「信長公のおもてなし」が息づく戦国城下町・岐阜STORY #006

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月と岐阜城 月と岐阜城 月と岐阜城
岐阜城からの眺め 岐阜城からの眺め 岐阜城からの眺め
岐阜まつり 岐阜まつり 岐阜まつり
正法寺(岐阜大仏) 正法寺(岐阜大仏) 正法寺(岐阜大仏)
岐阜城パノラマ夜景 岐阜城パノラマ夜景 岐阜城パノラマ夜景
鵜飼開始待ちの様子 鵜飼開始待ちの様子 鵜飼開始待ちの様子

2026.03.03

一般

おもてなしの本質はギャップ萌えとジャイアン効果!?

「信長公のおもてなし」こぼれ話VOL.1
ルイス・フロイス 岐阜来訪

 岐阜市の日本遺産『「信長公のおもてなし」が息づく戦国城下町・岐阜』のストーリー、その面白さは、冷徹非道、戦上手、改革者、破壊者等のイメージで語られる信長公が、以外にも優しくおもてなし上手だったという、ギャップ萌えとジャイアン効果にもあるといえます。
 その意外な一面を伝えた人物として、真っ先に名前が挙がるのがポルトガルの宣教師ルイス・フロイス。フロイスはどのような状況の中で、信長に謁見したのでしょうか?
 
 ルイス・フロイスの略歴を簡単に紹介すると、1532年にポルトガルの首都リスボンで生まれた人で、16歳でイエズス会に入会、その後ポルトガルの拠点でもあったインドのゴアに渡り、1561年には司祭となります。このころの上司からは、「あらゆる文筆の仕事に優秀、判断力優秀、天性語学的才能あり、よき教師たらん」と高い評価を受けています。
 1563年、31歳の時に来日、1565年に京都へ入った後は都を中心に布教を行います。1569年には宣教師として初めて信長の岐阜城を訪問、その3年後にも日本布教長フランシスコ・カブラルと共に岐阜を再訪しています。
 1583年、ローマから日本の布教史を編述するよう命じられ、フロイスは『日本史』(Historia de Iapam)と題する長編記録の執筆に着手、また、1585年には『日欧文化比較』を著しています。ただ、晩年の上司であるヴァリニャーノは「誇張癖があり、小心者で些事にこだわり、中庸を保ちえない」と評し、『日本史』も短く纏め直すよう要望するなど、フロイスを冷たく扱いました。
 フロイスは1597年、享年65歳で長崎の地で亡くなりますが、人生の半分を日本での布教活動と記録執筆に尽力した人といえます。彼が残した記録は、戦国時代の日本を研究するうえでなくてはならない資料として知られています。

国史跡岐阜城跡 国史跡岐阜城跡 山上の城郭と山麓の御殿、山全体が天然の要害として機能した

 話を戻すと、フロイスが1569年に岐阜に訪れた目的は、京都での布教活動について後ろ盾を得ること。法華宗との対立から、畿内を追い出されそうになる情勢下で、信長公に助けを求めて岐阜に赴く決意をします。それまで宣教師は、長崎から京都までのエリアで活動していたので、それより東の場所に赴くのはこれが初めてです。信長との謁見の成否が、今後のイエズス会の活動を左右するという状況の中、相当な覚悟をもって赴いたと推察されますが、到着して信長公にかけられた言葉は、以外にも来訪に対する喜びと労いの言葉でした。
 その後、「余の邸を司祭に見せたいと思うのだが、一方で、司祭がヨーロッパやインドで目にしてきた建物と比べ、余の作品はとるに足らぬものであろうから、躊躇する。とはいえ、はるばる遠くから来たのだから、余が案内して披露しよう」と、信長公自らの案内で山麓の館を見学することになるのです。もちろん、その後には京都での布教活動を認める旨の書状を手にし、目的を果たします。

 かくして、ミッションを達成し、その後岐阜城山上部も見学したフロイスは、その文才をいかんなく発揮して、最大級の賛辞とともにその様子を手紙に記し、布教活動報告としてポルトガル本国に送りました。
 まさか、あの信長様が優しい言葉をかけ、自ら案内してくれるとは!我々は特別目をかけられている!と、そこまでは直接書いていませんが、文章を読んでいると、そんな誇らしい気持ちが伝わってくるようです。
 みんなが恐れるあの信長様にこんな特別な対応をされたら…誰でも信長公のことを持ち上げて書きますよね。普通の人よりもおもてなしの効果は倍増、まさにジャイアン効果といえるかも⁉岐阜城にお越しの際には、信長公に案内されたフロイスの気分で歩いてみてはいかがでしょうか。 

山麓居館の復元イメージCG 山麓居館の復元イメージCG フロイスは、5・6の庭と4層建ての宮殿があったと記している。

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