画を海外の映画祭に出品したほか、日本の映画人たちを連れて海外を訪れたり、反対に海外の映画人たちを招いたりするなど、映画を通じた国際交流活動に力を注ぎました。

只野さん:展示スペースでは、普段はスポットが当てられることのないさまざまな裏方の仕事についても紹介しています。映画がいかに多くの方の力によって出来上がっているのかを知ることができますよ。

映画に関する書籍が閲覧できるスペース 映画に関する書籍が閲覧できるスペース

企画展示スペース 取材当日は、是枝裕和監督の特別展が開催されていた

旧川喜多邸別邸 旧川喜多邸別邸

記念館前の遊歩道から高台を見上げると、そこには川喜多夫妻が海外から訪れる映画監督や俳優たちをもてなすために使用していた旧川喜多邸別邸があります。

只野さん:この建物が建てられたのは江戸時代の後期。以前の持ち主である哲学者の和辻哲郎氏は、この民家を東京都練馬区で居宅として使用していたそうです。和辻氏が亡くなった後、昭和36年に川喜多夫妻がこの地に移築してからは、来客を迎えるための別邸として使われました。背後の山並みと見事に調和する和風建築の景観は素晴らしく、平成22年、景観重要建造物に指定しました。

普段は建物の内部に入ることはできませんが、年に2回の一般公開日や特別公開日には、海外の有名スターも訪れたという別邸内の見学が可能です。
 

旧川喜多邸別邸から見える庭

只野さん:海外からのお客様が訪れた際には、正面の庭でガーデンパーティを開くこともあったようです。名優アラン・ドロン氏や、フランスの映画監督フランソワ・トリュフォー氏など、数々の映画界の有名人たちがこの邸宅でおもてなしを受けた記録が残されています。

和辻邸時代に書斎として使われていた部屋。川喜多夫妻は和辻邸時代の雰囲気をそのまま残すよう努めていた。
【鎌倉市川喜多映画記念館へのアクセス】
アクセス 鎌倉駅から徒歩約8分
住所 〒248-0005
神奈川県鎌倉市雪ノ下2-2-12

鎌倉市川喜多映画記念館の情報はこちら

自然と調和する中世からの古都の趣を残しながら、新しい文化を創出し続けてきた鎌倉。武士の時代から近代の文化人まで、時代を超えて愛され続け、長い歴史のなかで守られてきた美しい景観、この地で生まれた数々の芸術は、これからも多くの人々を魅了し続けることでしょう。

定番の観光地のほかにも数多くの見どころが詰まった鎌倉は、訪れるたびに新鮮な気持ちで楽しめるまちです。ぜひ、現在の鎌倉の姿が築き上げられるまでの長い歴史に思いを馳せながら、ゆっくりと散策を楽しんでみてはいかがでしょうか。
【本稿で紹介した構成文化財】 鶴岡八幡宮
旧華頂宮邸
旧川喜多邸別邸(旧和辻邸)

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