里沼(SATO-NUMA)—「祈り」「実り」「守り」の沼が磨き上げた館林の沼辺文化−STORY #070
ストーリーSTORY
関東の山々が一望できる館林では、今も多くの沼と出会うことができる。
館林の沼は人里近くにあり、「里山」と同様に人々の暮らしと深く結び付き、
人が沼辺を活かすことで良好な環境が保たれ、文化が育まれてきた「里沼(SATO-NUMA)」であった。
館林の里沼は、沼ごとに特性が異なる。その歴史を紐解くと、里沼の原風景と信仰が共存する茂林寺沼は「祈りの沼」、
沼の恵みが暮らしを支えた多々良沼は「実りの沼」、
館林城とつつじの名勝地を守ってきた城沼は「守りの沼」と言い換えることができる。
館林の里沼を辿れば、それぞれの沼によって磨き上げられた館林の沼辺文化を味わい、体感することができる。
館林の沼は人里近くにあり、「里山」と同様に人々の暮らしと深く結び付き、
人が沼辺を活かすことで良好な環境が保たれ、文化が育まれてきた「里沼(SATO-NUMA)」であった。
館林の里沼は、沼ごとに特性が異なる。その歴史を紐解くと、里沼の原風景と信仰が共存する茂林寺沼は「祈りの沼」、
沼の恵みが暮らしを支えた多々良沼は「実りの沼」、
館林城とつつじの名勝地を守ってきた城沼は「守りの沼」と言い換えることができる。
館林の里沼を辿れば、それぞれの沼によって磨き上げられた館林の沼辺文化を味わい、体感することができる。
目次
里沼(SATO-NUMA) ―「祈り」「実り」「守り」の沼が磨き上げた館林の沼辺文化―
【里沼】沼は、古代・万葉の頃には「隠沼」と詠われ、水辺の草木に囲まれてひっそりとした佇まいを持ち、人を寄せつけない神聖な場であった。いつしか、人々が沼に近づき集う中で、暮らしと結びつき、沼と共生した生業や文化が生まれ、沼は「里沼」となった。
里沼は、自然と暮らしが調和した生活文化を今に伝える、我が国の貴重な財産である。新田開発や近代化の波にもまれ、各地から沼が消え去りつつある今、館林では、時を重ねながら、それぞれの特性を磨いてきた、希少な里沼を見ることができる。
里沼は、自然と暮らしが調和した生活文化を今に伝える、我が国の貴重な財産である。新田開発や近代化の波にもまれ、各地から沼が消え去りつつある今、館林では、時を重ねながら、それぞれの特性を磨いてきた、希少な里沼を見ることができる。
里沼(SATO-NUMA)
館林では、冬の朝夕に白鳥たちが沼から沼へと雁行する光景を目にすることができる。大小の河川が網目のように広がる関東平野には、かつて多くの沼が存在したが、近世以降のさまざまな開発によってほとんどが姿を消し、耕地や工場用地、宅地などに変わった。しかし、館林には茂林寺沼・多々良沼・城沼をはじめ、近藤沼・蛇沼など今も大小の沼が存在し、沼辺を行き交う水鳥たちの良い棲みかとなっている。
利根川と渡良瀬川に挟まれた館林の地形は、標高20mを境に低地と台地からなる。台地に入り組んだ谷から自然に湧き出た水は低地で滞留し、堰き止められて多くの沼が生まれた。その沼の畔に人の手が加わることで、館林の「里沼」の歴史が始まった。
利根川と渡良瀬川に挟まれた館林の地形は、標高20mを境に低地と台地からなる。台地に入り組んだ谷から自然に湧き出た水は低地で滞留し、堰き止められて多くの沼が生まれた。その沼の畔に人の手が加わることで、館林の「里沼」の歴史が始まった。
「祈りの沼」~里沼の原風景を残す茂林寺沼~
かつて、河川や沼の水辺には湿地や湿原が広がり、その周りには平地林が見られた。沼や湿原には、鯉や鮒、トンボなどの水生動物や昆虫、菱や藻などの水草や湿原の植物が生息し、沼辺の平地林は狸や蛇、野鳥などの棲みかとなっていた。このような水をとりまく自然環境は、平野の都市部では開発によってほとんど見られなくなっている。しかし、周辺が宅地化された今も、茂林寺沼にはその原風景が残されている。沼辺にはコウホネ、カキツバタ、ノウルシなど希少種の植物が自生し、関東地方でも数少ない貴重な低地湿原となっている。
茂林寺沼には、なぜ今も原風景が残っているのか?そこには、600年前に開山した古刹・茂林寺の存在がある。沼の畔に曹洞宗の信仰の拠点「祈りの場」が生まれることにより、人々の自然を畏怖する気持ちが高まり、「祈りの沼」としての静謐さが受け継がれてきた。いつしか人々は、その沼を茂林寺沼と呼ぶようになった。そして、寺に伝わる貉(狸)の古譚「ぶんぶく茶釜」のなかで、和尚が貉の化身であったり、狸が茶釜に化けるなど、人と動物とのかかわりが今もユーモラスに語り継がれている。
茅葺き屋根の本堂や山門をもつ茂林寺は、その葺き替えに沼茅(葦)を利用してきた。人々は繁茂する葦を刈ることで沼の生態系を維持し、茂林寺沼は「里沼」として人との共生が保たれてきた。今も人々の祈りの姿が途絶えることのない寺と、希少な動植物の棲みかの沼との共存が図られている。
茂林寺沼には、なぜ今も原風景が残っているのか?そこには、600年前に開山した古刹・茂林寺の存在がある。沼の畔に曹洞宗の信仰の拠点「祈りの場」が生まれることにより、人々の自然を畏怖する気持ちが高まり、「祈りの沼」としての静謐さが受け継がれてきた。いつしか人々は、その沼を茂林寺沼と呼ぶようになった。そして、寺に伝わる貉(狸)の古譚「ぶんぶく茶釜」のなかで、和尚が貉の化身であったり、狸が茶釜に化けるなど、人と動物とのかかわりが今もユーモラスに語り継がれている。
茅葺き屋根の本堂や山門をもつ茂林寺は、その葺き替えに沼茅(葦)を利用してきた。人々は繁茂する葦を刈ることで沼の生態系を維持し、茂林寺沼は「里沼」として人との共生が保たれてきた。今も人々の祈りの姿が途絶えることのない寺と、希少な動植物の棲みかの沼との共存が図られている。
「実りの沼」~ “麦都”館林を支えた多々良沼~
多々良沼とその沼辺に細長く連なる松林。そこには「たたら」の地名の由来となった古い時代の製鉄の痕跡と、500年前の開拓者大谷休泊による植林と用水堀開削の歴史が刻まれている。多々良沼は、人々の暮らしを支える生業の場としての「里沼」へと拓かれてきた。
沼からの用水によって潤された田畑は、米と麦との二毛作が可能となり、江戸時代には館林藩から将軍家へ小麦粉が献上されたように、館林は麦の産地となった。明治期になると麦を生かした近代製粉業や醸造業が興り、“麦都”となった館林では、麦を原料とした麦落雁やうどん、醤油が名産品となった。「里沼」による水と大地の恵みは、多々良沼を「実りの沼」へと進化させ、現代の館林の食品産業の興隆へと結実している。
「実りの沼」は漁労の場としても人々の暮らしを支え、鯰の天ぷらや鯉の洗い、鮒の甘露煮など沼の幸を活かした個性ある食文化をもたらした。長年培われてきた様々な味わいは、里人たちの貴重なたんぱく源となり、もてなしや晴れの日の料理として今も暮らしに根付いている。
沼からの用水によって潤された田畑は、米と麦との二毛作が可能となり、江戸時代には館林藩から将軍家へ小麦粉が献上されたように、館林は麦の産地となった。明治期になると麦を生かした近代製粉業や醸造業が興り、“麦都”となった館林では、麦を原料とした麦落雁やうどん、醤油が名産品となった。「里沼」による水と大地の恵みは、多々良沼を「実りの沼」へと進化させ、現代の館林の食品産業の興隆へと結実している。
「実りの沼」は漁労の場としても人々の暮らしを支え、鯰の天ぷらや鯉の洗い、鮒の甘露煮など沼の幸を活かした個性ある食文化をもたらした。長年培われてきた様々な味わいは、里人たちの貴重なたんぱく源となり、もてなしや晴れの日の料理として今も暮らしに根付いている。
左:多々良沼と松林/中央:大谷休泊の墓/右:沼の幸・川魚料理
「守りの沼」~城と躑躅ヶ崎を守ってきた城沼~
550年前、周囲5㎞の東西に細長い城沼を天然の要害として館林城が築かれた。城沼は館林城の建つ台地を取り囲む外堀の役目をし、武将たちにとって「守りの沼」となった。沼によって守られた堅固な城は、近世になると江戸を守護する要衝として、徳川四天王の榊原康政や、五代将軍となる徳川綱吉の城となり、守りを固めるための城下町を広げ、その周囲に水を引き入れ、堀と土塁で囲った。
「守りの沼」には、二つの伝説が生まれた。一つは龍神伝説である。沼に人を寄せつけないため、城沼は沼の主・龍神の棲む場となり、城下町にはその伝説を伝える井戸が残る。もう一つはつつじ伝説である。今から400年程前、「お辻」という名の女人が龍神に見初められ、城沼に入水した。それを悲しんだ里人は沼が見える高台につつじを植え、その地を「躑躅ヶ崎」と呼んだ。歴代の館林城主はそこにつつじを植え続け、花が咲き誇るようになった高台を築山に、城沼を池に見立てた雄大な回遊式の大名庭園を造り上げた。城主によって守られてきた躑躅ヶ崎は「花山」とも呼ばれ、花の季節には里人たちにも開放された。
明治維新後の近代化は、「守りの沼」を大きく変貌させた。江戸時代に禁漁区となって人を寄せつけなかった城沼は、里人たちに開放されて漁労や墾田、渡船などが営まれ、「里沼」としての歴史を歩み始めた。
左1:館林城三の丸土橋門/左2:つつじ古木群/右2:龍神伝説の竜の井/右1:渡し舟が起源 花ハスクルーズ
「もてなしの心」へと磨き上げられた館林の沼辺文化
近代化による「守りの沼」の変貌は、城沼と景観を一つにしていた「躑躅ヶ崎」も大きく変えた。それまで城主によって守られていた「躑躅ヶ崎」は、町人や村人たちの努力によって、公園「つつじが岡」として行楽地に生まれ変わり、400年前に植えられたつつじは貴重な古木群となり、名勝として甦(よみがえ)った。多くの人々が訪れるようになった沼辺には、行楽客を迎え入れるための文化が集約され、「もてなしの心」が芽生えた。
近代化によって城下町で成長した製粉・醤油醸造・織物などの会社は、内外の客を迎えるもてなしの場として「つつじが岡」を利用した。東武鉄道の開通と館林出身の文豪田山花袋が記した旅の案内書は、沼辺にある「つつじが岡」と茂林寺へと多くの人々を誘った。さらに「実りの沼」がもたらした名産品の麦落雁やうどんは、手軽な館林土産として広く知られるようになり、里沼の特性を活かした「もてなしの心」が根付いた。
館林の沼辺に佇むと、赤城山や日光連山、遠くは筑波山・富士山を眺望できる。「祈りの沼」「実りの沼」「守りの沼」、それぞれ特性を持って、多彩な文化を生み出してきた館林の「里沼(SATO-NUMA)」。その特性は明治の近代化以降、「もてなしの心」へと磨き上げられ、館林の沼辺文化として今も受け継がれている。
墾田、渡船などが営まれ、「里沼」としての歴史を歩み始めた。
近代化によって城下町で成長した製粉・醤油醸造・織物などの会社は、内外の客を迎えるもてなしの場として「つつじが岡」を利用した。東武鉄道の開通と館林出身の文豪田山花袋が記した旅の案内書は、沼辺にある「つつじが岡」と茂林寺へと多くの人々を誘った。さらに「実りの沼」がもたらした名産品の麦落雁やうどんは、手軽な館林土産として広く知られるようになり、里沼の特性を活かした「もてなしの心」が根付いた。
館林の沼辺に佇むと、赤城山や日光連山、遠くは筑波山・富士山を眺望できる。「祈りの沼」「実りの沼」「守りの沼」、それぞれ特性を持って、多彩な文化を生み出してきた館林の「里沼(SATO-NUMA)」。その特性は明治の近代化以降、「もてなしの心」へと磨き上げられ、館林の沼辺文化として今も受け継がれている。
墾田、渡船などが営まれ、「里沼」としての歴史を歩み始めた。
左:正田醤油正田記念館/中央:旧館林二業見番組合事務所/右:田山花袋旧居