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2026.01.13

特集

日本遺産巡り#50◆神宿る絶景、和歌の浦
時代を超えて紡がれる、大切な人への想い

奠供山より干潟 奠供山より干潟

「若の浦に 潮満ち来れば 潟をなみ 葦辺をさして 鶴(たづ)鳴き渡る」
和歌の浦に潮が満ちて来ると潟が無くなるので、葦の辺りを目指して鶴が鳴き渡ることだ。

これは神亀元年(724年)、聖武天皇の行幸に同行した宮廷歌人・山部赤人が和歌の浦の潮の満ち引きに感動して詠んだ歌です。和歌を口にすれば、1300年の時を超えて情景がありありと浮かんできます。SNSはもちろん、写真すらない時代。万葉集に収録されたこの一首は、当時どれほどの人々の憧憬を育んだのでしょうか。

実際、ここから和歌の浦は和歌の聖地として名を馳せることになります。古来から日本の歴史では、絶景には神様が宿ると言われており、早くから和歌の浦は神が宿る地として、聖域の役割を果たしてきました。「和歌と神の宿る地」として1300年の歴史の中で、どのような人がどのような想いで、この地に魅了されたのか。和歌を通して想いを紡いだ人たちの足跡を追いました。
天皇が愛した絶景

和歌の浦の夕日 和歌の浦の夕日

そもそも和歌の浦とは、和歌山市の南西部に位置する景勝地一帯を指します。なだらかな山に囲まれ、干潟・砂嘴(さし:砂や小石が堆積し、海中に突き出た地形)・小島などが集い、視線のはるか先には水平線が見えます。潮の満ち引きによって干潟や島が現れては隠れていく様子は絶景であり神秘的。中でも潮が引くとともに小島が現れる様子に感動し、聖武天皇がこの地に玉津島の神と明光浦霊を祀り、玉津島神社の歴史が始まったと言われています。

玉津島神社に、和歌三神(わかさんじん)の一柱・衣通姫尊(そとおりひめのみこと)が祀られていること、山部赤人の歌が『万葉集』に収録されていたことから、この地が『和歌の浦』として歌人・文化人の聖地になったと伝えられています。

もう一つ、古来から情景の美しさを伝えるツールとなったのが五・七・五・七・七で詠われる和歌。貴族たちにとっては必須の教養であった一方、万葉集では読人知らずの和歌が多く収録されており、まさに万人にとってのコミュニケーションツールでした。私達が美味しいものを食べたり美しい景色を見た感動をSNSにアップしたり、親しい人に写真を送ったりするのと同じ感覚だったのかもしれません。だからこそ和歌を祀る玉津島神社は、和歌を嗜む人々にとっての憧れの地だったと言えます。
有間皇子が見た景色を追体験する、藤白神社

樹齢1000年の子守楠が出迎える藤白神社 樹齢1000年の子守楠が出迎える藤白神社

最初に訪れたのは、和歌山駅から車で20分ほどの場所にある、藤白神社。藤白神社は藤白坂の中腹に位置し、海南市を眼下に望む景観を誇ります。樹齢1000年と言われる御神木「子守楠(こもりぐす)」が出迎える神社でお話を伺ったのは、権禰宜(ごんねぎ)であり学芸員・和歌山県世界遺産マスターの中井万里子さん。

中井さん:この木は『子守楠(こもりぐす)』と呼ばれる木で、古くから子どもの神様と言われています。この地域では昔、子どもが病気になると子守楠に平癒を祈ったそうです。地元の著名人・博物学者の南方熊楠も子どもの頃は病気がちで、女中さんや父親と病気平癒の祈願に来ていたそうですよ。

と、まずは子守楠について教えていただきました。医療も情報も今ほど豊かではなかった時代。どれほどの“子を想う親の愛”を子守楠は受け止めてきたのでしょうか。人を想う気持ちを軸に、中井さんのお話は続きます。
 

有間皇子を偲ぶ歌碑と権禰宜の中井さん 有間皇子を偲ぶ歌碑と権禰宜の中井さん

中井さん:和歌の浦と藤白神社をつなぐキーパーソンは、有間皇子。645年大化の改新以来の政争に巻き込まれ658年に藤白坂で絞首刑に処されました。その時わずか19歳。万葉の悲劇の皇子として、藤白神社には歌碑が建っています。

風雪にさらされ少々見えにくいですが、

「藤白の み坂を越ゆと 白たへの わが衣手は ぬれにけるかも」
藤白のみ坂を越えようとして、白妙の衣の袖は涙に濡れたことだ。
という一首が。

この歌は701年に持統・文武両帝の行幸に追従したお供が、有間皇子を偲んで詠んだもの。万葉集はこれを含め15首が有間皇子の追悼歌とされています。ほかにも有間皇子神社が境内に創建されるなど、その悲しみ・哀悼が根付いています。
 
その想いをさらに深めたのは、熊野詣の普及によります。藤白神社は熊野詣の始まりの場所、つまり聖域のはじまりと言われています。

中井さん:聖域に入る前に、若くして命を絶たれた有間皇子への哀悼を通して、心を清めて熊野詣をスタートしてほしいという想いが込められています。

藤白坂中腹にある有間皇子の墓 藤白坂中腹にある有間皇子の墓

有間皇子史跡 有間皇子史跡

説明を受けつつ神社を後にし、藤白坂の入口へ向かいます。なだらかに長く続く藤白坂を、有間皇子はどんな想いで登っていたのでしょうか。

「家にあれば 笥(け)に盛る飯(いひ)を草枕 旅にしあれば 椎(しい)の葉に盛る」
家ならば食器に盛る飯を、草を枕に寝る旅にあるので、椎の葉に盛るのだ。

と残された一首に胸が痛みます。19歳にして国を背負い、政変に巻き込まれた有間皇子。自らの命が絶える直前も、国の行く末や国民、家族のことを想っていたのでしょうか。気づけばそんなことを考えながら、坂を登っていました。頂上まで道半ばですが、振り返ると視線の先に、美しい和歌の浦の景色が垣間見えます。

中井さん:ここが熊野詣の始まりということもあり、最近では日本の信仰に興味を持つインバウンドの方も多くいらっしゃいます。その方に向けて神社の歴史などをご案内しているのですが、最後に必ず『熊野古道を歩く際は、始まりの地であるここで有間皇子の想いを、そして道中はここを歩いてきた色々な人の色々な想いを感じながら歩いてほしい』とお伝えしています。時代によってここから見える景色は変わりますが、ここを歩き、この景色を見てきた人の想いは残り続けます。その“想い”に触れる旅のはじまりを、ここ藤白神社で迎えてほしいと願っています。

熊野という聖域の始まりの藤白神社で有間皇子の命が散り、多く残されている鎮魂の歌。約1300年の時の中で、どれほどの人が彼に想いを馳せたのでしょうか。その「想い」は今、国境を超えた海外の客人の心ともつながっている。変わりゆく時代・景色の中で、“想いを馳せる”という普遍的な優しさを感じた神社でした。
始まりの地、玉津島神社

和歌の聖地として多くの人の憧れの地となった玉津島神社 和歌の聖地として多くの人の憧れの地となった玉津島神社

それでは、この地が和歌の浦と呼ばれた所以と言われる場所を訪れてみましょう。藤白神社から和歌山方面へ、車で20分の場所にある玉津島神社。潮の満ち引きによって6つの小島が海面に見え隠れする様子が神秘的だったことから、「風光明媚な神のおわすところ」として崇められ、神亀(じんき)元年(724)の聖武天皇の玉津島行幸の際には、すでに玉津島神社が言及されていました。

玉津島神社が和歌の聖地としての地位を確立したのもその頃。聖武天皇の玉津島行幸に随行した山部赤人らの歌が『万葉集』に収められたことから、玉津島は和歌の浦と共に、歌枕(うたまくら:和歌に詠み込まれた名所・地名・動植物名など)として、都の貴族たちの聖地となります。また和歌三神の一柱、衣通姫尊(そとおりひめのみこと)が祀られていることからも、和歌が当時の社交であり必須教養である貴族や歌人にとって、聖地巡礼の地となりました。

玉津島神社から望む幻想的な景色 玉津島神社から望む幻想的な景色

実際、藤白神社より低い場所にある玉津島神社ですが、小高い丘からは近くを流れる川や松並木の合間から和歌の浦を垣間見ることができ、また違った趣を感じることができます。取材で訪れたのは夕方でしたが、曇り空の合間から射す太陽の光が幻想的で、何とも言えない穏やかな空気を感じました。

今のようなメディアのない時代。歌枕に取り上げられた場所・モノが都人のブームになったことからも、さながら和歌は当時のガイドブックのような役割も果たしていたのでしょうか。ゆえに都人の憧れの地として名を馳せた玉津島神社を参詣した喜びは、いかほどだったのでしょうか。

「この景色を大切な人にも見せたい」という、時代を超えた優しさを感じる歌碑 「この景色を大切な人にも見せたい」という、時代を超えた優しさを感じる歌碑

当時の感動を思わせる歌碑が、玉津島神社の入口に建っています。

「玉津島 見れども飽かず いかにして 包み持ち行かむ 見ぬ人のため」
玉津島のこの美しい景色はいくら見ても見飽きることがないよ。だからこの景色を何とかして包んで持ち帰りたいものだ、まだ見ていない人(都で待つ家人)に見せてやりたいから。

現代の私たちも旅先で美しい景色や美味しい食べ物に出会った時、大切な人に届けたいという気持ちが自然に沸き起こります。自分が感動したものを大切な人にも届けたいという想いは1300年の時代を超えても変わらないのだと、改めて“人の想い”の普遍的な優しさに、心が温まりました。

「天皇が玉津島神社に行幸したのは、政治的な側面もありました」とお話いただいたのは、権禰宜の遠北 喜美代(あちきた きみよ)さん。
 

ご自身も和歌を嗜まれる権禰宜の遠北さん。 ご自身も和歌を嗜まれる権禰宜の遠北さん。

遠北さん「聖武天皇、称徳天皇、桓武天皇など、多くの天皇がこの地を訪れました。この神社には稚日女命(わかひるめのみこと)と、神功皇后という14代天皇の后が祀られています。天皇皇后は武勇に秀でた方で、参詣することで勝利を祈願したと言われています。

また奈良時代、この辺りは和歌の浦に紀の川がつながっており、貿易の中心地でした。地域の貴族たちの動きを把握するためにも、朝廷が定期的に行幸したという説もあります。
とはいえやはり、一番の理由はこの絶景だと思います。目の前の干潟から視線を遠くに放つと砂嘴(さし)が地平線まで伸び、その先の空とつながっている。さらに潮が引いたら沈んでいた小島が玉が連なるように現れ、鶴が餌を探しに舞い降りる。そして藤白の山々の景色を輪郭に、和歌浦湾の地平線が続いていく…。そんな自然の奇跡が幾重にも重なる様子が、海のない奈良に住む貴族達の心を動かしていたのでしょう」

国を背負い、戦や政変にいつ巻き込まれるか分からない激動の時代の為政者たち。自然が織りなす幻想的な風景は、当時の貴族たちの心にどれほどの平穏と癒やしをもたらしたのか…当時の景色と感動を想像すると胸が熱くなります。
和歌の浦に導かれた偉人たち

江戸時代に奉納された三十六歌仙の仙額 江戸時代に奉納された三十六歌仙の仙額

そしてもちろん和歌の聖地としても、和歌の浦・玉津島神社には多くの歌人・文人が訪れました。たとえば小野小町の和歌は、玉津島神社に祀られている衣通姫尊と文体が似ていると言われています。また在原業平も訪れたほか、江戸時代には紀州藩が三十六歌仙の仙額(詠歌を書き添えた絵額)を奉納しました。

絶景が見渡せる和歌浦天満宮 絶景が見渡せる和歌浦天満宮

絶景が見渡せる和歌浦天満宮 絶景が見渡せる和歌浦天満宮

さらにこの地に導かれ、菅原道真が和歌浦天満宮を建立しました。菅原道真が太宰府に左遷される際、風雨を避けてこの地に立ち寄ることになりました。その際のもてなしや風景に心打たれ、自身も歌人であったことから、のちの三菅廟と呼ばれる和歌浦天満宮が誕生したそうです。

鮮やかな装飾が圧巻の和歌浦天満宮(通常撮影不可) 鮮やかな装飾が圧巻の和歌浦天満宮(通常撮影不可)

頼信が父・家康と過ごした駿河の景色を彷彿とさせる絶景 頼信が父・家康と過ごした駿河の景色を彷彿とさせる絶景

また和歌浦天満宮の隣には、徳川頼宣が建立した紀州東照宮もあります。和歌浦天満宮と共にどちらも長い急な石階段を登るのですが(緩やかなスロープもあります)、頂上の入口に到着し、振り返った時の景色はまさに絶景。海と空と山と陸地が門というフレームに収まり、まさに絵画のようです。徳川頼宣は父・徳川家康を祀るために紀州東照宮を建立したのですが、ここから見える景色が、頼宣が父・家康と過ごした静岡・駿河の景色と似ていることが大きな理由になったそうです。「幼い頃に父と見た景色をいつまでも思い出せるように」とこの地を東照宮に選ぶ頼宣の想いに、温かな気持ちになりました。ちなみに、頼宣自身も歌人であり、東照宮を建てたことで和歌山城の改築や城下町の整備など、地域の文化・商業の発展に貢献したそうです。

遠北さん:和歌は古来から喜怒哀楽を表現する、まさに“心の拠り所”でした。戦いに明け暮れた戦国時代でも、戦争ですさんだ心を癒やしたのが和歌でした。戦争が終わって江戸時代が始まった時、“これからは刀ではなく文学をする時代だ”という徳川家の号令で、和歌は引き続き、貴族たちにとって必須教養となったのです。松尾芭蕉も玉津島神社を参拝したと言われていますよ

その後も夏目漱石・与謝野鉄幹・坪内逍遥・柳田國男など、時代を代表する文人が訪れたという玉津島神社。時を経て玉津島神社では現在も、歌会が開催されています。

遠北さん:和歌の本質は、“ひとつのもの”をじっと見つめること。景色がどう移り変わっているのか、花がどう咲いているのか…小さなものに目を向けて心を寄せることは、祈りと感謝に通じます。だからこそ和歌は長きにわたり、人の心の拠り所になったのではないでしょうか。

ご自身も和歌を嗜まれる遠北さん。時代は変われど大切な人に想いを馳せ、小さなものに目を向け、祈り、感謝をする。やはりここにも、人間の普遍的な心の在り方を見ることができました。
想いをつなぐ、和歌の浦誕生千三百年記念大祭
こうして紡がれてきた和歌の浦は2024年に1300年の節目を迎え、町を挙げた和歌の聖地和歌の浦誕生千三百年記念大祭が開催されました。和歌の聖地として悲願だったという大祭では、大河ドラマ『光る君へ』で平安時代を代表する歌人であり和歌の浦ともゆかりの深い藤原公任役を演じた俳優の町田啓太さんを迎え、聖武天皇行幸時代絵巻行列を再現するという一大イベントも行なわれました。

大祭についてお伺いする中で感じたのは、関わる方が一丸となって大祭を作り上げたこと。そしてその熱意が、ゲストや参加者に伝播したこと。大祭の様子や想いを、紀泉ふるさと創研で大祭の企画・プロデューサーの野口千恵(恵は旧字体)さんに伺いました。

大祭の企画・プロデューサーの野口さん 大祭の企画・プロデューサーの野口さん

野口さん:ゲストの町田啓太さんとの打ち合わせの際、大祭の準備に向けて地域の方々が町を掃除している動画をお見せしました。町田さんはその映像に深く感動され、大祭での挨拶やインタビューで、その活動への感動をお話しいただきました。それが和歌の聖地にふさわしい美しい表現だったのに驚きました。
 
多くの人を動かした大祭にかけた期間はおよそ3年間。多くの人の知識を結集させたことで、改めて和歌の浦の魅力に気づいたそうです。

野口さん:私が大祭に関わるキッカケとなったのは、以前、紀州東照宮で行なわれている和歌祭四百年式年大祭の企画をお手伝いしたことからでした。その和歌祭が評判があまりにもよかったので、中山勝裕実行委員長と保井元吾顧問、そして記事などを担当していた私の噂を聞き、玉津島神社の遠北光彦宮司から1300年記念大祭の企画プロデュースのご依頼をいただきました。3年に渡るボランティア活動となるので会社に相談したところ、会社から『和歌浦で修行しておいで』と背中を押してもらい、3年間どっぷり和歌の浦に密着しました。

最初の2年は、実行委員会の組織づくりと、県庁・和歌山市役所への説明と協力のお願いを、上司である榎本孝総合プロデューサーと二人三脚で行ないました。また大祭の軸である玉津島神社にまつわる取材にも2人で奔走しました。和歌山市内の和歌の浦にまつわるすべての場所・人・モノを調べて話を聞き、とにかく情報をかき集めました。
その過程で出会ったのが、村瀬 憲夫先生・ 三木 雅博先生・金田 圭弘先生の共著『和歌の浦の誕生』という本。この本を通して日本遺産の登録にまつわるストーリーに触れ、大祭は日本遺産に即したものにすべきという祭のコンセプトが固まったそうです。

「この本を軸に、玉津島保存会・和歌の浦協議会・学術顧問・知事・市長・学校・企業など、あらゆる関係者と大祭のプラットフォームを作りました」という野口さん。大祭に向けた3年間はきっとあっという間だったはず。特に野口さんが心を砕いたのが、子どもたちと歴史との接点だったそう。
野口さん:取材の過程で市内の小学校を回った際、和歌の浦に行ったことがない子やこの地域の歴史を知らない子が多いことに驚きました。彼らが和歌の浦の歴史に触れ、この文化を未来につなげる方法として思いついたのが、時代絵巻行列でした。

歴史に詳しい地元の劇団から衣装を借り、歩き方の指導も受け、奈良・平安・江戸など各時代の偉人に扮した300名が行列に参加した時代絵巻行列は、一大イベントになりました。しかも時代ごとの行列が持つのぼりも地元の人が制作したほか、行列内の偉人の解説には南海電鉄和歌山事務所 所長の杉本吉史さんと三木学術顧問2名が登場し、その掛け合いが大変盛り上がったそうです。

ただ「人を集める」だけでなく、関わる人に和歌の浦の歴史に触れてもらうための仕組みづくりに感嘆しました。

野口さん:もう一つ大切にしたのは、このイベントを未来につなげること。聖武天皇も“この土地を守るように”と詔(みことのり)を発しました。和歌の浦の景観に感動し、この地の風致を守るために守戸を置き、玉津島と明光浦の霊を祀るよう詔を発した…という詔を現代に置き換えると、まさにSDGsに通じると気づきました。そこで和歌山市立小学校の子どもたちとSDGsなまちづくりとして、古くから“わかのうら薬”という胃腸薬があることを知り、それをヒントに小学生と共にクラフトコーラを開発しました。また、大祭を通して地方創生についても考えました。たとえば紀州初代藩主・徳川頼宣は、和歌山の地形を見て、有田でのみかん栽培を奨励したとも伝えられています。また有田川町の清水地域では製紙業を推奨するなど、地域の産業振興にも力を注ぎました。

そういった歴史を踏まえ、地方創生をテーマにした授業を子どもたちに行ない、和歌山の特産品であるみかんと、和歌の浦に伝わる薬のストーリーを組み合わせ、薬草をブレンドして、そこにみかんのジャムが入ったクラフトコーラを開発・販売しました。自分たちの活動と歴史をつなげることで、子どもたちの歴史理解を深めるとともに、シビックプライド(地域への誇り)の醸成につながったと感じています。
歴史と現代とをつなげ、イベントとして地元の人を巻き込む野口さんの手腕に脱帽するばかり。ほかにもインバウンドの増加に伴い、和歌が『Japanese Poem』として人気を博している点に着目し、日本文学者であり和歌への造詣が深いピーター・マックミラン氏によるシンポジウムイベントを開催しました。また国文学者の上野誠先生には、万葉で伝える美しい心と言葉の魅力をプロデュースしてもらいました。

大祭に向けてまさに東奔西走している野口さん。その原動力はどこにあるのでしょうか。

野口さん:私は和歌山市で生まれ育ちました。また社会人として仕事や大祭に関わる中で、この街の人々はもちろん、大祭実行委員会の皆様などたくさんの方に育てていただきました。

皆さんへの恩返しの気持ちと、この地の歴史や魅力を後世に伝えたいという想いが、私の活動の原動力です。特に、大祭実行委員会の中山勝裕実行委員長・保井副委員長、今回3年間のボランティア活動を許してくれた紀泉ふるさと創研の依岡善明会長・榎本孝総合プロデューサーそして尾花正啓和歌山市長には、大祭のサポートへの感謝をお伝えしたいです。
現在は、和歌山に関する記事や映像をデジタルアーカイブする活動をするなど、和歌の浦の美しさや物語を届けるために奔走しています。

また今年の秋には1301年の歴史を誇る大祭の新たな幕開けとして、『和歌の聖地 和歌の浦 〜Bay of Poems〜』が開催されます。これからもこの地に魅せられ、この地の物語を紡いでいきたいですね

どことなく落ち着く、優しい雰囲気に溢れた街・和歌の浦。野口さんをはじめ様々な人の想いが実った1300年記念大祭は、歴史はもちろん世代を超えた進化を遂げました。
続いていく、和歌の浦の街

和歌の浦の景色を見渡せる万葉館 和歌の浦の景色を見渡せる万葉館

万葉集の歴史や地元の和歌の活動を知ることができる展示 万葉集の歴史や地元の和歌の活動を知ることができる展示

フィールドワークを通して和歌の浦への理解を深める フィールドワークを通して和歌の浦への理解を深める

短い文章で魅力を伝えるワークショップ 短い文章で魅力を伝えるワークショップ

和歌の浦を守る動きは、大祭後も続いています。その一つが、和歌の浦日本遺産活用推進協議会と協力したインタープリター(観光ガイド)講座。和歌の浦の深い知識を持ったインタープリターを育成するため、官民一帯となった講座の第2回目が2月16日に開催されました。16名の参加者のうち、インタープリター候補生は7名。外国人の方もいらっしゃいました。講座では海南市語り部の会の方によるフィールドワークや短い文章で魅力を伝えるワークショップ、写経のように和歌を書き写す揮毫(きごう)体験が行なわれました。今年10月には和歌をテーマにしたイベントを開催予定など、大祭をキッカケに地域が和歌でつながっていく空気を感じます。また和歌山市内には万葉集の歴史や和歌について学べる『万葉館』があります。こちらでは和歌の浦の景色を眺めながら、万葉集や和歌の展示を見ることができます。

風情あふれる黒江の町並 風情あふれる黒江の町並

うるわし館では漆器の購入や体験もできる うるわし館では漆器の購入や体験もできる

ほかにも街には、これまで築いてきた歴史が多く残っています。たとえば和歌の浦のある海南市・黒江地区では、日本三大漆器・紀州漆器が生産されています。僧侶たちが自分たちの什器を作ったことから始まり、江戸時代に隆盛を極めた紀州漆器。今でも黒江地区の一角には、漆器職人の住居兼工房が「のこぎりの歯」のように規則正しく並んでいます。塗師(ぬし)の作業場兼住宅を改装したカフェや展示即売・漆器蒔絵体験(要予約)ができる『うるわし館』など、この地に根付いた伝統工芸を知ることができます。
想い馳せ 想いをつなぐ 和歌の浦 未来へ続く 潮満ちにけり

歴史を超えて多くの人を惹きつける和歌の浦 歴史を超えて多くの人を惹きつける和歌の浦

1300年前からこの地に魅せられた人々が想いを和歌に乗せ、紡いできた歴史。さらに大祭をきっかけに和歌の浦を守り続ける持続可能な活動が進んでいます。「この地を守る」という聖武天皇の教えが、時代や国を超えて着実に続いています。

今回感じたのは、和歌の浦の絶景を舞台に多くの人生が交差し、そこに大切な人への“想い”が紡がれていることでした。藤白神社では有間皇子や彼を偲ぶ人々が、玉津島神社では絶景に心震わせ、遠く離れた家族に心を寄せる旅人が、紀州東照宮や和歌浦天満宮では歴史を動かしてきた偉人が、1300年大祭では未来に向けて歴史を再解釈する情熱がーー。この景色の美しさと、“和歌”という心の拠り所のもとで等しく感動し、大切な人を想っています。

絶景のもとに神が宿り、和歌という芸術が生まれ、想いがつながっていく。和歌の浦が紡ぐ想いが満ちた先に、どのような“未来”という絶景が広がっていくのでしょうか。
【本稿で紹介した構成文化財】 和歌の浦(干潟)
和歌の浦(玉津島神社)
紀州東照宮
和歌祭・和歌祭祭礼所用具・和歌祭仮面群面掛行列所用品
和歌山城
熊野参詣道紀伊路(藤白坂)
熊野参詣道紀伊路(藤白王子跡)・藤白神社・藤白の獅子舞
黒江の町並み
和歌浦天満神社(和歌浦天満宮)

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