海を越えた鉄道~世界へつながる 鉄路のキセキ~STORY #090

シェアして応援!SHARE

旧長浜駅舎 旧長浜駅舎 旧長浜駅舎
D51形793号蒸気機関車 D51形793号蒸気機関車 D51形793号蒸気機関車
小刀根トンネル 小刀根トンネル 小刀根トンネル
杉津の景観 杉津の景観 杉津の景観
山中トンネル 山中トンネル 山中トンネル
今庄そば 今庄そば 今庄そば

ストーリーSTORY

ここに1枚の切符がある。今から約100年前に運行されていた欧亜国際連絡列車は、この切符で東京からベルリンまでの渡航が可能であった。シベリア鉄道の発着地であるウラジオストクと敦賀を結ぶ鉄道連絡船の就航により、鉄道は海を越え欧州へとつながった。
なぜ敦賀駅に国際列車が発着していたのか?それは、長浜市・敦賀市・南越前町の明治時代の鉄道の歴史と密接な関係がある。
物語は、トンネルで日本海と琵琶湖を繋いだことから始まる。

【つなぐ。日本海と太平洋】

明治17年(1884年)に長浜と敦賀が鉄道でつながって130年以上経つ。古来より日本海側の物資は、敦賀から陸路で琵琶湖を経て京都・大阪へ運ばれていたが、その道は峠を越えなければならず、800年も前の平清盛の時代から運河建設計画が浮かんでは消え、実現することはなかった。そんな積年の夢が動き出したのは、明治2年のこと。明治政府は、日本海と太平洋をつなぐプロジェクトとして、琵琶湖-敦賀間の鉄道敷設を決定したのだ。鉄道に将来の有効性を確信した長浜の商人達は、いち早く駅の誘致に動いた。その甲斐あって、政府は長浜を琵琶湖側の拠点と定め、長浜-敦賀間の工事に着手した。

長浜市と敦賀市にまたがる柳ケ瀬トンネルは、今も道路トンネルとして現役である。1車線通行でゆるやかにカーブしている内部は、迫りくる壁面に圧倒される。これこそが日本人の技師、工夫らにより4年の歳月をかけて完成したトンネルである。この工事の成功は、我が国の鉄道建設技術の飛躍と自信につながる金字塔となったばかりでなく、峠をトンネルで貫くことで、日本海と太平洋の最短ルートが確立されたのである。

その後、敦賀-今庄間の工事は、急峻な山地で30㎞の間に12のトンネルを掘る必要に迫られた。
積み上げるレンガや石は全て手積みであり、掘削工事中の洪水や土砂崩れの影響により、工夫は復旧工事のための資材を現場まで背負って運んだ。硬い岩質に阻まれながらも、技師、工夫らのたゆまぬ命懸けの努力によって3年後に完成した。しかし、柳ヶ瀬-敦賀-今庄間は、当時の機関車では登坂能力の限界となる急勾配で、輸送量が増加していくと、より牽引力が強い機関車が求められた。そこで登場したのが D51形蒸気機関車である。日本で最も量産された同機は、途中の小刀根トンネルのサイズに合わせて設計されている。小刀根トンネルは、現存する日本最古のトンネルであり、レンガ積みの壁面など当時の技術を間近で見ることができる。こうしたトンネルが続く区間を機関士達は、サウナのような状態の中でひたすら石炭をくべ続け、煙やすすで鼻の中まで真っ黒になりながら、急勾配の下りでは脱線しないようにと、一瞬の気の緩みも許されない卓越した運転技術で難所を越えていった。

これらのトンネルは廃線となった今も道路として使われているが、現在の基準からすると狭く感じる。しかし、それは130年前の鉄道トンネルを今も使用しているが故である。トンネル群を歩いて巡るウォーキング大会の参加者は、今もなお残る黒煙のすすを目にしながら運行当時の様子を体感する。旧北陸線のトンネル群は、鉄道から自動車へ移動手段が変わってもなお役割を果たし続けている現役の文化財なのである。

左:滋賀と福井の県境にある柳ヶ瀬トンネル ー 明治17年当時日本最長を誇った/右:日本最古鉄道トンネル小刀根トンネルの内部 ー SL運行当時のすすが現在も残る 左:滋賀と福井の県境にある柳ヶ瀬トンネル ー 明治17年当時日本最長を誇った/右:日本最古鉄道トンネル小刀根トンネルの内部 ー SL運行当時のすすが現在も残る

【鉄道がもたらした繁栄】

現在の長浜駅の喧騒から少し離れた所に、イギリス風の洋館がある。これは、明治15年に開業した初代長浜駅で、現存する日本最古の駅舎である。現在は鉄道スクエアと呼ばれ、旧北陸線の歴史を知ることができる資料館になっており、旧北陸線を運行していた蒸気機関車や電気機関車などを展示し、歴史を広く発信する役目を担っている。鉄道開業により長浜は、敦賀から、また京都・大阪からの物流の拠点であるターミナル駅として、人々が行きかう活気あるまちとなった。初代長浜駅の向かいにある「慶雲館」は、明治20年に明治天皇皇后の行幸啓の際に長浜駅から東京方面へ向かう休憩場所として、長浜の豪商が建てた和風の迎賓館である。鉄道によってもたらされた長浜の明治期の代表的な2つの建物は、今でもその和と洋のコントラストで長浜を訪れるお客様をお迎えしている。

一方、敦賀-今庄間では急勾配を多くの貨物を積んで越えるために、補機(列車を後ろから押すもう1台の蒸気機関車)を連結する必要があり、敦賀駅、今庄駅では補機の付け外しのために全ての機関車が停車した。その作業時間を目当てに敦賀駅では「立ち売り」で「鯛鮨」が販売され、今でも駅弁やお土産に人気の定番商品となっている。また、今庄は400年の歴史をもつ在来種そばの産地で、停車中にホームで食べる定番の「立ち食いそば」は、今庄駅発祥と言われ、親しまれた。今でも「今庄そば」と呼ばれ特産品となっており、これまで20年にわたって開催され続けている今庄宿でのイベントでは、毎年多くの人々に食され、賑わいを見せている。

左:現存する最古の駅舎「旧長浜駅」 ー 資料館として公開されている/右:立ち食いそば(今庄駅) 左:現存する最古の駅舎「旧長浜駅」 ー 資料館として公開されている/右:立ち食いそば(今庄駅)

【そして鉄道は海を越える】

湾が深く周囲を山に囲まれた敦賀には、異国情緒あふれる施設が点在する。敦賀港は元々、北前船をはじめとする海上交易の拠点として栄えていたが、北陸線が北へ延伸するにつれて、物流の主役は鉄道へと移っていった。こうした状況を危惧した地元実業家らの運動により、敦賀は国際港へと舵を切ることになる。諸外国との貿易が盛んになり、輸入された石油の貯蔵庫として活躍した旧紐育スタンダード石油会社倉庫(敦賀赤レンガ倉庫)は、現在、鉄道ジオラマ館やカフェ、レストランとなって開放されており、当時国際都市であった敦賀市の歴史を伝えつつ、観光客の憩いの場として賑わっている。明治35年にシベリア鉄道が開通し、それに伴い敦賀-ウラジオストクの定期航路が開設されると、敦賀港は日本海側屈指の国際港としての地位を確立していった。そして明治45年には東京の新橋-金ヶ崎(敦賀港)間に、ウラジオストクを経由してヨーロッパまで1枚の切符で渡航できる直通列車「欧亜国際連絡列車」が開業した。ヨーロッパまでの最短であったこのルートで、歌人与謝野晶子はパリへと旅立ち、来日していた探検家アムンゼンは日本を発った。日本が初参加したストックホルムオリンピックで金栗四三ら日本選手団が利用したのも、本ルートである。第二次世界大戦中には、リトアニア領事代理であった杉原千畝が発給した「命のビザ」を持ったユダヤ人難民が続々と敦賀に上陸した。人々は銭湯を無料開放したり、りんごなどの果物を無償で提供したりと、難民を温かく迎えた。“The Town of Tsuruga looked like heaven. We will never forget Tsuruga.”-天国のように見えた敦賀の町。この地の人々の温かさは決して忘れない- 彼らの感謝の言葉は現在も敦賀に残されている。この「命」と「平和」のストーリーを後世に伝えるため、敦賀港を望む場所に「人道の港 敦賀ムゼウム」という資料館が設立された。現在も、救済難民やその子孫らが、「命のビザ」の物語をたどってこの地を来訪するが、敦賀の人々は当時と同じように彼らを温かく迎え入れている。敦賀港にはこれまでに年に1、2回の大型外国クルーズ船が寄港しており、今後は寄港の回数を増やす予定をしている。これは「外国人を受け入れ、もてなす」という精神が今も変わらず根付いているということだけでなく、外国人に向けた着地型観光の受け皿が整ってきていることの証明と言えるだろう。また、今後は資料館のリニューアルや、敦賀港駅舎等の建物の復元も予定しており、港周辺一帯が浪漫溢れる街並みを創出することとなる。鉄道と港の歴史が生んだ唯一無二の平和のストーリーは、これからも地域の人々によって大切に受け継がれ、発信され続けていくのである。

全ては、日本海と琵琶湖を結ぶことから始まった。

鉄道が敷設されたことにより、この地域に物流の革命がもたらされ、それは海外航路とのつながりを促した。鉄道は国際列車として世界へと通じ、人、文化、経済の国際交流の架け橋となったのだ。

長浜市・敦賀市・南越前町の鉄道遺産は、姿や形を変えずに、人々の生活に必要な財産として生まれ変わり、地域に密着した文化財として生き続けている。今後これらの鉄道遺産は、北陸新幹線敦賀開業を契機に、国内外からの観光客を出迎える役目を担い、3市町の一体的かつ広域的な観光振興による地域活性化に貢献する。

この地を訪れ、その軌跡を追うとき、懐かしくも新しい旅の扉が開かれる。

左:敦賀港近くの敦賀赤レンガ倉庫 ー 鉄道ジオラマ、カフェ・レストランに活用/右:命のビザの物語を今に伝える施設 ー 「人道の港 敦賀ムゼウム」 左:敦賀港近くの敦賀赤レンガ倉庫 ー 鉄道ジオラマ、カフェ・レストランに活用/右:命のビザの物語を今に伝える施設 ー 「人道の港 敦賀ムゼウム」

ピックアップコラムCOLUMN

日本遺産に関するエピソードや
トリビアをお届けします。

敦賀駅の変遷
~新幹線開業を前に~

敦賀駅の変遷~新幹線開業を前に~

現在、敦賀駅周辺は交流施設オルパークに続き立体駐車場やOTTA、ホテルなど周辺施設の整備が進み、いよいよ新幹線開業も間近という雰囲気です。
駅周辺の様相が一変するほどの大きな変化に、市民も駅に降り立つ旅のお客様も、新しい時代の幕開けを感じているのではないでしょうか。

敦賀は1882年(明治15年)に鉄道が敷設されました。
1884年(明治17年)、難工事の末滋賀県境に柳ヶ瀬トンネルが完成し、敦賀は長浜と結ばれます。
最初の敦賀駅は氣比神宮の南西側に置かれ、更にそこから港の金ヶ崎駅(大正8年から敦賀港駅)まで線路が伸びていました。

1909年(明治42年)、敦賀駅は木の芽川を後背とする現在地に移転しました。
当時北陸線最大の二階建木造駅舎が建てられたのは、市街地から少し離れた場所です。
すでに北に鉄路が伸び、接続の便を向上させることが用地選定の理由の一つと考えられます。

同年刊行された『福井県敦賀郡名所古蹟写真帖』掲載の「敦賀停車場」(図1)の説明を引用すると「敦賀町ノ東南約七町ヲ距ル田園ノ中ニアリ。
明治四十一年七月工ヲ起シ本年五月竣工シ六月ヨリ之ヲ使用ス。
本場ハ敦浦直航路開通ニ伴フ設備ノ一トシテ改築セラレタルナリ。
其構造最新式ニ則リ欧亜ノ連絡ニ資スルニ在レハ規模広大輸奐ノ美アリ。
乗客昇降ノ便宜シ(句点加筆)」すなわちこの建物は市街地から約800m離れた田園の中にあり、1908年6月に起工、翌年5月に竣工して6月から供用を開始しています。
敦賀-ウラジオストク間の直通航路、アジアと欧州を結ぶ敦賀の交通の便を向上させる施設であり、最新の設備の大変立派な建物だということです。(図2)

図1 敦賀停車場

図2 地図明治

長く近代港湾としての設備が整わなかった敦賀港も、同年からようやく第一次港湾修築工事が始まり、金ヶ崎桟橋には金ヶ崎駅を始めとするモダンな建物群が整備されて行きます。(図3)

図3 桟橋

新築当時は舗装されていなかった駅前は後に石畳の舗装も施されました。(図4)
駅と港周辺市街地の間には次第に学校や税務署、商店街などが整い、市街地化が進みます。(図5)
国際港敦賀の玄関口として華やかな時代を謳歌したこの駅舎でしたが、残念ながら昭和20年の空襲で焼失しています。
駅職員たちが車両の類焼を防ごうと奔走する中、炎の中倒れていったという当時の証言が残されています。

図4 石畳

図5 地図昭和

そうした被害にあいながらも、鉄道の営業は休むことなく続けられ、バラックの駅舎も設けられました。
1951年(昭和26年)には北陸線最初の鉄筋コンクリートの駅舎がお目見えしています。(図6)
鉄道は戦災復興、高度成長期を支える存在であり、北陸線も交流電化、複線化や北陸トンネルの開通など、輸送力増強のために姿を変えていきました。
柳ヶ瀬線の廃線、国鉄民営化、小浜線の電化や直流化による新快速乗り入れなどの歴史の波を乗り越えて、いよいよ新幹線の開業という明治の鉄道敷設に匹敵する大きな節目を迎えます。

図6 敦賀駅舎

従来の敦賀駅も整備が進み、新幹線駅への連絡通路ともなる長いエスカレーターのある跨線橋などは敦賀駅の利便性を一変させました。(図7,8)
それでも改札を左に折れて、地下道を通って階段を上ってホームへ出る、敦賀駅ならでの風情に懐かしさや親しみを感じる利用者も多いでしょう。(図9)
ホームから眺めた、線路が奥のほうまで幾筋も並んでいた景色は失われましたが、ホームのかさ上げや延伸の痕跡など、そこかしこに重ねてきた時間の証拠は残ります。

図7 新しくお目見えした跨線橋(5番ホームから)

図8 エスカレーター

図9 トンネル

そして何より、驚くほどに巨大な新幹線の敦賀駅舎は、未来につながる最新の駅であると同時に、敦賀の鉄道史にその名を刻む存在でもあるのです。

※古写真・資料は全て敦賀市立博物館蔵

ページの先頭に戻る