明治貴族が描いた未来〜那須野が原開拓浪漫譚〜STORY #058

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旧青木家那須別邸 明治貴族が描いた未来 明治貴族が描いた未来
山縣有朋記念館 明治貴族が描いた未来 明治貴族が描いた未来
松方別邸 明治貴族が描いた未来 明治貴族が描いた未来
千本松牧場 明治貴族が描いた未来 明治貴族が描いた未来
大山参道 明治貴族が描いた未来 明治貴族が描いた未来

ストーリーSTORY

わずか140年前まで
人の住めない荒野が広がっていた日本最大の扇状地「那須野が原」。
明治政府の中枢にあった貴族階級は、
この地に私財を投じ大規模農場の経営に乗り出します。
近代国家建設の情熱と西欧貴族への憧れを胸に
荒野の開拓に挑んだ貴族たち。
その遺志は長い闘いを経て、
那須連山を背景に広がる豊饒の大地に結実しました。
ここは、知られざる近代化遺産の宝庫。
那須野が原に今も残る華族農場の別荘を訪ねると、
近代日本黎明期の熱気と、
それを牽引した明治貴族たちの足跡を垣間見ることができます。

那須野が原に残る明治の余韻

長い杉並木を抜けると視界は一気に開け、青空の下にその建物は全貌を現します。中央に物見台を戴くホール棟、左右に羽を広げたように延びる棟にテラスを配した白亜の洋館は、近づくと、壁一面が蔦型の白いスレートで飾られ、屋根に張り出した採光窓が、ユニークな凹凸を描き出しています。まるで映画の一場面のように、いまにも日傘を手に貴婦人が姿を現しそうなその建物は、明治政府で外務大臣を務めた青木周蔵子爵が残した別荘です。このほかにも、様々な趣向を凝らし広大な敷地を有する別荘が周囲の喧騒とは無縁に点在する場所が、関東地方の北端に存在します。

栃木県北部に位置する日本最大規模の扇状地「那須野が原」には、明治から昭和にかけて大規模農場がひしめき合った時代がありました。別荘群は、当時の面影をいまに伝える貴重な生き証人です。これらの「大規模農場と別荘」を作り上げたのは、明治維新を牽引した元勲や明治政府の要職を歴任した貴族たち...いわゆる「華族」でした。そして、これら華族農場の成立の背景には、明治政府が推し進めた政策が大きく関わっていました。

左:青木農場跡に建つ別荘/右:山縣農場内に建つ別荘 左:青木農場跡に建つ別荘/右:山縣農場内に建つ別荘

水の無い大地を拓く~華族農場の成立

首都東京からわずか150㎞に位置するこの地は、明治初年まで人の住めない不毛の原野でした。那須野が原の広さは約4万ha。中央部は土砂や火山岩が厚く堆積し、真ん中を縦断する蛇尾さび川がわ・熊川くまがわは、水が地下に浸透してしまうため約10㎞にわたり水の無い川となります。いまでも場所によっては車で横断することが可能な蛇尾川の河床に降り立つと、ゴロゴロと足元に転がる石や流木が、「手にして掬すくう水も無し」と詠われた時代の風景を容易に想像させます。

しかし、この「極めて平坦な大地」は西洋列強に対抗し殖産興業政策を掲げた政府に開拓地として注目され、その実現に向けて、華族階級が出資する農場が、明治13年から20年代にかけ、次々と開設されました。

これら華族農場では、大々的に西洋式大規模農法が取り入れられ、開墾と牧畜、植林を中心とする様々な試みが行われました。ブドウ栽培の着手も早く、明治17年には既にワインの醸造が行われ、農場主たちの食卓を彩りました。それは、あたかも首都における欧化政策の象徴「鹿鳴館」と同様、開拓地における西洋文化導入の実践場というべきものでした。あるいは彼らの行動の基盤には、若き日の留学先で目にした欧州貴族の生活とそれを支えた荘園経営への強い憧れがあったのかもしれません。

華々しく展開された華族農場ですが、荒れた大地の開墾は容易ではなく、多くの農場は、採算を度外視した農場主の私財の投入によりかろうじて維持されていました。その理由は、新国家建設への情熱もさることながら、何よりこの土地への深い愛着によるものでした。何人かの農場主は自ら望んでこの地に葬られ、それ以外にも多くの農場主が、死後その名を冠した神社に祀られています。彼らの情熱に突き動かされ、那須野が原は徐々にその姿を変えていきます。

左:水の無い蛇尾川/右:明治17年から醸造されているワイン 左:水の無い蛇尾川/右:明治17年から醸造されているワイン

華族農場がもたらした景観

華族たちが試みた大規模農場の代表格は、大蔵大臣や総理大臣を歴任した松方正義公爵の「千本松農場」です。松方は水利に乏しい土地には欧米風の大農法が最適であると信じ、西洋農具を導入し広大な土地を開墾、その総面積は最盛期には1,600haに達しました。現在も800haの敷地を有する千本松牧場には、広大な放牧場と飼料畑、平地林が連なり、往時の姿をいまに伝えています。その一角に建つ別荘は、南に全面ガラス窓のサンルームを配した総2階の建物で、1階正面は大谷石で飾り、一見すると石造建築を思わせる重厚さを漂わせています。

人の住めない原野に農場を開いた華族たちは、人を呼び込む新しい「まち」も作り上げていきます。彼らの権力は鉄道や国道を開拓地に引き込み、農場内は正確に区画整理されて、開拓に携わる移住者を迎え入れました。

開拓に欠かせない水の確保のため、「那須疏水」が開削されたのは明治18年のことです。那珂川から取り入れられた水は那須野が原を横断し、4本に分かれて大地を潤し、その流れの先には必ず華族農場がありました。そこから支線が毛細血管のように走り、開墾により開かれた田にいまも水を注ぎ続けています。

左:千本松農場跡に建つ別荘/中:碁盤の目のように区画されたまち/右:那須野が原に水を運ぶ那須疏水取水口 左:千本松農場跡に建つ別荘/中:碁盤の目のように区画されたまち/右:那須野が原に水を運ぶ那須疏水取水口

「華族たちの夢」から「酪農王国」へ

華族農場に始まる開拓事業は、明治から昭和へと時を経て、戦後の開拓団に引き継がれました。舞台はかつて開拓には不向きとされた丘陵地へと移り、旧軍用地、国有林などが拓かれ、那須野が原の未開地は塗りつぶされていきました。

明治期から導入されていた牧畜の主流は、羊から乳牛へと代わり、技術革新による生産性の向上でその規模は徐々に拡大、やがてこの地は生乳生産本州一を誇る大酪農地帯へと成長していきます。

那須野が原を横断する県道を走ると、扇状地であるがゆえの、平らな大地に連なる緑の牧場と平地林、その背後にそびえる那須連山の雄姿が織りなすパノラマを楽しむことができます。そこに荒野の面影はありません。それは明治から途切れることなく続く開拓の歴史が作り上げたもの。伝統的な日本の農村風景とは一線を画した雄大な景観です。

いま、この地を訪れる人々は、四季折々の美しさに触れ、自然の中に遊び、大地の恵みを味わうことができます。その傍らで、各所に点在する別荘は、凛とした静寂に包まれながらも、かつての農場主たちが抱いた欧州文化への強い憧れと、彼らが思い描いた近代国家建設の情熱とを静かに語りかけてきます。

訪れる人々を、柔らかな高原の風と、かつて明治貴族が繰り広げた濃密な浪漫ものがたりをもって迎え入れる場所、それが那須野が原です。

左:那須高原に広がる牧草地/右:青木邸から望む杉並木 左:那須高原に広がる牧草地/右:青木邸から望む杉並木

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