特集SPECIAL CONTENTS
2025.07.09
特集
日本遺産巡り#44◆ノスタルジックで新しい、日本が誇る海峡都市を未来へつなぐ。
本州の最西端・下関市と、九州の最北端・北九州市を隔てる関門海峡。古代以来、多くの人や物資が行き交う交通の要所として重要視され、平安時代には壇ノ浦の戦い、江戸時代には佐々木小次郎と宮本武蔵の決闘など、歴史の舞台となりました。幕末には長州藩と列強4国との武力衝突(下関戦争)を経て、下関港が事実上開港。明治に入り、関門海峡沿いに領事館や税関、海運業・通信業・金融業・商社・食品工場などの拠点が次々と集まり、国際港湾都市として急成長していくこととなります。
現在でも、関門地域には当時の繁栄を象徴する近代建築が並び、レトロな街並みを形成しています。また、都市の発展とともに本州と九州をつなぐ多様な交通手段が生み出され、今もこの地の人々の快適な移動を支え続けています。
関門海峡が大きく発展した背景にはどんな歴史があったのでしょうか。そして、当時の最先端の技術をもって作られた近代建築群や多彩な交通インフラ、海峡都市ならではの独自の文化はどのように守り受け継がれてきたのでしょうか。実際に関門海峡を訪れ、ノスタルジックな街を楽しみながら、その真相を探っていきます。
現在でも、関門地域には当時の繁栄を象徴する近代建築が並び、レトロな街並みを形成しています。また、都市の発展とともに本州と九州をつなぐ多様な交通手段が生み出され、今もこの地の人々の快適な移動を支え続けています。
関門海峡が大きく発展した背景にはどんな歴史があったのでしょうか。そして、当時の最先端の技術をもって作られた近代建築群や多彩な交通インフラ、海峡都市ならではの独自の文化はどのように守り受け継がれてきたのでしょうか。実際に関門海峡を訪れ、ノスタルジックな街を楽しみながら、その真相を探っていきます。
下関のランドマークである領事館建築の保全と活用を考える。
ここ「旧下関英国領事館」は、下関を代表する近代建築のひとつとして知られています。1999年5月に国の重要文化財の指定を受けました。ここでは副館長の徳増さんに、近代建築の特徴や見どころのほか、保全・活用の方法について伺います。
徳増さん:下関には銀行や商社、外国人の私邸だった近代建築がいくつも残っていますが、ここ旧下関英国領事館は、英国領事館として利用するために建てられたという点で特に歴史的価値の高い建物です。現存している英国領事館建築は全国に4箇所(函館・横浜・下関・長崎)ありますが、現存する最古は下関で1901年(明治34年)に開設し、1906年(明治39年)に現在の建物に移転しました。
なぜ英国領事館を設置する場所として、下関が選ばれたのでしょうか。
徳増さん:日本海と瀬戸内海、本州と九州の狭間にある関門海峡は、物流において重視されていた場所です。北前船は関門海峡を通ることで大阪から瀬戸内海を通って日本海側に渡り、国内外においてスムーズに物資を運ぶことができたのです。港湾が整備されて貿易が始まり、海峡地域に活気が生まれるに伴い、駐日英国公使アーネスト・サトウの本国への具申により、下関に領事館が開設されることになりました。下関が選ばれた理由については諸説ありますが、当時、水道事業や通信事業の整備がいち早く進んでいたことが挙げられます。また、下関戦争後、アーネスト・サトウが伊藤博文をはじめ長州藩の人々と交流し親近感を持ったことが手記に残されており、これが選定に影響したという説もあります。
徳増さん:日本海と瀬戸内海、本州と九州の狭間にある関門海峡は、物流において重視されていた場所です。北前船は関門海峡を通ることで大阪から瀬戸内海を通って日本海側に渡り、国内外においてスムーズに物資を運ぶことができたのです。港湾が整備されて貿易が始まり、海峡地域に活気が生まれるに伴い、駐日英国公使アーネスト・サトウの本国への具申により、下関に領事館が開設されることになりました。下関が選ばれた理由については諸説ありますが、当時、水道事業や通信事業の整備がいち早く進んでいたことが挙げられます。また、下関戦争後、アーネスト・サトウが伊藤博文をはじめ長州藩の人々と交流し親近感を持ったことが手記に残されており、これが選定に影響したという説もあります。
徳増さん:設計者は英国工務局上海事務所技師長のウィリアム・コーワンという人物ですが、施工したのは日本の職人であったとみられ、洋館には通常使われない瓦屋根が採用されているなどユニークな特徴を残しています。当館ならではの設計の特徴として、コンパクトな建物ながら高い機能性を備えていることが挙げられます。1階には廊下がなく、玄関を入ってすぐのロビーから、4つの部屋すべてを行き来できるようになっています。日当たりが良い南側の部屋はお客様の待合室と領事の執務室、北側の部屋は文書室と海事監督官の執務室として使われ、2階は海事監督官の住居となっていました。現在は埋め立てられて道ができていますが、当時は領事館の目の前まで海が広がっており、その絶景を楽しめるように、1階・2階の南側にはベランダが設置されています。
デザインの特徴は、イギリスで流行した「クイーン・アン様式」。赤レンガと白い石材を使い、ステップ・ゲーブルと呼ばれる階段状の切妻や、ベランダのアーチなど、赤と白の対比を美しく見せる手法で作られています。
徳増さん:当館のレンガは「イギリス積み」という積み方をしていて、1段ごとに長いレンガの列、短いレンガの列を交互に積んでいます。関門海峡地域で近代建築を見かけた際には、どんなレンガの積み方をしているか、よく観察してみるとおもしろいですよ。
デザインの特徴は、イギリスで流行した「クイーン・アン様式」。赤レンガと白い石材を使い、ステップ・ゲーブルと呼ばれる階段状の切妻や、ベランダのアーチなど、赤と白の対比を美しく見せる手法で作られています。
徳増さん:当館のレンガは「イギリス積み」という積み方をしていて、1段ごとに長いレンガの列、短いレンガの列を交互に積んでいます。関門海峡地域で近代建築を見かけた際には、どんなレンガの積み方をしているか、よく観察してみるとおもしろいですよ。
続いて、館内の部屋を案内していただきます。
徳増さん:当時の近代建築は、外観は西洋風でも内装は純和風につくられていることも多かったのですが、この建物は内装までしっかりとイギリスらしさにこだわっています。窓やドアの形状、備え付けのクローゼット、部屋ごとに設置された暖炉など、どれもイギリスで主流だったものですが、当時の日本人には馴染みのないものばかりです。こうした装飾の一部はイギリス製のものがそのまま使われていると思われます。
徳増さん:当時の近代建築は、外観は西洋風でも内装は純和風につくられていることも多かったのですが、この建物は内装までしっかりとイギリスらしさにこだわっています。窓やドアの形状、備え付けのクローゼット、部屋ごとに設置された暖炉など、どれもイギリスで主流だったものですが、当時の日本人には馴染みのないものばかりです。こうした装飾の一部はイギリス製のものがそのまま使われていると思われます。
徳増さん:本館が建つ唐戸は、第二次世界大戦で空襲を受けたエリアです。多くの木造建築が焼き尽くされてしまいましたが、レンガや鉄筋コンクリートで作られた近代建築は被害が最小限に抑えられました。戦後、日本が復興に向かう中で、これらの残された建築を取り壊してしまうのではなく活用していこうという声が挙がりました。この建物も、戦後に領事館が北九州市に移動し、領事館建物としての役割は終わってしまうのですが、1954年、下関市がイギリスから建物を当時300万円の値段で買い取ります。最初は警察の派出所として、次に考古館(博物館)として、少しずつ改装や補修工事を重ねながら利用されてきました。1980年代からは観光資源として、一般の方に建物を公開。市民ギャラリーや喫茶店などを設置し、多くの方に楽しんでいただけるようになりました。
徳増さん:リニューアルオープンしてから10年、現在では旧下関英国領事館は下関のまちの「顔」のような存在となっています。来館される方の目的はさまざまで、ふらっと立ち寄ってくださる近隣住民の方もいれば、遠方からの観光客や、歴史や建物・家具に興味があって来られる方もいます。撮影会の会場としてご利用いただくこともあり、日常とは異なる雰囲気の中で写真が撮れると好評です。これからも、地域の方、観光客の方に重要文化財を身近に感じてもらい、長く愛してもらえるような建物の活用方法を模索していきたいと考えています。
【重要文化財 旧下関英国領事館】
【重要文化財 旧下関英国領事館】
| 所在地 | 山口県下関市唐戸町4-11 |
|---|---|
| アクセス | JR下関駅より車で10分 |
下関の街の発展を象徴する近代建築群を巡る。
海を隔てて向かい合う下関と門司。その街の発展の仕方はそれぞれ異なっています。ここからは下関市教育委員会 教育部文化財保護課の藤本さんに、下関の街を案内していただきながら、その特徴や魅力について伺います。
藤本さん:下関は、江戸時代から北前船の寄港地として栄える街で、当時は赤間関(あかまがせき)と呼ばれていました。明治時代に入り下関港は、1875年(明治8年)に上海定期航路寄港地の指定を受け、港湾整備が進められます。英国領事館や商社、銀行などが次々と建ち並び、国際港としてさらなる発展を遂げます。一方、対岸の門司は江戸時代までは塩田が広がる土地でしたが、開港を期に国や財閥がこの地に着目して投資を行います。大きな船が停泊できるように港が整備され、都市が碁盤の目のようにつくられるなど、広大な平地を活かして効率的な都市づくりが行われたのが特徴です。
こうした両地域の違いを知った上で、下関の街を一緒に見ていきましょう。
最初に訪れたのは「旧秋田商会ビル」。秋田商会は、創業者・秋田寅之介氏が事業を興し、一代で大きく繁栄した総合商社でした。この建物はその絶頂期であった1915年(大正4年)に建てられた社屋兼住居です。向かいには旧下関英国領事館、隣には下関南部町郵便局、目の前には海が広がる利便性の高い立地です。
こうした両地域の違いを知った上で、下関の街を一緒に見ていきましょう。
最初に訪れたのは「旧秋田商会ビル」。秋田商会は、創業者・秋田寅之介氏が事業を興し、一代で大きく繁栄した総合商社でした。この建物はその絶頂期であった1915年(大正4年)に建てられた社屋兼住居です。向かいには旧下関英国領事館、隣には下関南部町郵便局、目の前には海が広がる利便性の高い立地です。
藤本さん:明治時代の近代建築に用いられた素材は石やレンガですが、次第にコンクリートが使われ始めます。大正初期は、レンガと鉄筋コンクリートを組み合わせた建物が試行錯誤しながらつくられた時期であり、この旧秋田商会ビルはその手法が取り入れられた当時の最新建築でした。
西洋的な外観とは対照的に、建物の2階・3階の住居部分は書院造の和風建築です。建物最上部には、日本でも最古級といわれる客室付きの屋上庭園もあり、秋田寅之介のこだわりや個性が詰まった造りです。
次に、旧秋田商会ビルのすぐ隣にある「下関南部町郵便局庁舎」を訪れました。
藤本さん:急速な社会変化に伴い、郵便・電信・電話といった通信手段は、主要都市において特に重視されて発展しました。下関は明治のはじめには郵便が始まり、関門海峡に電信用海底ケーブルが通されるなど、通信事業がいち早く整備された地域です。下関南部町郵便局庁舎はかつて郵便電信局として使われていた建物で、旧下関英国領事館よりさらに古く、1900年(明治33年)に建てられました。現役の郵便局舎として国内最古の建物なんですよ。
最後に、「旧逓信省下関郵便局電話課庁舎」を訪れました。1924年(大正13年)、電話事業の発展・拡大により、郵便電信局から下関電信局電話課として建てられた庁舎です。
最後に、「旧逓信省下関郵便局電話課庁舎」を訪れました。1924年(大正13年)、電話事業の発展・拡大により、郵便電信局から下関電信局電話課として建てられた庁舎です。
旧逓信省下関郵便局電話課庁舎(下関市立近代先人顕彰館田中絹代ぶんか館)
藤本さん:旧逓信省下関郵便局電話課庁舎は、当時最先端の電話交換方式「共電式」を導入するために新築されました。逓信省の技師による設計で、これまでの装飾的なレンガ造り建築から脱却したすっきりとした外観に、アーチの曲線が映えるデザインです。こうした特徴を持つ逓信建築は大正期に全国に建てられましたが、そのほとんどが現存しておらず、非常に貴重な建物といえます。現在は「下関市立近代先人顕彰館/田中絹代ぶんか館」として、地域にゆかりのある文学者や、下関市生まれの大女優であり映画監督としても活躍した田中絹代氏の功績を紹介しています。
下関に誕生した近代建築群の歴史的背景やそれぞれの建物の魅力、そしてその保全と活用の工夫について知ることができました。皆さんも下関の建築と文化をさまざまな角度から見て、じっくりと楽しんでみてはいかがでしょうか。
【旧秋田商会ビル】
下関に誕生した近代建築群の歴史的背景やそれぞれの建物の魅力、そしてその保全と活用の工夫について知ることができました。皆さんも下関の建築と文化をさまざまな角度から見て、じっくりと楽しんでみてはいかがでしょうか。
【旧秋田商会ビル】
| 所在地 | 山口県下関市南部町23-11 |
|---|---|
| アクセス | JR下関駅からバス7分「唐戸」バス停から徒歩1分 |
【下関南部町郵便局】
| 所在地 | 山口県下関市南部町22-8 |
|---|---|
| アクセス | JR下関駅からバス7分「唐戸」バス停から徒歩1分 |
【旧逓信省下関郵便局電話課庁舎(下関市立近代先人顕彰館田中絹代ぶんか館)】
| 所在地 | 山口県下関市田中町5-7 |
|---|---|
| アクセス | JR下関駅からバス7分「唐戸」バス停から徒歩5分 |
本州と九州をつなぐ多彩な交通手段。
人々が速く安全に海を渡るための工夫とは。
関門海峡を特徴づけているのが、両岸を行き来するための多種多様な交通手段です。私たちが海峡を自由に渡れるようになった歴史的背景と、今日に至るまで安全で便利な交通を維持し続けるための工夫について探っていきます。
藤本さん:明治時代、下関港が上海定期航路寄港地になり、下関港・門司港が特別輸出港に指定されると、海峡地域における輸送の効率化が大きな課題となりました。この時期の関門海峡に必要だったのは、高速道路のように、人やモノを国内外に速く大量に運ぶ航路をつくることでした。海底は自然のままでは凹凸が多く、大きな船は座礁してしまう危険性があります。そこで、船が安全に通れるよう、海底をより深く、きれいに整える浚渫(しゅんせつ)という作業を行います。作業によって採れた土砂で岸を埋め立て、港湾の整備に活用されました。
藤本さん:明治時代、下関港が上海定期航路寄港地になり、下関港・門司港が特別輸出港に指定されると、海峡地域における輸送の効率化が大きな課題となりました。この時期の関門海峡に必要だったのは、高速道路のように、人やモノを国内外に速く大量に運ぶ航路をつくることでした。海底は自然のままでは凹凸が多く、大きな船は座礁してしまう危険性があります。そこで、船が安全に通れるよう、海底をより深く、きれいに整える浚渫(しゅんせつ)という作業を行います。作業によって採れた土砂で岸を埋め立て、港湾の整備に活用されました。
現在にいたるまで関門航路では絶えず浚渫が行われ、安全な船の運航が保たれています。
藤本さん:こうして海上交通が活発化していく中で、次に課題となったのは本州-九州の鉄道輸送でした。当初、荷物を対岸に効率よく運ぶための工夫として使われたのが「貨車航送船」。これは、一度列車から切り離した貨車をそのまま船に積んで対岸まで運び、再び列車に連結する方法です。しかし次第に、このやり方では物流の増加のスピードに追いつかなくなっていきます。そこで、より効率的な輸送方法として挙がったのが本州-九州を線路で直接つなぐ、世界初の海底鉄道トンネルの建設でした。1942年に関門鉄道トンネルの下り線が、1944年に上り線が開通し、海峡が陸路で結ばれました。その後も、関門トンネル車道・人道の開通、さらに高速道路である関門橋の架橋など、多彩な交通手段が次々と生まれ、現在までこの地域の便利で安全な移動を支え続けています。これらの関門海峡の交通は「海峡七路」(船、鉄道上下二線、車道、歩道、橋(高速道路)、新幹線)と称されています。
海峡七路のうち、車道・歩道の両方の役割を持つのが「関門トンネル」。上部が国道2号、下部が歩道の2層に分かれた海底トンネルです。下関側の人道入り口に併設されている「関門プラザ」には、トンネルや関門橋の建設に関する資料が展示されており自由に見学できます。
川西さん:トンネル建設に向けた調査は戦前の1937年(昭和12年)頃に始まりました。1939年(昭和14年)、パイロットトンネルと呼ばれる、幅2m、高さ2m、全長1,008mの地質調査用のトンネルが完成し、同年から本トンネルの工事に着工します。まずはパイロットトンネルから5本の連絡抗をつくり、それぞれの連絡抗から左右に本トンネルを掘削しました。途中、太平洋戦争の激化や資材不足により一時工事を中断していましたが、戦後に市民の署名活動を経て工事が再開され、官民一体となり建設が進められました。
川西さん:門司側の抗口付近は地盤が固く、湧き水も少なかったため順調に掘削が進みました。一方で下関側の抗口付近の地盤は軟らかく、通常の方法で掘り進めるのは困難でした。そこで、わが国初の「ルーフ・シールド工法」を導入。これは、鉄板の屋根を押し進めながらトンネルを掘り、コンクリートを撒いて固めていく方法です。土砂崩れや漏水、水圧による崩壊を防ぐため、海底部はコンクリートを2回撒いて厚く固めていきました。また、トンネルで欠かせないのは換気設備です。欧米諸国の技術も参考に、一酸化炭素濃度を検出して換気をするプロペラファンなど、当時最先端の換気システムが生み出されました。トンネルの4箇所に、立坑と呼ばれる換気のための空気の通り道があり、地上から新鮮な空気を取り入れ、トンネル内に溜まった排気ガスなどを外に送り出せるようになっています。
川西さん:関門トンネル人道は、海底を歩いて県境を越えられる唯一無二のトンネルとして、関門海峡の美しい風景と合わせて多くの観光客の方が訪れています。また、地元の方々にとっては、散歩やランニングコースとして日常的に利用できる、身近で便利な道です。15分程度で対岸まで渡れるので、ぜひ一度利用してみてくださいね。
トンネルから出て、外を少し歩くいたところで「さて。トンネル内に溜まった排気ガスなどを換気する立坑の他に、トンネル湧水を排出するための水抜立坑をご案内しますね。」と言いながら、ドアを開けて中に入っていく川西さん。
川西さん:ここは水抜き立坑の入り口です。海底トンネルは時間の経過とともに海水や雨水などが染み出して溜まってくるため、日常的に外に排出しなければなりません。関門トンネルの場合、本体の掘削前に掘られた地質調査用のパイロットトンネルが水抜き立坑の排水トンネルとして現在も活用されています。1日に排出する湧水の量は約4,800トン。この排水がなければ、人道が2時間で水浸しになってしまいますので、とても重要な設備なんです。
今回は特別に、水抜き立坑の内部を見学させて頂きました。
トンネルから出て、外を少し歩くいたところで「さて。トンネル内に溜まった排気ガスなどを換気する立坑の他に、トンネル湧水を排出するための水抜立坑をご案内しますね。」と言いながら、ドアを開けて中に入っていく川西さん。
川西さん:ここは水抜き立坑の入り口です。海底トンネルは時間の経過とともに海水や雨水などが染み出して溜まってくるため、日常的に外に排出しなければなりません。関門トンネルの場合、本体の掘削前に掘られた地質調査用のパイロットトンネルが水抜き立坑の排水トンネルとして現在も活用されています。1日に排出する湧水の量は約4,800トン。この排水がなければ、人道が2時間で水浸しになってしまいますので、とても重要な設備なんです。
今回は特別に、水抜き立坑の内部を見学させて頂きました。
排水ポンプが下関・門司それぞれの立坑に3台ずつ設置されています。1台が常時運転し、残りの2台は予備機です。これらのポンプを使って、水槽に溜まった水を地上にくみ上げています。
川西さん:地下からくみ上げられた湧水は、この蛇口から誰でも自由に利用できるようになっています。魚のいけすや旅館のお風呂など、近隣の方々に様々な方法で活用いただいています。
ここまで案内して頂いた川西さんに、最後に関門トンネルの魅力を伺いました。
川西さん:関門トンネルは、本州・九州をつなぐ道路です。大阪方面から来て鹿児島まで車で行ける道が、高速ではなく一般道として古くから存在しているというのは、とても貴重なことだと感じます。地元の方にも、遠方から来られる方にも、いつでも不安なく安全に道路を利用して頂けることが我々の使命であり、見える部分だけでなくその裏側まで、今後もしっかりと管理していきたいと考えています。
明治時代から現在まで、幅広い技術が用いられながら関門海峡の交通は発達し、この地の人々の安全で便利な移動を支え続けてきたことがわかりました。皆さんも、船・鉄道・車・徒歩などさまざまな移動手段を使って関門地域をより深く体感してみてください。
【関門トンネル人道入口(下関側)・関門プラザ】
川西さん:関門トンネルは、本州・九州をつなぐ道路です。大阪方面から来て鹿児島まで車で行ける道が、高速ではなく一般道として古くから存在しているというのは、とても貴重なことだと感じます。地元の方にも、遠方から来られる方にも、いつでも不安なく安全に道路を利用して頂けることが我々の使命であり、見える部分だけでなくその裏側まで、今後もしっかりと管理していきたいと考えています。
明治時代から現在まで、幅広い技術が用いられながら関門海峡の交通は発達し、この地の人々の安全で便利な移動を支え続けてきたことがわかりました。皆さんも、船・鉄道・車・徒歩などさまざまな移動手段を使って関門地域をより深く体感してみてください。
【関門トンネル人道入口(下関側)・関門プラザ】
| 所在地 | 山口県下関市みもすそ川町22-34 |
|---|---|
| アクセス | JR下関駅からバス12分「御裳川(みもすそがわ)」下車すぐ |
急速に近代化した都市の建築群をめぐり
当時のにぎわいを想像する。
江戸時代までは塩田が広がる小さな村だった門司。明治に入ると、関門海峡の国際貿易における重要性が高まり、門司港の開発が進められました。1889年(明治22年)、門司港は石炭・米・麦・麦粉・硫黄の5品目の特別輸出港に指定されます。筑豊炭田という石炭の一大供給地、そして若松という石炭中継地の発展により、門司港は石炭の輸出港として大きく勢いづいていきます。
国際都市として急成長を果たした当時の街並みが、門司には色濃く残っています。ここからは北九州市都市ブランド創造局文化企画課の立野さんと峰さんに、門司の街を案内して頂きます。
国際都市として急成長を果たした当時の街並みが、門司には色濃く残っています。ここからは北九州市都市ブランド創造局文化企画課の立野さんと峰さんに、門司の街を案内して頂きます。
門司が特別輸出港に指定されたことを受け、最初に設置されたのが、輸出入貨物の監督や税金の徴収などを行う税関です。1889年(明治22年)、長崎税関の出張所として始まり、1909年(明治42年)、日本で7番目の税関である門司税関としてこの地に独立しました。これを起点に、門司の街は国際貿易港を有する九州屈指の大都会へと発展していきました。
立野さん:門司地区では、時代の流れとともに変遷してきたさまざまな近代建築を一度に見ることができますが、この旧門司税関は、門司港が貿易港として発展を遂げ始める明治時代に建てられた赤レンガ造りの建物です。
立野さん:港側にある高い棟屋で出船・入船を監視したり、倉庫で物品の検査を行ったりしていました。しかし昭和に入り、大型船が頻繁に港を行き来するようになると、より水深が深く停泊しやすい西海岸側に税関を移すことになり、庁舎としての役割を終えました。
峰さん:その後、民間に売却されて倉庫として使用されていた時期に建物の壁や床が取り払われて、吹き抜けの広い空間ができました。平成に入ると再び市が建物を買い取り、改修や耐震補強などを実施。現在は市民の方々のための多目的ホールとして公開されています。
次に「旧大連航路上屋」を訪れました。
次に「旧大連航路上屋」を訪れました。
旧大連航路上屋は中国の大連をはじめ、世界と船で結ばれた国際ターミナルであった建物です。門司税関の西海岸側の移転に伴い、1929年(昭和4年)に完成した巨大な建物です。1階は貨物を保管する倉庫として、2階は主に旅客の待合室や検査場として利用されていました。現在は歴史資料が展示されているほか、イベントスペースとしても活用されています。
次に訪れたのは、かつて九州の玄関口として人々を迎えた「門司港駅」です。
次に訪れたのは、かつて九州の玄関口として人々を迎えた「門司港駅」です。
門司港駅は1891年(明治24年)に「門司駅」として誕生しました。その10年後に関門連絡船が通航開始すると、船から鉄道への乗り換えがしやすいように現在の場所に移転することになり、1914年(大正3年)に新たな駅舎が完成します。さらに1942年(昭和17年)、本州-九州を結ぶ関門鉄道トンネルが開通したことに伴い、門司港駅と改称しました。
1988年(昭和63年)には、駅舎が重要文化財に指定されます。2012年からは保存修理事業がスタートし、2019年(平成31年)にリニューアルオープン。耐震補強を行いながら、創建時の図面をもとに当時の姿を再現しています。木造でありながら外壁にモルタルを塗り石造り風に仕上げた、大正初期ならではの建物を楽しめます。
1988年(昭和63年)には、駅舎が重要文化財に指定されます。2012年からは保存修理事業がスタートし、2019年(平成31年)にリニューアルオープン。耐震補強を行いながら、創建時の図面をもとに当時の姿を再現しています。木造でありながら外壁にモルタルを塗り石造り風に仕上げた、大正初期ならではの建物を楽しめます。
立野さん:関門鉄道トンネルによって線路が海底でつながるまでは、人々が九州から本州へと渡るときには、鉄道を使ってこの駅舎まで来て、関門連絡船の乗り場に直結する通路を通って船に乗り換えていました。当時はこれが海峡を越える唯一のルートであったため、駅は多くの人でにぎわっていました。
立野さん:当時の駅舎の待合室は、乗る車両の種類によって一等から三等までの等級に分けられていて、部屋ごとに木材の種類や装飾に違いがあります。現在、旧三等待合室はカフェとして、旧一・二等待合室は窓口や観光案内所として利用されています。駅を訪れた際は、それぞれの部屋のしつらえの違いに着目してみてください。さらに、2階に上がると、皇族など特別な賓客を迎えるための貴賓室や、その従者用の次室、食堂など、特徴的な部屋の数々をご見学頂けますよ。
身分の高い方々を迎えるために使われていた旧貴賓室。当時の最上級のインテリアが再現されています。
駅舎内で最も広いこの部屋は、駅の開業当初、みかど食堂という高級レストランがありました。現在はこの場所の雰囲気を活かして、ランチやパーティー会場として利用されています。また、当時のみかど食堂の様子がわかる資料が1階に展示されています。
続いて、「北九州市旧大阪商船」にやってきました。
最後に訪れたのは「旧門司三井倶楽部」。
1921年(大正10年)に三井物産門司支店の社交倶楽部として建てられた、大正期の門司を代表する木造建物です。1990年(平成2年)に国の重要文化財に指定されたことを機に、門司港駅の向かい側に建物を移築。駅前エリアが一体となり大正建築の魅力を伝えています。
峰さん:元々は山手に建てられた迎賓館であったことから、都市中心部の建物とは趣が異なる山小屋風のデザインが特徴です。入り口の扉上部にはめ込まれたステンドグラスには、海の貿易により富を得た三井物産を象徴するような帆船のイラストが描かれています。
峰さん:元々は山手に建てられた迎賓館であったことから、都市中心部の建物とは趣が異なる山小屋風のデザインが特徴です。入り口の扉上部にはめ込まれたステンドグラスには、海の貿易により富を得た三井物産を象徴するような帆船のイラストが描かれています。
建築様式が激動した明治から昭和初期。それぞれの時代において流行の最先端であった意匠や技術を一度に楽しめるのが門司の魅力です。ぜひ、皆さんのお気に入りの建築を見つけてください。
【旧門司税関】
【旧門司税関】
| 所在地 | 北九州市門司区東港町1番24号 |
|---|---|
| アクセス | JR門司港駅より徒歩約11分 |
【旧大連航路上屋】
| 所在地 | 北九州市門司区西海岸1-3-5 |
|---|---|
| アクセス | JR門司港駅から徒歩約5分 |
【門司港駅(旧門司駅)本屋】
| 所在地 | 北九州市門司区西海岸1-5-31 |
|---|---|
| アクセス | 鹿児島本線「門司港駅」下車 |
【北九州市旧大阪商船】
| 所在地 | 北九州市門司区港町7-18 |
|---|---|
| アクセス | JR門司港駅から徒歩約2分 |
【旧門司三井倶楽部 本館、附属屋】
| 所在地 | 北九州市門司区港町7-1 |
|---|---|
| アクセス | JR門司港駅から徒歩約1分 |
石炭の積出港として海峡の発展を支えたまちの面影をみる。
関門地域の発展に大きく関わったのが、船や鉄道の燃料を産業エネルギーとして生み出す石炭産業でした。筑豊炭田の石炭の積出港として栄えたのが若松地域であり、現在も若松の街には当時の面影を残す洋風建築が残されています。
この地域の歴史を知るために、旧古河鉱業若松ビルの若宮館長にお話を伺います。
この地域の歴史を知るために、旧古河鉱業若松ビルの若宮館長にお話を伺います。
若宮さん:若松は、江川という細い川が陸を真横に分断するように流れ、地域全体が一つの島のようになっています。かつてはこの川が、若松の発展において重要な役割を果たしていました。江川は洞海湾や遠賀川とつながっていて、物資を運ぶのに重要とされていたのです。若松区の東には若松港が、西にある芦屋町には芦屋港があり、かつて石炭の積出港として栄えていました。
若宮さん:石炭が福岡で発見されたのは室町時代のことで、当時まだ燃料は薪でした。しかし福岡藩成立後の江戸時代、この地での薪不足が問題となり、石炭の活用方法が本格的に研究されました。石炭の需要が高まったのは1760~70年頃、瀬戸内沿岸などで塩づくりが盛んになったことがきっかけでした。塩を採るためには大量の燃料が必要であり、石炭がこのニーズを満たしたのです。そこで福岡藩は「仕組法」という、石炭の採掘や運搬、販売を藩で管理する体制をとるようになりました。
若宮さん:明治時代になると、日本坑法が公布され、石炭事業は藩による管理ではなく、自由採掘・販売ができるようになります。日本経済の発展に伴い鉄道の建設が進み、石炭生産の効率化が求められる中、1881年(明治14年)杉山徳三郎が、蒸気動力により排水する方法を実用化。これが筑豊炭田での機械化の始まりでした。多くの資本家が筑豊地方に進出し、技術の革新が進みます。
若宮さん:1891年(明治24年)、若松と直方間に筑豊興業鉄道が開通しました。以降、鉄道が徐々に筑豊全体へと延伸し、炭田から採掘された石炭は若松港へと集められるようになり、石炭の積み出し港として街が繁栄します。洞海湾沿岸には石炭関連会社や海運会社、商社、銀行などが軒を連ね、近代的なオフィス街が形成されました。ここ、旧古河鉱業若松ビルもその1つで、明治中期から筑豊や若松、門司に進出した古河鉱業(株)の事業所として、1919年(大正8年)に建てられました。
若松の歴史を語る建築群を守り続けるために。
若宮さん:石炭生産は1940年(昭和15年)にピークを迎えますが、その後、石油へのエネルギー転換期を経て、終息しました。そして、若松の街には、明治・大正期の建物が当時の状態でここに残り続けています。
大変貴重な建物が数々ありますが、うまく活用されない限り、いつかはなくなる恐れもあります。本館は現在は市が所有し、地域の方々のための多目的ホールや会議室として開放していますが、その他は民間の建物であり、維持管理には苦労されているところもあるかと思います。若松を訪れてくださる方には、この地の歴史とともに歩んできた建物の一つひとつに着目して、それぞれの個性を楽しみながら活用方法を考えて頂き、ぜひ、若松の未来を一緒に創っていただきたいと願っています。
<若松地域の建物群>
大変貴重な建物が数々ありますが、うまく活用されない限り、いつかはなくなる恐れもあります。本館は現在は市が所有し、地域の方々のための多目的ホールや会議室として開放していますが、その他は民間の建物であり、維持管理には苦労されているところもあるかと思います。若松を訪れてくださる方には、この地の歴史とともに歩んできた建物の一つひとつに着目して、それぞれの個性を楽しみながら活用方法を考えて頂き、ぜひ、若松の未来を一緒に創っていただきたいと願っています。
<若松地域の建物群>
【旧古河鉱業若松ビル】
| 所在地 | 北九州市若松区本町1丁目11-18 |
|---|---|
| アクセス | JR若松駅より徒歩約5分、若戸渡船若松渡場より徒歩約2分、北九州都市高速道路若戸トンネル直結出口より車で約5分、北九州都市高速道路戸畑ランプより若戸大橋経由にて車で約15分 |
大切に受け継がれてきた関門海峡の文化を五感で楽しもう。
関門海峡ミュージアムは、門司港や海峡地域の歴史・文化・自然を、五感を通じて体験できるユニークな博物館です。ここでは、門司港の発展の歴史や、現代でも楽しむことのできる文化、関門地域のこれからについて、学芸員の大道さんにお話を伺います。
大道さん:アジア大陸までの距離の近さ、背後にある筑豊炭田、港湾整備に適した地形など、さまざまな条件が重なり合い、門司港は国際貿易都市として著しく発展しました。当館では、2階から4階までを貫く巨大スクリーンに、門司港および関門海峡の歴史や水景をテーマとした映像を放映しています。
横浜、神戸、長崎などに続く大きな港町としてモダンな街並みが形成された門司。「海峡レトロ通り」は、大正時代にあった主要な建物の数々を再現した巨大な展示施設です。華やかな街並みを歩くと、当時にタイムスリップしたような気分になれます。
大道さん:当時の門司駅(現在の門司港駅)周辺は、銀行や商社の西洋建築、カフェや映画館、劇場などがひしめき合う、流行の最先端であった都市です。明治中頃には人口約3,000人だった街が、大正初期には約7万人にまで増えていたというのですから、その発展の速度は私たちの想像を超えるものであったと思います。
大道さん:門司に残る当時の文化でよく知られるのが「バナナの叩き売り」です。明治40年代、当時の台湾は日本の領土であり、門司港と地理的に近いことから、バナナが大量に荷揚げされ、市場が設けられました。熟しやすく傷みやすいバナナはできるだけ早く売りさばく必要があり、次第に露天商によって、ユニークな口上とともに売られるようになります。これがバナナの叩き売りのはじまりです。不思議なことに、このような文化が広まったのは門司港や対岸の下関港周辺だけでした。明治に入り急速に栄えた門司の街では、目新しさとスピード感のある商売方法が人々の興味を引いたのかもしれませんね。街での叩き売りは昭和初期ごろまで続きましたが、戦中に輸入が途絶えたことで一旦途絶えます。現在はこの伝統文化を未来へ受け継ごうとする地域のボランティアの方々により、好天の週末には門司港レトロ観光物産館周辺でバナナの叩き売りが行われています。売り手と買い手の掛け合いがとても楽しいので、ぜひ参加してみてください。
最後に、大道さんに関門海峡の魅力と、この地域に期待する未来についてお伺いしました。
大道さん:関門海峡は、1日に4回も潮の流れが変わり、多いときには1日に約1,000艘の船が通る場所だというのをご存じでしょうか。そのためいつ海を眺めても、違った景色を楽しむことができるのが魅力です。トンネルや橋などが生まれたことで、私たちの移動はもっと自由になりましたが、海峡の美しさはいつの時代も同じです。関門海峡を訪れた際にはぜひ、この風景を心ゆくまで楽しんで頂きたいと思います。
そして、海峡に沿って立ち並ぶ近代建築群とその背景にある歴史や文化を、今後さらに多くの方に深く知って頂くことができるよう、北九州市沿岸地域と下関市沿岸地域が切磋琢磨し、一体となってこの地域を盛り上げていくことができればと願っています。
【関門海峡ミュージアム】
最後に、大道さんに関門海峡の魅力と、この地域に期待する未来についてお伺いしました。
大道さん:関門海峡は、1日に4回も潮の流れが変わり、多いときには1日に約1,000艘の船が通る場所だというのをご存じでしょうか。そのためいつ海を眺めても、違った景色を楽しむことができるのが魅力です。トンネルや橋などが生まれたことで、私たちの移動はもっと自由になりましたが、海峡の美しさはいつの時代も同じです。関門海峡を訪れた際にはぜひ、この風景を心ゆくまで楽しんで頂きたいと思います。
そして、海峡に沿って立ち並ぶ近代建築群とその背景にある歴史や文化を、今後さらに多くの方に深く知って頂くことができるよう、北九州市沿岸地域と下関市沿岸地域が切磋琢磨し、一体となってこの地域を盛り上げていくことができればと願っています。
【関門海峡ミュージアム】
| 所在地 | 北九州市門司区西海岸1-3-3 |
|---|---|
| アクセス | JR門司港駅より徒歩9分 |
関門海峡のノスタルジックな街並みと交通は、激動する時代の流れと共に生まれ、高度な技術によって維持され、それらを愛する人々の強い想いにより未来に受け継がれようとしています。皆さんも、一言では語りきれない魅力が詰まった関門地域を訪れて、さまざまな角度から近代化の記憶を辿ってみませんか。
| 【本稿で紹介した構成文化財】 | 旧下関英国領事館 旧秋田商会ビル 下関南部町郵便局庁舎(旧赤間関郵便電信局) 旧逓信省下関郵便局電話課庁舎(下関市立近代先人顕彰館田中絹代ぶんか館) 旧門司税関 旧大連航路上屋 北九州市旧大阪商船 門司港駅(旧門司駅)本屋 旧門司三井倶楽部 本館、附属屋 旧古河鉱業若松ビル |
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