忍びの里 伊賀・甲賀─リアル忍者を求めて─STORY #042
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2024.03.13
一般
戦いに敗れた伊賀を復興させた修験者 小天狗清蔵
伊賀のほぼ中央に位置する「勝因寺(しょういんじ)」には、「本願小天狗」と記された梵鐘があります。
その鐘の音は四方を山に囲まれた伊賀の地に今も鳴り響きます。
今回はこの梵鐘にまつわる、ずっと語り伝えていきたい伊賀の英雄のお話です。
戦国時代、織田信長が大軍を率いて伊賀を壊滅させた「天正の伊賀攻め」。
信長との激しい攻防戦のすえ、家だけでなく寺や神社が焼き払われ、田畑が荒らされ、多くの人が亡くなったと伝わる、伊賀にとってとても悲しい出来事です。
この悲劇の中、突如現れたのは修験者の「小天狗清蔵(こてんぐせいぞう)」という人物です
その鐘の音は四方を山に囲まれた伊賀の地に今も鳴り響きます。
今回はこの梵鐘にまつわる、ずっと語り伝えていきたい伊賀の英雄のお話です。
戦国時代、織田信長が大軍を率いて伊賀を壊滅させた「天正の伊賀攻め」。
信長との激しい攻防戦のすえ、家だけでなく寺や神社が焼き払われ、田畑が荒らされ、多くの人が亡くなったと伝わる、伊賀にとってとても悲しい出来事です。
この悲劇の中、突如現れたのは修験者の「小天狗清蔵(こてんぐせいぞう)」という人物です
子どもの頃から体が大きく、賢く、心優しい人でした。
幼少期に戦乱に巻き込まれたこともあってか、信仰心の篤い青年に育ち、いつしか修験道を志します。
足が速く、いかめしい顔や威厳に満ちたその容貌から、彼はいつしか「小天狗清蔵」と呼ばれるようになっていきます。
修験道は、日本古来の山岳信仰が仏教に取り入れられた日本独自の修行のことです。
修験道を実践する人を「修験者」や「山伏」と呼び、険しい山での修行によって特殊な技能と呪術を身につけた者たちを指します。
忍術は元々、そんな修験者の戦法だと言われています。
また、山岳信仰の山々には天狗がつきものです。
天狗は木々の間を飛び交い、力を自在に操るとされた修験者や山伏などの姿を擬人化した存在で、天狗が神格化されるようになったのは江戸時代の頃なのだそうです。
清蔵は、近江国の飯道寺岩本院で修験道をきわめ、吉野・大峯山を何度も登ったと伝わっています。
そのことは、後に伊賀の人々の信仰心を奮い立たせることになり、さらにその結果、清蔵の元にはたくさんの資金が集まっていきました。
江戸時代初期になると、当時の伊賀国藩主であった藤堂高虎も彼を支援し、荒れ果てていた伊賀の寺や神社は、かつての見事な姿を取り戻すことができました。
清蔵の功績によって復興を果たした寺社は、「忍びの里」の日本遺産ストーリーにも登場する由緒正しいところばかりで、その代表格として「勝因寺(伊賀市山出)」のほかに、「敢國神社(伊賀市一之宮)」、「愛宕神社(伊賀市上野愛宕町)」などが知られています。
また、清蔵はそれだけでなく、当時伊賀で活動していた鋳物師を指導し、伊賀の地域にある色々な寺の鐘や鰐口、神社の湯釜などの製造に携わった者として銘文にその名が残っており、地元の人材活用まで行っていたのです。
幼少期に戦乱に巻き込まれたこともあってか、信仰心の篤い青年に育ち、いつしか修験道を志します。
足が速く、いかめしい顔や威厳に満ちたその容貌から、彼はいつしか「小天狗清蔵」と呼ばれるようになっていきます。
修験道は、日本古来の山岳信仰が仏教に取り入れられた日本独自の修行のことです。
修験道を実践する人を「修験者」や「山伏」と呼び、険しい山での修行によって特殊な技能と呪術を身につけた者たちを指します。
忍術は元々、そんな修験者の戦法だと言われています。
また、山岳信仰の山々には天狗がつきものです。
天狗は木々の間を飛び交い、力を自在に操るとされた修験者や山伏などの姿を擬人化した存在で、天狗が神格化されるようになったのは江戸時代の頃なのだそうです。
清蔵は、近江国の飯道寺岩本院で修験道をきわめ、吉野・大峯山を何度も登ったと伝わっています。
そのことは、後に伊賀の人々の信仰心を奮い立たせることになり、さらにその結果、清蔵の元にはたくさんの資金が集まっていきました。
江戸時代初期になると、当時の伊賀国藩主であった藤堂高虎も彼を支援し、荒れ果てていた伊賀の寺や神社は、かつての見事な姿を取り戻すことができました。
清蔵の功績によって復興を果たした寺社は、「忍びの里」の日本遺産ストーリーにも登場する由緒正しいところばかりで、その代表格として「勝因寺(伊賀市山出)」のほかに、「敢國神社(伊賀市一之宮)」、「愛宕神社(伊賀市上野愛宕町)」などが知られています。
また、清蔵はそれだけでなく、当時伊賀で活動していた鋳物師を指導し、伊賀の地域にある色々な寺の鐘や鰐口、神社の湯釜などの製造に携わった者として銘文にその名が残っており、地元の人材活用まで行っていたのです。