忍びの里 伊賀・甲賀─リアル忍者を求めて─STORY #042
- ホーム
- ストーリー検索
- 忍びの里 伊賀・甲賀
- 忍者が住んだ忍町
2024.03.13
一般
忍者が住んだ忍町
「伊賀は秘蔵の国。上野は要害の地、根拠とすべし」。
これは、江戸時代に伊賀の国を治めた藤堂高虎の言葉です。
高虎は城づくりの名人で、江戸城や二条城など、数多くの城づくりに関わりました。
その城づくりの最高の技術を集めて造られたのが、伊賀の城下町だと言われています。
城下町を守るために様々な工夫がなされ、その一つの「仕掛け」が、忍者が集まって住んだといわれる「忍町」でした。
あなたは「しのびちょう」と読めましたか?「しのびまち」ではありませんよ。
さてこの忍町、城下町が完成してすぐの寛永年間(1630年代)に、そのような名前で呼ばれるようになったと言われています。
その当時、伊賀の武士の中には「忍びの衆」という役職名の者がいて、約15人が藤堂藩に雇われていました。
そのうちの数人が交代で忍町に住んでいたと伝わっています。
その当時の「忍びの衆」の仕事は、城下町の警備や鉄砲の取締り、城門を出入りする人の記録係などで、今でいうと警察やガードマンのような役割を果たしていました。
彼らは城下町の真ん中に住まいがあり、治安の安定に一役買っていたようです。
さて、「忍びの衆」と呼ばれてきた藤堂藩の忍びの者ですが、1647(正保4)年、「武士の役職に忍び込みを意味する「忍び」と付くのはおかしいのでは」と言う意見があり、1650(慶安3)年、役職名が「伊賀者」に変更となりました。
そのうちに城下町で暮らすのが経済的に厳しくなった伊賀者たちは、それぞれの故郷へと帰っていきました。
しかし、「忍びの衆」が住まなくなったあとも、「忍町」の町名は残り続け、令和の時代になった今も「上野忍町」という地名があります。
これは、江戸時代に伊賀の国を治めた藤堂高虎の言葉です。
高虎は城づくりの名人で、江戸城や二条城など、数多くの城づくりに関わりました。
その城づくりの最高の技術を集めて造られたのが、伊賀の城下町だと言われています。
城下町を守るために様々な工夫がなされ、その一つの「仕掛け」が、忍者が集まって住んだといわれる「忍町」でした。
あなたは「しのびちょう」と読めましたか?「しのびまち」ではありませんよ。
さてこの忍町、城下町が完成してすぐの寛永年間(1630年代)に、そのような名前で呼ばれるようになったと言われています。
その当時、伊賀の武士の中には「忍びの衆」という役職名の者がいて、約15人が藤堂藩に雇われていました。
そのうちの数人が交代で忍町に住んでいたと伝わっています。
その当時の「忍びの衆」の仕事は、城下町の警備や鉄砲の取締り、城門を出入りする人の記録係などで、今でいうと警察やガードマンのような役割を果たしていました。
彼らは城下町の真ん中に住まいがあり、治安の安定に一役買っていたようです。
さて、「忍びの衆」と呼ばれてきた藤堂藩の忍びの者ですが、1647(正保4)年、「武士の役職に忍び込みを意味する「忍び」と付くのはおかしいのでは」と言う意見があり、1650(慶安3)年、役職名が「伊賀者」に変更となりました。
そのうちに城下町で暮らすのが経済的に厳しくなった伊賀者たちは、それぞれの故郷へと帰っていきました。
しかし、「忍びの衆」が住まなくなったあとも、「忍町」の町名は残り続け、令和の時代になった今も「上野忍町」という地名があります。