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2024.08.26

特集

日本遺産巡り#40◆地蔵信仰が育んだ日本最大の大山牛馬市

人々に信仰され、多くの伝承を生んだ
日本最古の神山「大山」の歴史を辿る。

鳥取県大山町から見た大山 鳥取県大山町から見た大山

標高1729m、中国地方最高峰の大山(だいせん)は、奈良時代の718年に金蓮上人によって開創された山で、日本に残る最古の地誌書『出雲国風土記』に「神山」として記録されています。また、鳥取県中・西部の旧国名が伯耆国(ほうきのくに)であったことや、その姿が富士山と似ていることから「伯耆富士」とも呼ばれています。

その中腹に位置する大山寺に祀られる地蔵菩薩をはじめとして、地域に根付く「地蔵信仰」。大山寺が牛馬安全を祈願する守り札を配ったことにより広まったという「牛馬信仰」、そして牛馬市の発展。

そうした信仰はどのようにして生まれたのか、さらにさまざまな神話や伝承が生まれた背景にはどのような事実があったのか、大山の歴史を辿ってみました。

「大山さんのおかげ」
いにしえから続く感謝の心が、あたたかな信仰に。

「大山信仰」から「地蔵信仰」へ。現世に救いを求める人々の祈り。

現世に救いを求める人々の祈り。 大山寺の入り口 門をくぐると長い石段があります。

2024年3月初旬、大山寺に続く参道には10cmほどの雪が積もっていました。天気予報では気温は6℃前後と出ていましたが、雪が時折小降りになり、ザッザッと雪を踏みしめる足音が冷たく鋭い風に流され消えていきます。

左:観光課主任 細谷菜美子さん  右:主任兼文化財調査員 若山俊介さん 左:観光課主任 細谷菜美子さん  右:主任兼文化財調査員 若山俊介さん

案内してくださったのは、大山町の観光課主任の細谷菜美子さんと、主任兼文化財調査員の若山俊介さんです。大山寺参道をはじめこの地域には多くのお地蔵さまが建ち並び、地蔵信仰にまつわる多くの神話や伝承があります。まずはその歴史背景についてお話しいただきました。

出雲国方面から見た大山「伯耆富士」(ほうきふじ) 出雲国方面から見た大山「伯耆富士」(ほうきふじ)

若山さん:大山のことは、奈良時代の733年に編纂された『出雲国風土記』に日本最古の神山として「火神岳」「大神岳」と書かれていますが、これはあくまで出雲国からの見え方です。伯耆国ではどのように捉えられていたのかはわかりませんが、出雲の人々が大山そのものに神の存在を見いだしていたことは確かです。

鳥取県大山町から見た大山 鳥取県大山町から見た大山

なるほど、事実を辿るためには、書物を記した人の視点に立つことが大切だという基本姿勢に気づかされます。
若山さん:まず、なぜ大山で地蔵信仰が始まったかという話ですが、「地蔵菩薩」の由来を考える必要があります。インドで言う「クシティ(大地)ガルバ(胎内)」を漢字に訳したのが「地蔵」、つまり大地が胎内のような蔵に納められた存在というイメージです。インド神話の地母神「プリティヴィー」が祖型であり、無仏時代に万物を救う現世利益神として誕生したと考えられます。

無仏時代とは、お釈迦さまが入滅した後、弥勒菩薩が如来に至るまでの56億7千万年間のこと。その間に万物を救う存在として地蔵菩薩が生まれたとされています。仏教において輪廻転生から抜け出すことを成仏と言いますが、現世利益神は六道を転生するそれぞれの世界での“今”を救う神さまです。

若山さん:先にも話したように、奈良時代から人々は大山そのものを神とし、その胎内で万物が転生を繰り返す姿を見ていました。この考え方が、地蔵菩薩の在り方と重なったのではないでしょうか。そのため、神仏習合の大山寺において地蔵一尊による信仰が成立したと考えられます。

本堂に続く石段 本堂に続く石段にもお地蔵さまがたくさん

鎌倉時代に書かれた『大山寺縁起』によると、「出雲国の猟師である依道が金色の狼を追って大山に辿りつき、弓を構えたところ地蔵菩薩が現れ、狼は尼僧へと変わった。そこで依道は改心して出家し、金蓮上人と名を改め大山寺を始めた」とあります。
若山さん:そうした伝承もありますね。大山寺の成立は奈良時代の718年と伝わり、その後、平安時代に書かれた『今昔物語集』ではすでに大山寺の本尊が地蔵菩薩であると出てきます。つまり平安や鎌倉の頃にはもう日本において地蔵信仰は一般的で、その中でも「地蔵信仰といえば大山」という認識が広まっていたことがわかります。

若山さん:現在、大山寺への参詣道(大山道)には多くの地蔵菩薩がありますが、つくられた年代も、つくられた理由もさまざまです。亡くなった人の供養のためにつくられたお地蔵さま、健康を祈るお地蔵さま、大山寺までの距離を示すお地蔵さま…。それでもすべてに共通しているのは、通行人の安全です。

餓讖(がしん)地蔵 餓讖(がしん)地蔵

若山さん:このお地蔵さまは、江戸中期の1841年に建立された「餓讖(がしん)地蔵」です。「餓讖」とは「飢饉(ききん)」の方言です。天下の大飢饉で亡くなった人々を弔い、二度とこのようなことがないようにとの願いが込められています。

弘化(こうげ)の大地蔵 弘化(こうげ)の大地蔵

若山さん:「弘化の大地蔵」です。両手の上に宝珠を持っているのが、大山のお地蔵さまの特徴です。大山にはご本尊と同じで座っているお地蔵さまが多いのですが、このお地蔵さまは立っています。向かって左には「本社まで六丁」と書かれた一町地蔵もあります。一町地蔵とは、109mごとに置かれたお地蔵さまのことで、大山寺までの距離を示しています。旅の目安になるように、篤信者がさまざまな祈りを込めて寄進したものです。
 
ふと右脇を見ると、頭部が大きく欠けた小さなお地蔵さまが安置されていました。
 

廃仏毀釈運動の爪痕 廃仏毀釈運動の爪痕

若山さん:これはおそらく、明治初期の「神仏判然令」に伴う「廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)運動」で、頭部を破壊されたのだろうと思われます。お地蔵さまを叩き壊したり谷底に投げ落としたりするなんて、当時の仏教廃止運動は行き過ぎでしたね。
 
江戸時代中・後期以降からの儒家神道や国学・復古神道に伴う神仏習合の慣習を禁止する動きが、維新政府の政策(1868年「神仏判然令」)により全国的に公的に行われるようになった(「廃仏毀釈運動」)ことから、この地方には傷ついたお地蔵さまが多く祀られています。いびつな姿になってしまったお地蔵さまを拾い上げて前掛けをして安置した人の気持ちを思うと胸が痛みます。

観證院(かんしょういん)地蔵 観證院(かんしょういん)地蔵

雪が積もる参道をさらに登っていくと、「宿坊 観證院(かんしょういん) 山楽荘」の看板の下に、きれいにお手入れされたお地蔵さまが見えてきました。肩幅が狭く幼い子どものような体で真っ直ぐ立ち、柔らかな微笑みを湛える姿に、思わず「かわいらしい」と言葉が漏れます。

若山さん:この「観證院地蔵」は、江戸時代の1710年につくられました。年号が書いてある中で一番古いお地蔵さまです。

そう話していたところ、大山寺圓流院住職の大館宏雄さんが通りかかり、お話をさせていただくことができました。
 

大山寺圓流院住職の大館宏雄さん 大山寺圓流院住職の大館宏雄さん

大館さん:大山では、道案内も、供養も、祈願も、すべてお地蔵さまが受けてくれています。生きとし生けるものすべてを守ってくれる存在です。

本来であれば「天→明王→菩薩→如来」と順に位が上になるのですが、ここ大山ではお地蔵さまが大日如来よりも信仰の対象としては高く見られているのだそうです。

大館さん:大山に茂る木々がミネラル分を含む水を保ち、涌き水となって人々の生活を潤わせてきました。だから今でもこの土地のお年寄りたちは「大山さん、今日も1日お願いします」「大山さん、今日もありがとうございました」と手を合わせているんですよ。

自然の恵みに感謝し、大山を見上げて手を合わせてきた人々の心も、大山の豊かな自然の一部だったように感じられるお話でした。

若山さん:大神山神社奥宮の鳥居は、石を切り出してつくられています。こうして見上げると、継ぎ目がないことがわかるでしょう。とても巨大な石だったことが想像できます。雪で埋もれていますが、この鳥居から本坊である西楽院まで石畳道が700mほど続きます。自然石でつくられた日本一長い石畳の参道と言われています。
 

大山寺本堂の手前にある神社の鳥居 大山寺本堂の手前にある神社の鳥居

佐々木高綱の等身地蔵とそのまわりを囲むお地蔵さまたち 佐々木高綱の等身地蔵とそのまわりを囲むお地蔵さまたち

神山神社奥宮の鳥居をくぐると、右側にお地蔵さまがたくさん並んでいました。

若山さん:ここには、さまざまな場所に祀られていたお地蔵さまを集めて安置しています。中でもひときわ目立つ大きなお地蔵さまは「佐々木高綱の等身地蔵」です。大山寺本尊の祟りにより大病を患った高綱が、自分の姿をした等身大のお地蔵さまと荘園を寄進したところ病気が治ったと言われています。

雪に埋まっている姿が、なんだか愛らしい 雪に埋まっている姿が、なんだか愛らしい

死後の往生などではなく、病気の平癒を祈っており、今生きている世界の利益を祈るのが地蔵菩薩であることがわかります。

もともと木造だったこの「佐々木高綱の等身地蔵」は、江戸時代の1796年に焼失し、1848年に「二度と燃えないように」と石で再建されたそうです。

雪に映える赤い頭巾をかぶったお地蔵さまも 雪に映える赤い頭巾をかぶったお地蔵さまも

若山さん:この他にも、戦いや火災により壊れたり焼失したりして、再建されたお地蔵さまがいくつかあります。その再建に際して寄進する人の中には、信仰だけではない思惑を抱く者もいました。例えば室町・戦国時代。中国地方では尼子氏と毛利氏の二大勢力が敵対していたのですが、1554年に大山寺が大規模な火災に見舞われて社殿とともに本尊の地蔵菩薩像を焼失した時は、尼子晴久がいち早く再建に乗り出しました。また同じ火災で焼失した秘仏の地蔵菩薩像については、尼子滅亡後の1582年に毛利輝元が再建を行っています。このように大山寺の再建事業には戦国大名も関わっていました。大山寺経悟院の僧兵が尼子方として活躍していたことが知られ、懐柔策が取られている様子がうかがえます。
信仰という目に見えないものに祈る気持ちと、寄進という目に見える形で恩を売る戦略、その両方が時代を動かしたという事実には驚かされます。
日本三大牛馬市の一つ、「大山の牛馬市」を紐解く。
大山では「地蔵信仰」とともに「牛馬信仰」も広まりました。ある伝承によると、大山寺の基好上人(きこうしょうにん)が牛馬安全を祈願する守り札を配ったことから、大山の牛馬信仰が生まれたとあります。

若山さん:基好上人は、平安時代後期から鎌倉時代初期に活躍した高僧です。天台密教の奥義を究め、臨済宗の開祖である栄西の師匠にもなった歴史上の重要人物ですが、実際に牛馬安全の守り札を配ったかどうかはわからないんです。当時の守り札は残っていませんから。

ではなぜ大山で牛馬信仰が広まり、牛馬市へと発展していったのでしょう。

大山寺にある牛の銅像 大山寺にある牛の銅像

若山さん:室町初期の『紙本着色大山寺縁起』には当時の田植えの様子が描かれ、トラクターなどの農耕機械の代わりを務める牛の姿を見ることができます。農耕社会で生きる人々は、生活に密着した牛馬を大切にしました。また、牛馬は荷物の運搬にも欠かせない存在でした。交易でもそうですし、長旅となると食料など大量の荷物が必要でした。牛馬を連れていた当初の理由はご利益にあずかるためというより、自分たちの荷物を背負わせるためだったと考えられます。
平安時代中期に書かれた仏教説話集『本朝法華験記』(ほんちょうほっけげんき)には、牛に糧米を背負わせて、岡山方面から大山寺へ参詣したことがわかる話があるそうです。

若山さん:さらに弥生時代の頃には既に吉備国と出雲国に交流があったことが、吉備国の「特殊器台」という土器の出土により確認できています。つまり山があるから交易がなかったということはなく、ずっと人の移動は続いていたと考えられます。おそらく吉備国から日本海側へ移動しようとする時、大山は目印になり、通り道だったのではないでしょうか。
若山さん:そうして牛馬を連れた人々が集まるうちに、「牛くらべ」や「馬くらべ」が行われるようになります。すると立派な牛馬を連れた人々が集まるようになって、物々交換や売買が広まっていきます。集まりすぎて牛馬の糞尿が散乱するなど収拾がつかなくなってきたため、江戸時代中期、大山寺が経営に乗り出し、境内の「博労座」(ばくろうざ)で春祭りに牛馬市が開かれるようになりました。

「大山自然歴史館」には当時の牛馬市の様子を伝える楽しいスライドがあります 「大山自然歴史館」には当時の牛馬市の様子を伝える楽しいスライドがあります

まあ、本当は儲かると踏んだからなんでしょうけどね…。大山寺の庇護のもとで牛馬市が発展したことが、「地蔵信仰」が育んだ「大山の牛馬市」と言われる所以です。

若山さん:やがて春祭り以外にも牛馬市が開かれるようになり、日本三大牛馬市の一つと称されるまでに拡大しました。明治維新以降も地域の経済を支え、明治時代中頃には年5回にまで牛馬市が増えました。年間1万頭以上の牛馬が取り引きされたと記録にあり、まさに当時日本最大の牛馬市でした。しかし交通網の発達により鉄道で牛馬が大量輸送できるようになったため、牛馬市は鉄道沿線に移動、大山の牛馬市は衰退していきます。ただし、鳥取県が大正時代の1920年に始めた、全国初の和牛の登録事業は大山牛馬市で取引された牛から始まり、日本の和牛誕生の礎となりました。そして、我々の豊かな食生活へと繋がっているのです。
庶民の食生活を支えた
「大山そば」と「大山おこわ」。
大山は独特のグルメも有名です。筆者は「大山おこわ」と「大山そば」をいただきました。

シンプルな大山そばと具だくさんの大山おこわの定食 シンプルな大山そばと具だくさんの大山おこわの定食

若山さん:「大山そば」は、大山寺の基好上人が飢饉に備えてそばの栽培を奨励したことに始まったと言われています。そばは環境の変化を受けにくく、水が少なくても育ちますから。当時は現在のように細く切ったそばではなく、蕎麦粉を熱湯でこねて餅状にした「そばがき」のような食べ方をしていました。あくまで庶民の非常用の食事で、上流階級出身のとある僧侶は「そばを食べる」こと自体に驚いたというエピソードが残っています。
そばは精進料理の一つ、というイメージがあったので意外です。大山そばは、そばの実を包む甘皮ごと挽くため、色が黒く香りが豊かなことが特徴です。具材などに決まりはありませんが、とろろと海苔がのっているそばが一般的だそうです。

若山さん:恵みがない時に助けてくれる最後の砦として基好上人がそばの栽培を進めたわけですから、お地蔵さまの救いとも結びつきますね。

「大山おこわ」は甘めのしょうゆ味で、山菜など季節の具材や鳥肉が入っているのが一般的です。店や家庭により異なる味が楽しめます。

若山さん:「大山おこわ」は、文化庁「100年フード」にも認定された、地域が誇る伝統食です。農林水産省の公式HPには、僧兵が戦勝祈願のために炊き出したのが始まりで、具材は山鳥と山草(山菜)だったと書かれています。複数の具材が入っていて、もち米で腹持ちも良く、手軽に食べられるため、博労(ばくろう)の携帯食や食事、大山にお参りする人の携帯食としても愛されるようになりました。

長く人々に食べ続けられてきたものだからこそ、信頼できるおいしさが大山グルメにはありました。
人々の祈りのすべてを預かる
威風堂々たる大山。

「大山自然歴史館」のプロジェクタで映し出された雄大な大山 「大山自然歴史館」のプロジェクタで映し出された雄大な大山

「地蔵信仰」も「牛馬信仰」も豊かな食文化も、人々が見上げ、祈り、その恵みに感謝してきた「大山」のもとで発展してきたことが、この地域の特徴です。

大山寺のお地蔵さま 大山寺のお地蔵さま

若山さん:「大山信仰」の特徴は、あらゆる信仰が混ざり合っていることです。大山寺の僧侶が祀る地蔵菩薩を信仰すること、里の人々が大山の自然の恵みに感謝して信仰すること、海辺の人々が海上交通の安全を祈るために信仰すること。それぞれ信仰の対象も理由も異なりますが、「大山さんのおかげ」と言って手を合わせ続けてきました。
細谷さん:日本遺産に選定されたことにより、地元の人たちに「自分たちが住む地域にはこういう文化があったんだ」と新しい発見があればいいなと思っています。私も毎日、当たり前のように大山を見上げ、おじいちゃんやおばあちゃんたちから「大山さんのおかげ」という言葉を幾度も聞いてきました。「台風が少ないのは大山さんのおかげ」「美味しい作物が出来るのは大山さんが育んでくれた土や水のおかげ」など、子どもの頃から大山に感謝する習慣が染みついているんです。

若山さん:大山を見れば天気もわかりますからね。「腰巻き雲がかかると明日は晴れ」「笠雲がかかると雨」というふうに。「大山がある方が南」など生活する上で常に目印になってきたことからも、地域の人々にとって大きな存在であるとわかります。日本人は無宗教と言いながら何かに祈りますよね。この地域ではそれが大山なんです。

スクリーン上の角磬山1 スクリーン上の角磬山1

スクリーン上の角磬山2 スクリーン上の角磬山2

大山自然歴史館 大山自然歴史館

細谷さん:鳥取県西部中小企業青年中央会が主催して「大山お地蔵さまフェスティバル」というお地蔵さまを清掃するイベントを行っているのですが、こうした地元の文化に親しむイベントを、行政の働きかけによりもっと広げていきたいと考えています。地域の魅力に自信を持ち、発信できる人が増えて、地域活性化につながればいいですね。大山寺参道には、大山の地形や地質、動植物などの自然、山岳信仰の歴史などをわかりやすく紹介する「大山自然歴史館」がありますから、散策や登山に訪れる方にはまず立ち寄ってもらいたいなとおすすめしています。
【大山寺参道】
 
所在地  鳥取県西伯郡大山町大山
アクセス 米子自動車道「米子I.C.」から車で約20分
米子自動車道「溝口I.C.」から車で約15分
【天台宗別格本山 角磬山 大山寺】
所在地 鳥取県西伯郡大山町大山9
アクセス JR米子駅から路線バス約50分「大山寺」下車 徒歩約20分
米子自動車道「米子I.C.」から 車で約15分
博労座駐車場から徒歩約20分

大山寺の情報はこちら

【大山自然歴史館】
所在地 鳥取県西伯郡大山町大山43
アクセス 米子自動車道「米子I.C.」から車で約20分
米子自動車道「溝口I.C.」から車で約15分
休館日 無休(臨時休館あり)※年末年始を除く
観覧料 無料

大山自然歴史館の公式サイトはこちら

【エピローグ】地蔵さまに手を合わせ、祈る。
人々の心を支える静かなる力。

米子・加茂川周辺のお地蔵さまを巡る。

加茂川に沿って立ち並ぶ店舗や家にかかった橋 加茂川に沿って立ち並ぶ店舗や家ごとに橋がかかっています

大山町観光課のお二人と別れた後、米子駅方面へと向かいました。米子駅北側の加茂川周辺は、大山寺から始まった「地蔵信仰」が行き渡った地域であり、多くのお地蔵さまが建ち並びます。

適当なところでタクシーから降ろしてもらい、まず出会ったのはとてもかわいらしいお地蔵さまでした。

咲い地蔵(わらいじぞう) 咲い地蔵(わらいじぞう)

「咲い地蔵(わらいじぞう)」です。ほっぺたの横で手を合わせて首をかしげる姿を見れば、誰もが笑顔になってしまいそうです。2トンの御影石を使ったお地蔵さまは高さ1m65cmあり、薮根地蔵や水かけ地蔵も安置されています。

出現地蔵 出現地蔵

細い路地を入ると、「出現地蔵」が祀ってありました。昭和4年、霊感が強い木下徳子さんという女性の夢枕にお地蔵さまが立ち続けたことにより掘り出されたそうです。「立て直し祈願」とあるように、多くの奇跡を起こしてきたと言います。

このようにお地蔵さまが祠に祀ってあるのは全国的にも珍しいようです。

善行院橋地蔵 善行院橋地蔵

筆者が見た中で一番多く「札打ち」がされていたのは、この「善行院橋地蔵」です。「札打ち」とは、身内に不幸があった時にお地蔵さまに祈るため、7日ごとにお地蔵さまを巡ってお参りをして「南無阿弥陀仏」と書かれた白札を貼り、最後の49日には赤札を貼るという全国的にも珍しい風習です。パタパタと札が風になびく音は祈りの数だけあるのだと思うと、とても静かで厳かな気持ちになりました。

札打ち 札打ち

お地蔵さま1 お地蔵さま1

お地蔵さま2 お地蔵さま2

お地蔵さま3 お地蔵さま3

屋根がかわいらしい祠に祀ってあるのは「榎地蔵」です。二体のうち向かって左のお地蔵さまは、川底から頭部が欠損した状態で引き上げられたそうで、コンクリート製の頭が乗せられています。若山さんの説明にもあったように明治期の「廃仏毀釈運動」により破壊されたのでしょうか。それでも柔らかな表情を向けてくれるお地蔵さまの前に立つと、自然と手を合わせる気持ちになります。

榎地蔵1 榎地蔵1

榎地蔵2 榎地蔵2

ふと近づくと急に短い風が吹いてパタパタパタッと札が音を立て、まるで「いらっしゃい」とお地蔵さまが言ってくれたように感じました。「笑い人生祈願」「立て直し祈願」「善行祈願」など、さまざまな祈りを込めて建てられたお地蔵さまたち。この地域の人々はずっと、家族のために、大切な人のために、自分の未来のために、手を合わせ続けてきたのでしょう。札に「七十五才」「九十二才」と丁寧に書かれた文字を見ると、その札を貼った人の優しく祈る気持ちに触れられたような気持ちになれます。

「大山さんのおかげ」――静かなる偉大な力に感謝する気持ちであふれた豊かな地でした。

【米子・加茂川 地蔵さん巡り 町歩き拠点:咲い(わらい)地蔵】
所在地 鳥取県米子市愛宕町8
アクセス JR米子駅から徒歩約11分

地蔵さん巡りの情報はこちら

日本遺産大山山麓魅力発信推進協議会 公式ホームページ

【本稿で紹介した構成文化財】 大山
大山寺(本堂)
大神山神社奥宮
大神山神社奥宮の石畳道
大山そば
大山おこわ
旧加茂川の地蔵

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