海を越えた鉄道~世界へつながる 鉄路のキセキ~STORY #090
2024.03.13
一般
敦賀駅の変遷~新幹線開業を前に~
現在、敦賀駅周辺は交流施設オルパークに続き立体駐車場やOTTA、ホテルなど周辺施設の整備が進み、いよいよ新幹線開業も間近という雰囲気です。
駅周辺の様相が一変するほどの大きな変化に、市民も駅に降り立つ旅のお客様も、新しい時代の幕開けを感じているのではないでしょうか。
敦賀は1882年(明治15年)に鉄道が敷設されました。
1884年(明治17年)、難工事の末滋賀県境に柳ヶ瀬トンネルが完成し、敦賀は長浜と結ばれます。
最初の敦賀駅は氣比神宮の南西側に置かれ、更にそこから港の金ヶ崎駅(大正8年から敦賀港駅)まで線路が伸びていました。
1909年(明治42年)、敦賀駅は木の芽川を後背とする現在地に移転しました。
当時北陸線最大の二階建木造駅舎が建てられたのは、市街地から少し離れた場所です。
すでに北に鉄路が伸び、接続の便を向上させることが用地選定の理由の一つと考えられます。
駅周辺の様相が一変するほどの大きな変化に、市民も駅に降り立つ旅のお客様も、新しい時代の幕開けを感じているのではないでしょうか。
敦賀は1882年(明治15年)に鉄道が敷設されました。
1884年(明治17年)、難工事の末滋賀県境に柳ヶ瀬トンネルが完成し、敦賀は長浜と結ばれます。
最初の敦賀駅は氣比神宮の南西側に置かれ、更にそこから港の金ヶ崎駅(大正8年から敦賀港駅)まで線路が伸びていました。
1909年(明治42年)、敦賀駅は木の芽川を後背とする現在地に移転しました。
当時北陸線最大の二階建木造駅舎が建てられたのは、市街地から少し離れた場所です。
すでに北に鉄路が伸び、接続の便を向上させることが用地選定の理由の一つと考えられます。
同年刊行された『福井県敦賀郡名所古蹟写真帖』掲載の「敦賀停車場」(図1)の説明を引用すると「敦賀町ノ東南約七町ヲ距ル田園ノ中ニアリ。
明治四十一年七月工ヲ起シ本年五月竣工シ六月ヨリ之ヲ使用ス。
本場ハ敦浦直航路開通ニ伴フ設備ノ一トシテ改築セラレタルナリ。
其構造最新式ニ則リ欧亜ノ連絡ニ資スルニ在レハ規模広大輸奐ノ美アリ。
乗客昇降ノ便宜シ(句点加筆)」すなわちこの建物は市街地から約800m離れた田園の中にあり、1908年6月に起工、翌年5月に竣工して6月から供用を開始しています。
敦賀-ウラジオストク間の直通航路、アジアと欧州を結ぶ敦賀の交通の便を向上させる施設であり、最新の設備の大変立派な建物だということです。(図2)
明治四十一年七月工ヲ起シ本年五月竣工シ六月ヨリ之ヲ使用ス。
本場ハ敦浦直航路開通ニ伴フ設備ノ一トシテ改築セラレタルナリ。
其構造最新式ニ則リ欧亜ノ連絡ニ資スルニ在レハ規模広大輸奐ノ美アリ。
乗客昇降ノ便宜シ(句点加筆)」すなわちこの建物は市街地から約800m離れた田園の中にあり、1908年6月に起工、翌年5月に竣工して6月から供用を開始しています。
敦賀-ウラジオストク間の直通航路、アジアと欧州を結ぶ敦賀の交通の便を向上させる施設であり、最新の設備の大変立派な建物だということです。(図2)
新築当時は舗装されていなかった駅前は後に石畳の舗装も施されました。(図4)
駅と港周辺市街地の間には次第に学校や税務署、商店街などが整い、市街地化が進みます。(図5)
国際港敦賀の玄関口として華やかな時代を謳歌したこの駅舎でしたが、残念ながら昭和20年の空襲で焼失しています。
駅職員たちが車両の類焼を防ごうと奔走する中、炎の中倒れていったという当時の証言が残されています。
駅と港周辺市街地の間には次第に学校や税務署、商店街などが整い、市街地化が進みます。(図5)
国際港敦賀の玄関口として華やかな時代を謳歌したこの駅舎でしたが、残念ながら昭和20年の空襲で焼失しています。
駅職員たちが車両の類焼を防ごうと奔走する中、炎の中倒れていったという当時の証言が残されています。
そうした被害にあいながらも、鉄道の営業は休むことなく続けられ、バラックの駅舎も設けられました。
1951年(昭和26年)には北陸線最初の鉄筋コンクリートの駅舎がお目見えしています。(図6)
鉄道は戦災復興、高度成長期を支える存在であり、北陸線も交流電化、複線化や北陸トンネルの開通など、輸送力増強のために姿を変えていきました。
柳ヶ瀬線の廃線、国鉄民営化、小浜線の電化や直流化による新快速乗り入れなどの歴史の波を乗り越えて、いよいよ新幹線の開業という明治の鉄道敷設に匹敵する大きな節目を迎えます。
1951年(昭和26年)には北陸線最初の鉄筋コンクリートの駅舎がお目見えしています。(図6)
鉄道は戦災復興、高度成長期を支える存在であり、北陸線も交流電化、複線化や北陸トンネルの開通など、輸送力増強のために姿を変えていきました。
柳ヶ瀬線の廃線、国鉄民営化、小浜線の電化や直流化による新快速乗り入れなどの歴史の波を乗り越えて、いよいよ新幹線の開業という明治の鉄道敷設に匹敵する大きな節目を迎えます。
従来の敦賀駅も整備が進み、新幹線駅への連絡通路ともなる長いエスカレーターのある跨線橋などは敦賀駅の利便性を一変させました。(図7,8)
それでも改札を左に折れて、地下道を通って階段を上ってホームへ出る、敦賀駅ならでの風情に懐かしさや親しみを感じる利用者も多いでしょう。(図9)
ホームから眺めた、線路が奥のほうまで幾筋も並んでいた景色は失われましたが、ホームのかさ上げや延伸の痕跡など、そこかしこに重ねてきた時間の証拠は残ります。
それでも改札を左に折れて、地下道を通って階段を上ってホームへ出る、敦賀駅ならでの風情に懐かしさや親しみを感じる利用者も多いでしょう。(図9)
ホームから眺めた、線路が奥のほうまで幾筋も並んでいた景色は失われましたが、ホームのかさ上げや延伸の痕跡など、そこかしこに重ねてきた時間の証拠は残ります。
そして何より、驚くほどに巨大な新幹線の敦賀駅舎は、未来につながる最新の駅であると同時に、敦賀の鉄道史にその名を刻む存在でもあるのです。
※古写真・資料は全て敦賀市立博物館蔵
※古写真・資料は全て敦賀市立博物館蔵