特集SPECIAL CONTENTS

2026.01.20

特集

日本遺産巡り#51◆古いものを守り続ける難しさと
そこに挑む人々の思いを知る旅へ

醤油蔵

今も昔も、日本の食生活に欠かすことのできない調味料「醤油」。そのルーツは、鎌倉時代の紀州湯浅にありました。湯浅の醤油醸造業は江戸時代後期に最盛期を迎え、その醸造技術は房総をはじめとする全国各地へと広がっていきました。

時代は下り、大工場で低コストかつ大量に生産される醤油が主流になった今も、伝統的な醤油づくりと醸造業が育んだ地域文化を大切に残し、次世代に伝えていこうとする人が、この地にはたくさんいます。醤油のふるさと湯浅を訪ね、町の人々の思いを聞いてみました。

伝統的な醤油づくりを続ける本当の理由

湯浅町は和歌山県北西部に位置し、大阪駅から特急くろしおで1時間半ほどの距離にある人口1万人強の小さな町です。町の西端は紀伊水道・湯浅湾に面しており、また旧市街地の東側を熊野古道・紀伊路が縦断することから、古くから海路・陸路の両面で栄えました。江戸時代には徳川御三家紀州藩内でも有数の商工業都市として発展を遂げています。

湯浅の町を有名にしているのが、鎌倉時代から続く醤油づくりです。旧市街地北西部の山田川に面した一画は、歴史ある醸造文化を今に伝える町並みとして、平成18(2006)年に和歌山県内唯一の重要伝統的建造物群保存地区(略称「重伝建地区」)に指定されています。

江戸時代の建物も残る湯浅重伝建地区の町並み 江戸時代の建物も残る湯浅重伝建地区の町並み

角長本店(加納家住宅) 角長本店(加納家住宅)

最初の醤油はどのように生まれ、全国へ広がったのか
重伝建地区の北西部に大仙堀(後述)を背にして建つ老舗醤油蔵「角長(かどちょう)」を訪ねました。角長こと加納家住宅は、母屋や仕込み蔵など合わせて11棟が2022年に国の重要文化財(建築物)に指定されています。

まずは、醤油の「最初の一滴」が湯浅で生まれた経緯について、6代目当主の加納長兵衞さんに伺いました。この名は加納家代々の名跡で、元のお名前は誠さんです。

6代目当主・株式会社角長代表取締役の加納長兵衞さんと、 息子さんで醤油職人の加納恒儀さん 6代目当主・株式会社角長代表取締役の加納長兵衞さんと 息子さんで醤油職人の加納恒儀さん

当主の加納さん(以下、加納さんと表記):今から770年前の鎌倉時代、現在の和歌山県由良町の西方寺(興国寺の前身)を開いた禅僧の心地覚心(しんちかくしん)、後の法燈(ほっとう)国師が中国(宋)の径山寺(きんざんじ)で修行の傍ら学んだ味噌の作り方を、地元に広めたことに始まります。

なぜお坊さんが味噌づくりを学んだのか?加納さんによると、覚心が師事するつもりだった径山寺の禅師が、訪ねてみると既に亡くなっていたということです。学ぶことがなくなってしまった覚心はしかたなく、そこで作られていた径山寺(金山寺)味噌の製法を習得したのです。

加納さん:味噌というよりも納豆に近いものではなかったかと想像していますが、大豆のタンパクを麹菌が発酵・分解しておいしくする、その仕組みは現在の醤油とも共通しています。

ちなみに、覚心が中国を訪ねた最大の目的は、暗殺された鎌倉三代将軍・源実朝を供養することでした。つまり、海外留学のスポンサーは北条政子だったのです。その後も覚心は中国各地で修行し、5年後に悟りを開いて帰国。由良を拠点に説法に励むとともに、金山寺味噌づくりを地域に広めます。

加納さん:その製造過程で出る上澄みをなめてみると意外においしいことがわかり、水質が良かった湯浅で醤油として作るようになったのです。味噌づくりに水は使いませんが、醤油には水が重要ですからね。

湯浅の醤油づくりが最盛期を迎えるのは、文化年間(1800年代初頭)。当時の湯浅には92軒もの醸造家がその技を競ったといいます。それよりも早く、既に1600年頃には湯浅の醸造技術は海伝いに房総へ、そして全国へと広まっていました。

加納さん:きっかけは漁師でした。遭難した漁船が黒潮に流されて漂着したのが房総だったわけです。それで千葉県には「白浜」「勝浦」といった和歌山県と共通する地名が存在するのです。紀州・房総間を漁師が行き来するうちにこの地の醤油職人たちも房総に移り、現在の大手メーカーの礎になりました。
180年の歴史を持つ醸造技術を訪ねて
角長の創業は、江戸時代後期の天保12(1841)年。湯浅の地で180年以上にわたって伝統的な醤油づくりを続けています。醤油の伝統的な製法とはどのようなものなのでしょうか。普段は部外者が入ることのできない醤油づくりの現場を、特別にご案内いただきました。

材料のサンプル展示(写真右手前) 材料のサンプル展示(写真右手前)

醤油の材料は、小麦と大豆、麹菌、塩と水、これだけです。写真手前のラップがかかった容器の中身は種麹(たねこうじ)。蒸した丸大豆と炒って砕いた小麦に麹菌を混ぜ合わせ、麹室(こうじむろ)で菌を繁殖させたものです。写真奥で湯気を立てているのが火入れ釜。醤油蔵の建物は、江戸時代から修繕しながら使い続けているそうです。

仕込み桶(発酵容器) 仕込み桶(発酵容器)

麹室で4日間かけてしっかり繁殖させた種麹に塩水を合わせた諸味(もろみ)を、仕込み桶に入れて発酵させます。角長の濃口醤油は1年から1年半、火入れをしない生(なま)醤油の場合は2年から3年にわたって攪拌を繰り返しながら発酵・熟成させ、湯浅の醤油ならではの香りと味わいを醸し出します。仕込み蔵には全部で24の桶があり、1桶あたり一升瓶3500~4000本の醤油ができるそうです。

圧搾を行う作業場 圧搾を行う作業場

火入れの火力を調節する恒儀さん 火入れの火力を調節する恒儀さん

味・香り・色合いが整った段階で諸味を取り出して圧搾します。絞り出された液汁には生きた麹菌が含まれており、条件次第ではさらに発酵が進む可能性があるため、火入れをします。角長では、松材の薪を使用して半日間じっくり炊き上げるということです。「町に漂う醤油の香りは、火入れ釜から立ち上がったものです」と職人頭の加納恒儀さん。なお、この火入れ工程を経ないで瓶詰めされる製品が「生醤油」です。
「醤油発祥の地」の看板を裏切らないものづくりを
この作り方は、180年前の江戸時代からまったく変わっていないと考えていいのでしょうか。当主の加納さんは、創業当時のままだと断言します。

加納さん:材料の運搬を人力から機械に置き換えたり、麹室に空調を入れたりはしていますが、材料と基本的な作り方は変えていません。だから、味や香りも創業当時のままです。現代では、製造過程で旨味成分のアミノ酸液を添加する「混合醸造」も多く用いられますが、角長の商品はすべて江戸時代から続く「本醸造」です。また、食用油を絞った後の大豆(脱脂加工大豆)ではなく、丸大豆だけを使用しています。これも創業時から変わりません。

伝統的な醸造法は手間がかかる上、安価かつ大量に生産することも難しいはず。それでも加納さんが昔ながらの製法を守り続ける理由は、醤油のふるさと湯浅への思いがあるからです。

加納さん:「醤油発祥の地」という素敵な看板は、我々が作ったものではなく、行政や地域の皆さんが一緒になって作ってくださったものです。この大事な看板を傷つけるようなものづくりはできない。昔ながらの醤油醸造は、それはしんどいですよ。ですがこれからも、湯浅という町の名に恥じない良い商品を真面目に作り続けます。

角長本店の店内 角長本店の店内

角長は現在、本店のすぐ近くに小さなミュージアムを2つ展開しています。伝統的な醤油づくりの工程をわかりやすく紹介する「醤油資料館」と、昔ながらの醸造用具や帳簿・広告などを展示する「職人蔵」です。いずれも、醤油のふるさと湯浅の看板を守ることに貢献していると感じました。

職人蔵の展示品 職人蔵の展示品

職人蔵の展示品

【加納家住宅(角長本店)】
*醤油資料館・職人蔵は見学無料。ただし電話での予約が必要です。
所在地 和歌山県有田郡湯浅町湯浅7
アクセス JR「湯浅」駅から徒歩約15分

古くて新しいハイブリッドな町を創りたい

角長当主の加納さんが語る通り、重要伝統的建造物群保存地区の指定や日本遺産の認定などは、行政の取り組みがあってこそ実現したものです。そこで今度は、行政側のお話を聞いてみましょう。重伝建地区の東端にある旧栖原家住宅を、湯浅町副町長の楠義隆さんとともに訪ねてお話を伺いました。

左から、湯浅町ふるさと振興課商工観光係長の中井沙知さん、 副町長の楠義隆さん、商工観光係の生駒尚也さん 湯浅町ふるさと振興課商工観光係長の中井沙知さん(左)・副町長の楠義隆さん(中央)・商工観光係の生駒尚也さん(右)

湯浅の旅の魅力は、景観と食事と人間味
楠さんは、もとは和歌山県の教育委員会にお勤めで、県職員として湯浅重伝建地区に関わるお仕事を担当された後、日本遺産認定の年に湯浅町に赴任されました。日本遺産認定前後のいきさつについて伺いました。

楠さん:日本遺産認定の以前から、湯浅町では観光資源としての町並み整備を計画的に進めてきました。平成18(2006)年に重要伝統的建造物群保存地区に指定されましたが、町としては「もっと何かできないか」という機運がありました。その後、日本遺産の計画が発表されたとき、すぐに「湯浅町もトライしてみよう」ということになったわけです。鎌倉時代までさかのぼることができるストーリーと、醸造文化を伝える古い町並み、今も伝統的な醸造法を守り続ける角長さんの存在などが決め手となり、平成29(2017)年に日本遺産「『最初の一滴』醤油醸造の発祥の地 紀州湯浅」が認定されました。これを良いきっかけとしてさらなる地域振興につなぐ取り組みを進めているところです。

中井さん着用のオリジナルウィンドブレーカー「The First Drip(最初の一滴)」 中井さん着用のオリジナルウィンドブレーカー「The First Drip(最初の一滴)」

楠さんによれば、重伝建地区を中心とした建物の整備は、年間3~4軒のペースで継続しているとのこと。古いものを残すだけではなく、整備して活用を図ることが目的です。古民家を活かした民間の飲食店なども増えていますが、行政としてはさらなる取り組みが必要ということでした。

楠さん:古い町並みは大切に守りながら、観光客にもっとこの町を楽しんでもらう方法を模索しています。例えば、デジタル技術を導入し、スマートフォンで情報を受け取りながらより深く探検してもらうというように、古さと新しさが融合した町づくりを進めていきたいですね。

古いものは大切に守りつつ、新しいものも積極的に取り込んでいく―その考え方は、伝統的な醤油の製法を堅持すると同時に、業界に先駆けて生醤油を開発したり、粉末醤油などの新分野にも挑戦する角長の経営と共通するものを感じました。
楠さんのお話に戻りましょう。湯浅町では、町並みの整備と並行して、次代を担う子どもたちへの啓発活動にも力を入れています。

楠さん:町立の小中学校で「ふるさと講座」を始めて5年ほどになります。地域の歴史や文化、また海辺の町ですので防災の知識も含め、しっかりと伝えています。その中で小学校4年生には、醤油の手づくり体験をしてもらっています。角長さんの協力を得てペットボトルに醤油の材料を入れ、攪拌の代わりにボトルを振ったりしながら、約半年間かけて“マイ醤油”を作って楽しんでいます。

醤油発祥の地の魅力を知った子どもたちが、地域文化を守り活かす若者に成長してくれることが、町の大人たちの願いです。最後に、観光客に向けたメッセージを語っていただきました。

楠さん:落ち着いた町の雰囲気はもちろん、海の幸・山の幸に名物の醤油を活かしたお食事もぜひ楽しんでいただけたらと思います。そして何より、湯浅の魅力は人間味です。町の人たちは「親切」を通り越して「おせっかい」と言えるほど。何でも聞いていただいたら、期待以上の答えが返ってくると思いますよ。
小路広路が入り組んだ湯浅の町を歩いてみよう

旧栖原家住宅(フジイチ) 旧栖原家住宅(フジイチ)

楠さんにお話を伺ったのは、旧栖原(すはら)家住宅という文化財の一室でした。明治7(1847)年に「フジイチ」の屋号で創業した醤油醸造蔵を明治の終わり頃に栖原家が買い取り、昭和57(1982)年まで営業していた建物で、湯浅の伝統的な醸造家の特徴が随所に見られます。

本瓦葺きの屋根、軒に下がる雨よけ用の幕板(まくいた)、取り外し可能な手摺状の格子 本瓦葺きの屋根、軒に下がる雨よけ用の幕板(まくいた)、取り外し可能な手摺状の格子

防火のために漆喰で塗り固めた壁と虫籠窓(むしこまど) 防火のために漆喰で塗り固めた壁と虫籠窓(むしこまど)

上下二重の本瓦葺き屋根が特徴的な文庫蔵 上下二重の本瓦葺き屋根が特徴的な文庫蔵

【旧栖原家住宅(フジイチ)】
所在地 和歌山県有田郡湯浅町湯浅557番地
旧栖原家住宅から北に歩くと山田川の堤防に突き当たります。川に沿って西に進むと、先に訪れた角長の裏手に「大仙堀」という名の内港がありました。かつてはここで、醤油樽の出荷や原材料の荷揚げが行われました。江戸時代に作られたものらしく、角長当主の加納さんが若い職人だった時分には、既に使われていなかったということです。

「しょうゆ堀」の異名を持つ内港、大仙堀 「しょうゆ堀」の異名を持つ内港、大仙堀

【大仙蔵】
所在地 和歌山県有田郡湯浅町湯浅5
湯浅の町は、きわめて狭い路地とやや広めの通りが入り組んだ構造になっています。この独特の町のつくりを、町の方々は「小路広路(しょうじこうじ)」と呼びます。副町長の楠さんによると「徒歩か自転車がちょうどいいサイズのコンパクトな町」ということになります。小路を歩いて、甚風呂に向かいました。

小路の景観 小路の景観

甚風呂外観 甚風呂外観

甚風呂(じんふろ)は、幕末から昭和60(1985)年まで営業していた銭湯です。平成19(2007)年から2年間の改修工事を経て公開されました。レトロ感漂う建物のあちらこちらに古民具などが展示された歴史民俗資料館となっています。

甚風呂浴場 甚風呂浴場

【甚風呂】
所在地 和歌山県有田郡湯浅町湯浅428
湯浅重伝建地区を出て湯浅駅方面に向かう途中に立石道標があります。天保9(1838)年に建てられた高さ2メートルを超える巨大なロードサインです。

立石道標 立石道標

「すぐ熊野道」とあるのは、南北にまっすぐ進むこの道が熊野古道の要所であることを示しています。熊野古道といえば、紀伊山中の森林を抜ける石畳の道を連想しますが、市街地を通るルートもあったのです。ここは、京から紀伊半島の西岸を通って紀伊田辺に向かう「紀伊路」にあたり、湯浅は熊野参詣における重要な宿泊地でもありました。元和元(1201)年、後鳥羽上皇の熊野参詣でも湯浅に宿泊した記録があります。

そして、法皇や上皇の宿泊に用いられたと伝わるのが、熊野街道沿いにある深専寺(じんせんじ)です。奈良時代の高僧・行基が開いた寺院で、当初は「海雲院」と呼ばれていたものを、後に明秀上人が再興して「深専寺」と改めました。現存する建物の大半は江戸時代に建てられたもので、本堂や惣門などが和歌山県の文化財に指定されています。風格ある本堂の大屋根と一対の鯱が印象的でした。

深専寺本堂 深専寺本堂

深専寺惣門 深専寺惣門

惣門をくぐって通りに出たところですれ違った女性から、笑顔で「こんにちは~」と挨拶されました。楠さんが教えてくれたこの町の人々の人間味に、少しだけ触れられた気がしました。

【深専寺】
所在地 和歌山県有田郡湯浅町湯浅785
日本遺産に認定された醤油醸造の発祥の地・紀州湯浅を訪ねました。
昔ながらの醤油造りを続ける醸造家からは、伝統を守り続ける努力と、それを可能にしている地域社会への誠実な思いを知ることができました。また湯浅町役場の皆さんからは、文化財を大事に残すだけでなく、新しい技術も取り込んで活性化に役立てようとする意気込みを感じました。
古き良き景観と人々の思いに触れるために、湯浅の町を歩いてみませんか。
【本稿で紹介した構成文化財】 湯浅町湯浅伝統的建造物群保存地区
加納家(角長)
醤油醸造用具
醤油の製造技術
栖原家
大仙堀
熊野街道道標
深専寺
甚風呂

ストーリーページはこちら

ページの先頭に戻る