鎮守府 横須賀・呉・佐世保・舞鶴~日本近代化の躍動を体感できるまち~STORY #035

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海上自衛隊呉地方総監部第一庁舎
(旧呉鎮守府庁舎)
鎮守府 横須賀・呉・佐世保・舞鶴 鎮守府 横須賀・呉・佐世保・舞鶴
海上自衛隊横須賀地方総監部田戸台分庁舎
(旧横須賀鎮守府司令庁長官官舎)
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東郷邸(舞鶴市) 鎮守府 横須賀・呉・佐世保・舞鶴 鎮守府 横須賀・呉・佐世保・舞鶴

ストーリーSTORY

明治期の日本は、
近代国家として西欧列強に渡り合うための
海防力を備えることが急務であった。
このため、国家プロジェクトにより
天然の良港を四つ選び軍港を築いた。
静かな農漁村に人と先端技術を集積し、
海軍諸機関と共に水道、鉄道などの
インフラが急速に整備され、
日本の近代化を推し進めた
四つの軍港都市が誕生した。
百年を超えた今もなお
現役で稼働する施設も多く、
躍動した往時の姿を残す旧軍港四市は、
どこか懐かしくも逞しく、
今も訪れる人々を惹きつけてやまない。

四市の地勢と軍港の設置

富国強兵、これは明治新政府が近代国家を建設するために掲げたスローガンの一つで、その強兵の一翼を担ったのが海軍です。明治政府は西欧列強と対等に渡り合うために、艦艇の配備を進めるとともに、明治17年(1884年)、横須賀に鎮守府を置いた後、同22年に呉と佐世保、同34年に舞鶴で鎮守府を開庁し、島国日本の周辺海域を分割して管轄する海の防衛体制を確立しました。

この鎮守府とは軍港に置かれた海軍の本拠地であり、各海軍区を防備し、海軍工廠こうしょう(艦艇の建造・修理、兵器の製造)や海軍病院、軍港水道等、多くの施設の運営・監督を行いました。また、艦艇部隊の統率には鎮守府司令長官があたりました。

四つの軍港は、急峻な山に囲まれ、外敵の侵入を拒む湾口、艦艇の航行・停泊が自在にできる湾内、水深の深い穏やかな入江など、厳しい地勢条件を満たして選定されました。軍港の建設から100年以上が経過し、艦艇こそ現代のものに変わりましたが、港のドックや埠頭、林立するクレーン、その界隈に建ち並ぶれんが倉庫、港に集まる鉄道・水道・通信施設、港から広がるまち並み、港を守る丘の上の要塞跡など、軍港を中心とする特有の景観は今ではすっかりそれぞれのまちの顔になっています。

日本の近代技術を結集し、その技術を育んだ軍港

海軍には常に最先端の工業技術や設備が投入されましたが、それを吸収し広く伝え、次の世代へと受け継ぐ力も必要でした。こうした技術力を推進する姿勢は、横須賀海軍工廠の前身となる横須賀製鉄所にそのルーツが見られます。フランスの技術指導により西欧から最新の造船機器を導入し、鉄製部品から建築用れんがに至るまで必要なものは全て同製鉄所で生産する体制を短期間に整えました。それとともに、技術教育学校「黌舎(こうしゃ)」を開校し、日本人の技術力の向上を図りました。
この技術力の向上を現在に伝えるものに横須賀製鉄所・同造船所のドックがあります。1号ドック(日本最古の石造ドック)はフランス人による建設ですが、3号(現2号)ドックは黌舎で学んだ技術者が日本人として初めて建設しました。横須賀で培われた技術は呉へ、呉から佐世保・舞鶴へ、さらには民間企業へと移転を繰り返す中で飛躍的な発展を遂げ、呉における職工教習所、技手(ぎて)養成所などの人材育成の充実にもつながっていきます。海軍から生まれた近代造船技術は、横須賀での軍艦清輝(897t)建造に始まり、わずか60年余りの間に呉における世界最大の戦艦大和(65,000t)の建造に至り、その集大成を迎えます。
また、今でこそ鉄筋コンクリート造は一般的な建築工法ですが、明治後期にはれんが造に代わる最新の技術として迎えられました。建築物としては佐世保海軍工廠賄所(まかないじょ)・汽罐室(きかんしつ)が始まりですが、明治41年に完成した横須賀の走水(はしりみず)水源地浄水池が、現存最古級の建築としてその初期の技術を伝えます。さらに、大正11年に完成した佐世保の針尾送信所(高さ136mの塔3基)は、他に類を見ない日本最大の通信塔として、その技術の到達点と言えます。

左:横須賀:スチームハンマー3トン門型/右:旧佐世保無線電信所(針尾送信所)施設 左:横須賀:スチームハンマー3トン門型/右:旧佐世保無線電信所(針尾送信所)施設

軍港都市の形成とその特徴

四市はもともと半農半漁の静かな寒村でした。ここに国の関与のもと、最新の技術と巨額の予算が短期間に集中的に投入され、急速かつ計画的に軍港都市づくりが進められました。この点に軍港都市の形成上の大きな特徴と独自性があります。

中でも、四市の水道が軍港水道として発達し、その後市民に供給された歴史が特筆されます。横須賀では走水と半原はんばらの2系統の水道があり、後者は神奈川県北部の相模川支流から高低差70mを利用して53kmを自然流下させる無類の通水システムで、10年の歳月をかけ大正10年に完成しました。

呉市本庄水源地堰堤水道施設 呉市本庄水源地堰堤水道施設

また、呉では、鎮守府開庁の翌年には全国で3番目の早さで近代的な水道施設を開設し、大正7年には長さ97m、高さ25mの当時東洋一の規模を誇った本庄水源地堰堤水道施設が完成しました。重厚で壮大な規模の水道施設の建設は、艦艇への給水や工業用水として、どれほど水は重要であったかを証明しており、軍港への水の安定供給が実現したことで市民生活へも潤いを与えることになりました。
また、陸上交通の整備にも特徴があります。四市は海路の利便性とは裏腹に陸路には難があったため、鎮守府開庁に伴い幾多のトンネルや鉄橋を建設して鉄道を敷設しました。これにより人と物資の輸送を促してまちの発展を加速させました。全国からの急激な人口流入も四市共通の現象で、鎮守府に通じる幹線道路を中心に、機能的で発展性のある碁盤目状の市街地を形成しました。その結果、佐世保では鎮守府開庁前3千8百人程の人口が、約20年で13倍の5万人を超えるほどの人口増加に対応できました。
このように水道・鉄道・市街地等の都市基盤の整備は、市民の生活を支え、軍港都市をつくっていきました。明治12年から同38年まで刊行された横須賀明細弌覧図いちらんずなどの絵図は、軍港の発展と共にまちが広がっていく様子をいきいきと描いています。また、舞鶴では、碁盤目状の市街地の街路に、当時活躍した八島、敷島、三笠など大小33の艦艇名を名付けました。明治35年の命名以来、軍港都市としての自信と誇りが伺えます。

舞鶴赤れんがパーク 舞鶴赤れんがパーク

軍港がまちにもたらしたものは、先端技術や都市基盤の整備ばかりでなく海軍由来の食文化もあります。明治41年に舞鶴海兵団が発行した『海軍割烹術参考書』には100種類以上もの洋食の詳細なレシピが掲載されています。カレーや肉じゃがなどは、海軍が脚気予防として採用した洋食を日本人の口に馴染むように改良したものでした。
近代日本の海防の要として共に歩んだ横須賀・呉・佐世保・舞鶴の四市。西欧の先端技術を導入し、その技術を伝え、さらに新たな技術を創り出し、技術力を高め合うことで日本の近代化を推し進めました。軍港建設により一躍、近代都市へと変貌を遂げた証となる石・れんが・鉄・コンクリートの数多くの軍港関連遺産の中には、現在でも稼働する施設が多くあり、当時の技術水準の高さを伺い知ることができます。

軍港そして鎮守府が置かれたまちの歴史を共有し、その歴史を体感できるのは日本の中でこの4か所だけです。どこか懐かしくも逞しい往時の姿を残しつつ、日本の近代化に向けて躍動した軍港都市は、訪れる人々を惹きつけてやまないでしょう。
【鎮守府 横須賀・呉・佐世保・舞鶴 関連情報サイト】

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