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2026.10.05

特集

日本遺産巡り#56◆紅花ビジネスを育てた人々と、紅花ブランドをつないでいく人々。

山形県内陸部の中央に位置する村山地域。南北に長い山形盆地を最上川が北流し、その周囲には肥沃な平地が広がります。現在は稲作や果樹栽培が盛んなこの地域に、明治の初め頃までは特別な農作物が栽培されていました。紅花です。この地域における紅花は「農業」の枠組みを超え、栽培・加工・流通を一貫して行う、今で言えば「6次産業」にあたるビジネスでした。

最盛期の江戸時代後期には、全国の紅花生産量の半数以上をこの地域が占めたといいます。流通を担ったのは近江商人たちで、主な消費地は文化と経済の中心地、上方(京都・大阪)でした。その帰結として紅花は、莫大な富と上方文化をこの地にもたらしました。

最上紅花ビジネスが大成功を収めた要因は何だったのか。それを支えた「山寺」の存在とは?紅花文化を今に伝え、地域づくりに活かそうと努める村山地域の方々にお話を聞きました。

河北町「紅花資料館」で
最上紅花ビジネスの実像に迫る

まずは、2018(平成30)年に日本遺産に認定された「山寺が支えた紅花文化」の全体像を把握するために、河北町「紅花資料館」を訪ねました。

資料館入口にあたる「格子片番所付長屋門」 資料館入口にあたる「格子片番所付長屋門」。

「資料館」という名称から受ける印象とは異なり、総面積15,000m2を超える敷地に、江戸時代の蔵をはじめとする多くの建物が点在する広大な施設です。その大部分が、紅花商として財をなした堀米四郎兵衛家の屋敷跡とのことで、紅花がもたらした富の大きさを感じずにはいられません。ご案内くださるのは、河北町観光協会の学芸員、松田実樹さんです。

資料館館長で谷地八幡宮名誉宮司の林保彦さん・学芸員の松田実樹さん 資料館館長で、谷地八幡宮名誉宮司の林保彦さん(左)。後にご紹介する「林家舞楽」の伝承者、その人です。        学芸員の松田実樹さん(右)。

松田さん:初代の堀米四郎兵衛さんは、現在の栃木県にあった堀米村からこちらに移り住んだと伝わります。三代目には名主(村落の長)となっており、四代目は名字帯刀を許されました。紅花商に参入したのはこの四代目、享和3(1803)年頃で、山形県では遅めの参入でした。堀米家が最も栄えたのは、幕末から明治にかけて活躍した六代目四郎兵衛さんの時代です。
●二番蔵「武者蔵」
幕末という動乱の世に、六代目は幕府の命を受けて地域自衛のための農兵隊を組織しました。配下の小作人は200人を数え、その大半が兵士としての訓練もしていたのです。武器庫として使われたのが、資料館入口の近くに現存する二番蔵で、通称「武者蔵」。現在は、旧堀米家の古文書や商売道具・生活用品が保管・展示されています。

松田さん:堀米家の資料で一番多いのが古文書、帳面や商売の手紙類です。例えばこの展示は堀米家において紅花の出荷が最も多かった文政5(1822)年のもので、約19駄半(2,340kg)の紅餅を9軒の上方紅花屋へ出荷したことが記されています。

武者蔵(二番蔵) 武者蔵(二番蔵)は嘉永6(1853)年に建てられたもの。

●「母屋・座敷蔵」
武者蔵の斜め向かいに建つのが「母屋・座敷蔵」です。かつての母屋はもっと大きなものでしたが、老朽化のため昭和の半ばに今の形に作り変えられた、とのこと。母屋の廊下を進むと、奥の間は広いお座敷になっています。ここが「座敷蔵」です。

松田さん:江戸時代の中期に建てられた、堀米家の一番蔵です。明治に入ってこのような座敷に改装されました。江戸後期から上方で大流行した様式で、蔵を改装して迎賓館のように客をもてなすことが一種のステータスとなり、堀米家でも取り入れました。

室内は完璧にリノベーションされており、「蔵の中」という雰囲気はありませんが、廊下に戻って座敷を振り返ると、確かに蔵だった証がありました。観音開きの扉が残っているのです。

座敷蔵 座敷蔵は、蔵を改装した客間。

重厚な扉 蔵だったことがわかる重厚な扉。

松田さん:ここは大切なお客様をお通しして、お泊まりいただくお部屋でした。防火性が高い蔵は、家宝などの大事なものをしまっておく場所ですので、お客様も「大切な宝」としておもてなししたのだと思います。
●観光温室「紅花ガラスハウス」
広大な敷地を持つ資料館の一番奥、小高い丘に「紅花ガラスハウス」があります。取材に伺ったのは12月初旬でしたが、本来は7月の上旬から中旬にかけて収穫する紅花が、たくさん咲いていました。品種はすべて「最上(もがみ)紅花」です。

最上紅花

「ふんわり丸く咲いた黄色い花が摘み頃です」と松田さん。
松田さん:ハウス内部は湿度が高いのでトゲが比較的柔らかいのですが、7月の強い日差しの下ではトゲはどんどん硬さを増して、摘みづらくなります。だから朝露がつく早朝に摘んだのですね。トゲのない品種もありますが、かつて財を成したのはトゲの鋭い最上紅花で、紅色を取るにはこの品種が最も良いということです。背丈が1~1.2mと高くて摘みやすく、花びらの長さも他品種より長めなのが特徴です。

ハウスの紅花は、毎年6月と11月が見頃だそう。そして7月には、屋外の畑に咲き乱れる姿が見られます。

最上紅花 鋭いトゲにご用心。

●ミュージアム「紅の館」
紅花ガラスハウスから少し戻った所にあるモダンな建物は、紅花文化を広く学べる博物館「紅の館」です。原産地のイスラエル付近から山形へと伝わったルートや、この地域の紅花栽培・加工・物流の特徴がわかるジオラマやパネル、各種の実物展示などが充実しています。

林家舞楽の再現展示 林家舞楽の再現展示

先に少し触れた「林家舞楽」のリアルな展示が目を引きます。林家舞楽は、宮中舞楽・南都楽所舞楽・四天王寺舞楽とともに日本四大舞楽の一つに数えられ、国の重要無形民族文化財に指定されています。

松田さん:林家舞楽の起源は、貞観2(860)年に、山寺(宝珠山立石寺)を開いた慈覚大師円仁さんに随行してきた楽団の方々だといわれています。以来、千数百年にわたり伝わる舞楽で、もとは山寺にあったものが曲折を経て江戸時代に、河北町の谷地八幡宮に納まりました。

展示は「陵王(りょうおう)」という曲を舞う様子を再現しており、衣装はすべて谷地八幡宮の宮司を代々務める林家からお借りしているものです。紅花資料館館長を兼務する林保彦さんは先代宮司で、かつては舞手を務めたということでした。

松田さん:オレンジ色に見える衣装が紅花染めで、もとは手前の欄干のような赤色でしたが、長年の展示や奉納の際の日光の影響で退色したものです。現在の林家舞楽は衣装が一新され、本当に美しい姿で奉納されています。

最上紅花が圧倒的シェアを
獲得できた要因とは

紅花加工の様子を紹介するジオラマ展示 紅花加工の様子を紹介するジオラマ展示。紅餅づくりのシーンです。

ところで、ガラスハウスで見た黄色い花が、どのように加工され、流通していったのでしょうか。この地域から出荷されたのは、収穫した花そのものではなく、花びらを加工した「紅餅」という商品でした。加工の過程で、花びらを杵と臼で搗いて丸めたり伸ばしたりするので、紅餅と呼ばれるのだとか。紅花に含まれる色素のほとんどが黄色成分で、赤色成分はわずか1%ほど。摘んだ紅花を揉んだり発酵させたり成形して乾かしたりといったいくつもの工程を経て、黄色成分を抜いて貴重な赤色を凝縮したものが紅餅です。

紅餅の実物展示 紅餅の実物も展示されています。

紅餅 餅のように搗いたので「紅餅」。

松田さん:紅花の収穫から紅餅ができるまで、5日間から1週間程度の短期決戦になります。ですから、小作人総出の人海戦術で一気に取りかからなければなりません。出荷の際には、馬1頭の背に120kg(この量を「1駄」といいます)の紅餅を積んで、大石田の船着場まで運びました。最上川は日本三大急流の一つに数えられる激しい川で、紅花は「米の100倍、金の10倍」といわれる高価な品でしたので、安全策を取って陸送したんですね。大石田からの下流域は大型の艜船(ひらたぶね)で運び、河口にあたる酒田で北前船に積み替えて西廻り航路で敦賀へ、さらに琵琶湖を経由して京都・大阪へと運びました。約1カ月の長旅です。

琵琶湖といえば近江国。紅花流通を一手に引き受けた近江商人の本拠地です。近江商人がこの地域に果たした役割はとても大きなものだった、と松田さんは言います。

松田さん:7月にできた紅餅をいち早く、最良のものを買い付けることが近江商人の重要任務だったようで、山形に乗り込んで来てこちらに腰を据えた商人も多くいました。商人たちは、紅花を売った帰り荷として、都の美術工芸品を山形に持って帰ります。その代表が、雛人形でした。生産者たちは、自分が作った紅花染料で彩られた雛人形を見て、喜んだのではないでしょうか。とても素敵な京土産だったと思います。

京都製の古今雛 京都製の古今雛(江戸時代後期)。女雛の衣装や口紅が紅花由来の赤色です。

明治初期までは、紅花は各地で盛んに栽培されていました。その中で「最上紅花」が圧倒的な市場シェアを獲得できた理由は何だったのでしょうか。

松田さん:山形盆地・最上川流域の土壌や気候が紅花栽培に適していたということはあるでしょうが、最も大きな要因は、紅餅加工という新技術がこの地域で生まれたことだと思います。京都・大阪と並ぶ消費地だった関東地方でも紅花は栽培されていましたが、紅餅にしたという記録は見られません。干しただけの紅花からでも赤い染料は取れますが、その効率は紅餅の比ではありません。多くの人が手間をかけて加工することで染料抽出が格段に容易になり、しかも長期輸送中も変質せず、遠くまで届けられる。京都・大阪の紅問屋にとっては、ぜひ買いたい商品だったでしょう。

自然条件に恵まれたこと。加工技術の革新が起きたこと。さらには水上輸送ルートの確立と、流通エキスパートの存在。こうしたいくつもの要因が重なって、山形県村山地域は日本一の紅花産地となったに違いありません。なお、当地における紅花の生産・加工技術は、「歴史と伝統がつなぐ『山形の最上紅花』~日本で唯一、世界でも稀有な紅花生産・染色用加工システム~」として、日本農業遺産に認定されています。

お化粧用の紅 紅花資料館の物産館にて。

玉虫色に輝くお化粧用の紅。 玉虫色に輝くお化粧用の紅。

【河北町 紅花資料館】
所在地 山形県西村山郡河北町谷地戊1143
アクセス 山形空港から車で10分
JR左沢線「寒河江」駅から車で15分
JR奥羽本線「さくらんぼ東根」駅から車で18分

最上紅花の文化を
地域や世代を超えてつないでいく

最盛期には「最上千駄」と謳われて隆盛を誇った最上紅花ビジネスでしたが、1881(明治14)年を境に途絶えてしまいます。中国産の安価な紅花や西洋の人工染料が入ってきたことが原因でした。太平洋戦争の終結後、農家でわずかに保管されていた紅花の種が発見されたことがきっかけで、地域固有の紅花文化を再興しようという動きが起こります。1982(昭和57)年には山形の県の花に認定。1992(平成4)年に開催された49回国民体育大会は、今も「べにばな国体」の愛称で呼ばれます。そして現在も、山形の紅花文化を国や地域、世代の壁を越えてつないでいこうと活動する人々がいます。
体験が深い納得につながる、そんな旅をプロデュース
●紅花文化を旅行商品に
「株式会社DMC天童温泉」の鈴木誠人さんを訪ねました。DMC天童温泉は、地元旅館の若手経営者たちが「競争ではなく共創」を合い言葉に手を組み、2017(平成29)年に誕生した地域密着型の旅行会社。一般的な観光ツアーが客を集めて観光地に連れて行く“発地型”旅行商品であるのに対し、鈴木さんが取り組むのは、地域に観光客を呼び寄せる“着地型”旅行商品の造成・販売・実施です。

DMC天童温泉の鈴木誠人さん DMC天童温泉の鈴木誠人さん。 企業Webサイトでは「青い誠人」と紹介されています。

鈴木さん:地域の祭りなど年に1度しかないイベントでお客様を呼ぶのではなく、持続性のある企画を重視しています。ツアーコンセプトは「生のやまがた体験を通じて一生ものに出会う旅」です。山形の季節の移ろいはハッキリしていて、景色も味覚も毎月のように変化します。お客様には、今この瞬間の山形の魅力を体験していただくことで新たな気づきを得たり、できることなら帰宅後の暮らし方にも変化を及ぼすような、天童温泉や山形県の関係人口増加につながる商品企画が目標です。

そんな思いで、朝摘みさくらんぼツアーや氷瀑トレッキングツアーといった体験型旅行商品を数多く提供してきた鈴木さんですが、紅花をテーマにした体験ツアーは「失敗続きだった」と語ります。

鈴木さん:日本遺産認定以前に企画したのは例えば、紅花を茎ごとハサミで切ってフラワーアレンジメントを体験していただくといったものでしたが、全くといっていいほど反響はありませんでした。「紅花は難しいな」というのが当時の本音です。今思えば、紅花を“単なる花”としてしか見ておらず、山形の紅花文化を正面から受け止めていなかったのですね。日本遺産「山寺と紅花」推進協議会から商品開発の相談を受け、関係者の方々の話を聞いて勉強し直したことで気づいた反省点です。

ここ数年は、7月に「最上紅花の朝摘みと紅餅づくり」、11月に「1%の本紅抽出と紅づくり」、2月には「寒中紅花染め」の体験ツアーを実施しています。朝摘みと紅餅づくりは、まさに山形の紅花文化を再現したもの。紅の抽出や紅花染めは、本来山形では行われていなかったものですが、紅花文化をより深く知りたいお客様のために、山形の新たな紅花文化を作っていく気概で始めたのだそうです。

ツアー前の説明の様子 ツアーの出発前に、これから体験することの意味をお客様にご説明します。

鈴木さん:7月のツアーは朝5時半に集合、6時から花を摘んで、その後、温泉に入ったり畑で朝ご飯を食べたりした後で、谷地八幡宮を訪れて紅餅づくりをします。摘んだ花は数日の発酵期間を要しますので、この日に紅餅成形するのは、数日前に参加した別のお客様が摘んだ紅花です。お客様同士、顔を合わせることはなくても、人から人へと手渡されていく感覚はあります。

このツアーを企画した当初、地域の人々からは否定的な意見が寄せられたと鈴木さんは言います。

鈴木さん:朝は早いし、畑は暑いし、トゲは痛いし――そんな過酷な経験を、外からきたお客様にさせるわけにはいかない、というのが多くの意見でした。ですが私は、過酷でもやってみたい人がいるはずだと考えたんです。2月の寒中紅染めも同様で、雪の降る屋外で冷たい水の中に手を入れて染めていただきます。気温が低くないと発色が安定しないからです。こうした過酷な体験を実際にしてみることで、「江戸時代の人々は、こんなに辛い作業を生業としていたのだな」と納得できます。話を聞けば“理解”はできますが、深い“納得”は体験してこそ得られるものです。

参加したお客様の評価は上々で、「貴重な経験を購入できた」という反応が多いとのこと。中には、ツアーでの経験に感動し、「自分も紅花文化の普及に関わりたい」と転職・移住に踏み切ったお客様もいたそうです。これも、深い納得の力かもしれません。

鈴木さん:山形の紅花文化への認知度は、県内でも決して高くありません。紅花が県の花だと知らない県民も多い。私たちのツアーが県外・海外のお客様から注目されることで、地域の方々が山形の文化を再認識するきっかけにもなれば、とも考えています。
【DMC天童温泉/トラベラーズラウンジ】
所在地 山形県天童市鎌田本町2-5-43
アクセス JR奥羽本線「天童」駅から徒歩約15分
見てよし、染めてよし、食べてよし
紅花は、人と人をつなぐ花
●子どもたちに手わたす紅花文化
JR天童駅ビル内で「フラワー&手づくりの店 私の部屋」を主宰する大山るり子さんは、紅花染めや紅花料理の研究家・指導者としても忙しい毎日を送っています。取材のために訪れた「私の部屋」で、大山さんが創作した紅花料理の数々をご披露いただきました。

大山さん:どうぞ召し上がってください。紅花というとまずは染め物を連想しますけど、やっぱり「食」なんですよね。仲良くなるにはまず食べることって言うでしょう? 

大山さんお手製の紅花料理。

大山さんお手製の紅花料理。
左から時計回りに「紅花若菜煮」「紅花若菜のグリーンソース」「紅花入りリンゴジャム」「紅花入り寒天」。

※紅花料理は取材撮影のため特別にご用意いただいたものです。「私の部屋」が提供する商品ではありません。
 
お料理をいただきながら、大山さんのお話を伺います。山形ことばが入ったチャーミングなおしゃべりを文字で表現するのは難しい……

大山さん:若菜は、江戸時代の紅花栽培で間引きしたものを、女性たちが捨てずに保存食にしたという歴史背景があります。それを煮びたしにしたのが若菜煮で、小学校の実習で作ると「おいしい」と言っておかわりする子もいるんですよ。若菜のグリーンソースは生クリームなどを使った洋風ソースで、鶏肉や白身魚に添えるとおいしいです。

天童生まれ天童育ちの大山さんですが、紅花料理に関心を持ったのは大人になってからだそう。医学研究者の講演を聞いて、食品としての紅花には血流を促して身体を温めるなどの機能があることを知り、「これを子どもたちにも伝えたい」と料理研究を始めたといいます。「フラワー&手づくりの店 私の部屋」はそれ以前から開いており、お店はまもなく50周年を迎えるとのことです。

大山るり子さん 大山るり子さん。手に持っているのは、大山さん手づくりのペーパーフラワーです。

ペーパーフラワー 本物の花のようです。

大山さん:昔からものづくりが好きだったんですね。べにばな国体の主会場が天童市だったこともあり、「何か紅花に関わるものを」と考えてペーパーフラワーを作ったんです。その作品がコンテストで入賞したり、選手団へのお土産品に採用されたりしたことで、「紅花をもっと知りたい、広めたい」と思うようになりました。それが40代の頃。“地域の宝”にようやく気づいたんです。

これを契機に、大学教授の話を聞いたり、県外の染色工房に通ったりして勉強を重ねるうちに、大山さんにとっての紅花の可能性はどんどん広がり、活動の舞台も多様化していきました。紅花の魅力を「見てよし、染めてよし、食べてよし」と表現し、さまざまな紅花普及活動に取り組んでいる大山さんですが、中でも大きな位置を占めるのが、小学校での紅花学習の講師です。

大山さん:天童市内の6つの小学校で、4年生の子どもたちと一緒に活動しています。地元の紅花栽培組合の方々にご指導いただきながら5月に学校の花壇にみんなで種をまいて、6月に間引き。杭を立てたり草取りをしたりして、夏休み前の7月に花を摘みます。その黄色い花から赤を取る「べにばなすりぞめ」も教室で体験します。布の上に型紙を置いて、摘んだばかりの花を押し当てて擦り込みます。15~30分ほど続けると、黄色からオレンジ色、赤色へと変わっていくんですね。紅花にたった1%しかないきれいな赤が取れると、子どもたちは目を輝かせて本当にうれしそうです。

作業の合間や教室での授業で大山さんは、紅花文化の歴史や紅花の植物としての特徴を伝えています。

大山さん:子どもたちには、「いっぱいまいた種から、最初は一輪だけ咲くんだよー。これは『みんなで一緒に咲こうな』っていう合図なんだー」なんて話します。この咲き方は紅花の特徴の一つで、「半夏ひとつ咲き」といいます。この言葉も私は大好きです。

大山さんの話を子どもたちは熱心に聞き、感想文を寄せてくれます。小学校で指導を始めてから10年以上が経過し、たくさん届いた感想文は全部大切に保管して、ときどき読み返すそうです。

すりぞめ作品 額装されているのが布に赤を取ったすりぞめ作品。
手前左が型紙で、右は作業時に布の下に敷く厚紙。水溶性の黄色染料がにじみ出ています。

小学生の感想文集 小学生の感想文集は大山さんの宝物。

大山さん:「るり子先生、紅花を教えてくれてありがとう」とか、「山形に生まれたことを誇りに思います」「紅花を未来に伝えていきます」なんて、4年生が書いてくれる。すごいですよね。読んでいると胸が熱くなって、自分も頑張って伝えなきゃと思うんですよね。

このほか、ご自身もメンバーになっているJA婦人部有志とともに「紅花若菜麺」を開発したり、栽培ボランティア「紅花メイト」を募って12団体も集めたり、地域の醸造家や工芸作家のものづくりに関する相談に応じたりと、さまざまな人から頼りにされ、精力的に活動する大山さんです。

大山さん:紅花が活動の輪を広げてくれました。私にとって紅花は「人と人をつなぐ花」だと思っています。

【フラワー&手づくりの店 私の部屋】
所在地 山形県天童市本町1-1-2 パルテ1階
アクセス JR奥羽本線「天童」駅から徒歩すぐ

最上紅花文化の隆盛と
山寺の関わりとは

日本遺産に認定されたストーリーは「山寺が支えた紅花文化」です。では、山寺と紅花の関係はどのようなものだったでしょうか。あらかじめお断りしておくと、冒頭に登場いただいた紅花資料館学芸員の松田さんによれば、両者の関係を示す記録は見つかっておらず、伝承の域を超えないということです。

山寺(宝珠山立石寺)五大堂からの眺望。 山寺(宝珠山立石寺)五大堂からの眺望。

山形を代表する古刹で観光名所でもある山寺。正しくは「宝珠山立石寺(ほうじゅさんりっしゃくじ)」といい、平安時代の860(貞観2)年に慈覚大師円仁が開いたと伝わる、天台宗のお寺です。円仁は、天台宗の宗祖である最澄の弟子にあたり、遣唐使の一員として中国で修行を積んだ僧侶。山形の紅花は、この円仁が中国から持ち帰ってこの地で広めたとも伝わっています。

そして天台宗・最澄といえば、滋賀県と京都府にまたがる比叡山延暦寺。ここで再び、近江国が登場しました。近江商人のすべてが天台宗を信仰していたとは限りませんが、商人たちを山形の地に呼び寄せるにあたり、山寺が大きな役割を果たした可能性はありそうです。昔の山寺については想像するしかありませんが、現在の山寺なら、現地に行って確かめることができます。
文化と言語の異なる人たちに、山寺の本当の魅力を伝える
●外国語による山寺ガイドツアー
山寺を愛する外国語ガイドチーム「Yamaderans(ヤマデランズ)」代表の後藤麻衣さんを訪ねました。山形市山寺地区で生まれ育った後藤さんは、英語圏への留学や自身の旅行を通して、ある思いを抱くようになりました。

後藤さん:思い出に強く残るのは「どこに行ったか」よりも「誰と出会ったか」なのです。やはり大切なのは「人」なのだと思い、外国語ガイドの取り組みを始めました。山寺は宗教観光地として人気が高く、外国人旅行者も増えています。以前から日本人向けのガイドはいたのですが、外国人のためのガイドはいませんでした。ガイドなしで登っても「いい景色だなぁ」で終わってしまい、山寺本来の魅力は伝わりません。また、外国人の増加に伴ってこの地域では、外国語がわかる人材へのニーズが高まっていました。山寺外国語ガイドYamaderansは、日本遺産認定前後の2019年から準備を始め、コロナ期間を挟んで、2022年にデビューしました。現在は10人ほどのメンバーで運営しています。
 

Yamaderans代表、後藤麻衣さん。 Yamaderans代表、後藤麻衣さん。

Yamaderans発足当時の写真(左端が後藤さん)。 Yamaderans発足当時の写真(左端が後藤さん)。
紅花染めを連想させる真紅のはっぴがユニフォームです。

後藤さんたちが伝えたいと考える「山寺本来の魅力」とはどのようなことなのでしょうか。

後藤さん:山寺が「観光地」と認識されるようになってまだ100年にもなりません。それ以前は純粋に「信仰」の場所でした。

山門をくぐった先は、輪廻転生の世界。山門から少し上った所にある姥堂(うばどう)は、この世とあの世を分ける三途の川のほとりにあたる場所。奪衣婆(だつえば)が、亡くなった人の衣服を剥ぎ取り、懸衣翁(けんえおう)が衣領樹(えりょうじゅ)に掛け、その枝のしなり具合で生前の罪の重さが量られる――と、そんな話をお客様にしながら1015段の石段をゆっくりと登っていきます。

左が奪衣婆、右が懸衣翁。 左が奪衣婆、右が懸衣翁。怖い!

「衣服」というのは比喩的な表現で、生前にまとっていた地位や名声、財産などを表します。ここから先は、魂ひとつで進むしかないという意味なのだそうです。
後藤さん:さらに登って仁王門を越えると、十王と閻魔大王が待ち構える。六道輪廻の教えに基づき、生前の行いが死後の行き先を決める。だからこそ「今をどう生きるか」が大切です。仏教ではそのように考えるんですよ、と。一番上の奥之院では、立石寺ご住職から「仏教の考え方が皆さんの心の平穏につながり、山寺を訪れた経験が勇気と希望を与えて、皆さんの未来がよりよいものになりますように」というお言葉をいただいて、ガイドの締めくくりにします。1015段の石段を、物語を聞きながら登ることで、山寺は「見る場所」から「体験する場所」へと変わるのです。

旅行者の出身地は、欧米からアジアまで実に多様。特に欧米からのお客様が、仏教に強い関心を示すそうです。「キリスト教文化との違いが面白いポイントなのでしょう」と後藤さん。相手が何に興味を示すか、山寺や仏教にどの程度の知識があるかなどを確認しながら、型通りではないガイディングを心掛けているということでした。

後藤さん:多くのお客様が、「ガイドと一緒に登り、話を聞けてよかった」と言ってくださいます。一方で、私たちガイドにも発見の喜びがあります。「山の中にこんなに立派なお寺があるのは唯一無二だよ」というように、私たちが当たり前として見過ごしていたことを、山寺の魅力として指摘してくれるんです。ほかのガイドたちも口々に、「素敵なお客様に出会えて、外国語ガイドをしてよかった」と言っています。

根本中堂は国の重要文化財。 根本中堂は国の重要文化財。山寺開山の際に延暦寺から移された「不滅の法灯」が1200年の時を超えて灯り続けます。

姥堂の前で。 姥堂の前で。左は今回の取材旅行をコーディネートしてくださった山形県観光文化スポーツ部の小沼孝太さんです。

ところで、今回の取材テーマは「山寺が支えた紅花文化」でした。外国人旅行者から、山寺と紅花の関係を尋ねられることはあるのでしょうか?

後藤さん:外国人旅行者から紅花についての質問が出ることは稀ですが、聞かれた際には、円仁さんの伝承をお話ししています。中国で修行を積んだ円仁さんが山寺を開いた当時、この地では狩猟を生業とする人々が山を守っていた。円仁はこの地を殺生禁断の地とし、その代りに農耕を教え、紅花栽培を伝えた、という言い伝えもあることを話すと、紅花への興味が深まるお客様もいて、そこから紅花染めや紅花茶などの紹介につなげます。

ちなみに、このとき野生動物たちが「もう殺されなくてすむ」と喜んで踊ったのが、この地に伝わるシシ踊りの起源という見方もあるのだそうです。ここで紹介できたのは、後藤さんたちが持つ知識やスキルのほんの一部にすぎません。語学力や知識のアップデート、話術の研鑽、安全・救急対応の習得など、山寺と紅花の文化を、国や世代を超えて伝えるための努力を重ねている。そんなプロフェッショナルなガイド集団が、Yamaderansの皆さんなのです。

【Yamaderans事務局】
所在地 山形県山形市山寺4491(山寺観光協会内)
アクセス JR仙山線「山寺」駅から徒歩3分
江戸時代の最上紅花ビジネスを作り上げた人々と、それを支えた山寺の存在感。そして、山寺や最上紅花の文化を、国や地域、世代を超えてつないでいくために活動する人々。――歴史に彩られた文化と元気いっぱいの皆さんに出会うために、山形県村山地域を旅してみませんか?
 
【本稿で紹介した構成文化財】 山寺
立石寺中堂
紅餅の製作技術
紅花資料館及び収蔵資料(旧堀米家)
林家舞楽

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