政宗が育んだ“伊達”な文化STORY #019
ストーリーSTORY
戦国大名として政治・軍事面での活躍は
広く知られるところであるが、
時代を代表する文化人でもあり、
文化的にも上方に負けない気概で、
自らの" 都" 仙台を創りあげようとした。
政宗は、その気概をもって、
古代以来東北の地に根付いてきた
文化の再興・再生を目指す中で、
伊達家で育まれた伝統的な文化を土台に、
上方の桃山文化の影響を受けた豪華絢爛、
政宗の個性ともいうべき意表を突く粋な斬新さ、
さらには海外の文化に触発された国際性、
といった時代の息吹を汲み取りながら、
これまでにない新しい“伊達”な文化を
仙台の地に華開かせていった。
そして、その文化は政宗だけに留まらず、
時代を重ねるにつれ、
後の藩主に、さらには仙台から全国へ、
そして武士から庶民にまで、
さまざまな方面へ広がり、定着し、
熟成を加えていった。
伊達政宗と仙台藩の文化
そして、その文化は政宗だけに留まらず、時代を重ねるにつれ、後の藩主に、さらには仙台から全国へ、そして武士から庶民にまで、さまざまな方面へ広がり、定着し、熟成を加えていった。
左:政宗所用の南蛮装飾の陣羽織/右:政宗所用と伝えられる黒漆の甲冑
政宗による文化の確立
一方で、伝統的な水墨画の世界も同時に取り入れている点に特徴がある。また具足や衣装などにも、斬新な美意識が徹底されている。
さらに南蛮文化の影響も受け、西洋世界への関心の高まりもみられる。政宗の文化的素養は、和歌や連歌、茶の湯、能楽、香といった伝統的な文化にも発揮された。これらは伊達家伝来の学を通して身につけられ、当代一流の文化人との交流の中で、磨かれていった。
左:政宗が松島に建てた瑞巌寺/右:豪華絢爛な桃山建築、大崎八幡宮
政宗の以降の文化の広まり
時代を超えた広がり
政宗の文化に対する姿勢は、二代忠宗、三代綱宗、四代綱村、五代吉村と、次代の藩主たちにも受け継がれ、さらに深化、発展を遂げていった。忠宗の手による東照宮、瑞鳳殿、圓通院霊屋、綱宗による陽徳院霊屋、綱村から吉村の手による鹽竈神社などの建造物には、政宗の志向した豪華絢爛さがうかがえる。
左:内部の厨子が豪華な圓通院霊屋/右:四~五代にわたって建立した鹽竈神社
全国への広がり
左:芭蕉の旅の目的地のひとつ松島/右:歌枕「壺碑」としても名高い多賀城碑
庶民への広がり
仙台藩の御用を務めた御職人たちが担っていた工芸品は、仙台城下の職人に引き継がれ、仙台平や仙台御筆、提焼、仙台張子、仙台箪笥などへと広がっていき、今日でも伝統工芸品として生き続けている。
左:現在にも伝えられる秋保の田植踊/右:江戸時代からの伝統工芸品 仙台張子
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ピックアップコラムCOLUMN
日本遺産に関するエピソードや
トリビアをお届けします。
多賀城碑と日本遺産
「政宗が育んだ“伊達‟な文化」
宮城県多賀城市市川字田屋場の小高い丘陵上にある古碑「多賀城碑」。
日本遺産「政宗が育んだ“伊達‟な文化」に加え、「名勝おくのほそ道の風景地(壷碑(つぼの石ぶみ)・興井・末の松山)」の構成要素にもなっていますが、本来は、天平宝字6年(762)に陸奥国府であった多賀城を、大規模に改修したことを記念し建立されたものです。
この多賀城碑は、那須国造碑や多胡碑とともに、日本三古碑の一つに数えられています。
多賀城が大規模に改修された年に加え、神亀元年(724)に創建されたことが記されています。
奈良・平安時代の陸奥国府であった多賀城には、歌人として知られる大伴家持や、蝦夷との戦いで勇名をはせた坂上田村麻呂が長官として派遣されるなど、古代東北地方の中心として位置付けられていますが、多賀城の創建を示す資料は、唯一この多賀城碑に刻まれているのみです。
多賀城の発掘調査の進展とともに、碑に刻まれた文字の信憑性、重要性が明らかとなり、平成10年に国の重要文化財に指定されました。
さて、この多賀城碑。いつのころからか土中に埋まり、その存在は全く忘れ去られていました。
ところが、江戸時代初め(万治・寛文年間頃)に発見されると、平安時代の歌枕である「壺碑」と関連付けられ、大都市江戸の文人墨客をはじめ、世の注目するところとなりました。
紀行文『おくのほそ道』で有名な松尾芭蕉もその一人であり、自身の俳諧の理念である「不易流行」そのものを体現する古碑と捉え、この多賀城碑と対面した際には「疑なき千歳の記念、今眼前に古人の心を閲す。
行脚の一徳、存命の悦び、羇旅の労をわすれて、泪も落るばかり也。」と感涙したことでも知られています。
しかし、一方では、芭蕉が訪れた元禄2年(1689)、発見されて30年にも満たない頃には、すでに苔むした状態であったことも記されており、さほど貴重な扱いはされていなかったようです。
ところで、テレビドラマでも有名な水戸黄門こと徳川光圀を御存じの方も多いかと思いますが、この光圀、非常に歴史に興味関心が深く、明暦3年(1657)より歴史書である『大日本史』の編纂を始めていました。
日本各地に家臣を送り、『大日本史』の編纂に必要な地域の歴史を調べさせていて、仙台藩には丸山可澄という人を派遣し調査を行っていました。
可澄は当時の市川村で、苔むした状態の多賀城碑をつぶさに観察し、その状況を光圀に知らせます。
光圀は、延宝4年(1676)に草むらから発見された那須国造碑の重要性を認識し、碑堂の建設や管理人を配置する等、早くから歴史遺産の保存顕彰に力を尽くしていました。
このため、「つぼの石ぶみ」として知られる多賀城碑の現状を危惧し、碑堂を設けて保存してはどうかといった内容の書簡を、当時参勤交代で江戸に居た仙台藩4代藩主伊達綱村に送ります。
多賀城碑が現在に至るまで良好な状態で保存されているのは、このような光圀の働きかけが大きかったと言えるでしょう。
再び、多賀城碑。
神亀元年(724)に多賀城が創建されたことを刻んでいますが、まさに令和6年(2024)が記念すべき創建1300年の年となります。
多賀城碑の今日の姿があるのは、政宗から代々受け継がれてきた仙台藩の文化芸術に対する政策が大きかったと考えます。
歌枕の発見・整備と併せて、紀行文『おくのほそ道』で紹介されたことにより、全国的な知名度を得ることとなりました。
多賀城創建1300年となる令和6年。
多賀城市では様々なイベントを開催しますが、1300年の根拠を示す多賀城碑の価値が再び高まることを願っています。