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#076 中世に出逢えるまち
史跡観心寺境内
檜尾山(ひのおさん)観心寺のはじまりは、文武(もんむ)天皇の時代で、その前身を雲心寺(うんしんじ)といい、修験道の開祖である役小角によって開かれた。平安時代には空海の命により、その一番弟子である実恵(じちえ)と、更にその弟子の真紹(しんしょう)が開創に関わった。実恵は空海が高野山を開いて真言宗を広めたときには大いに助力し、後には東寺を託されるほど、篤く信頼された僧侶であった。寺の山号である檜尾山は、実恵が檜尾僧都(ひのおそうづ)と呼ばれていたのにちなむ。観心寺は、東寺と高野山の中宿(なかやど)に位置づけられて、真言宗発展の重要な拠点となった。国家が公認した寺を定額寺(じょうがくじ)と呼ぶが、観心寺はその1つに列せられ、朝廷の庇護を受けて、河内国だけでなく紀伊国、但馬国にまで荘園を持っていた。 観心寺は天野山金剛寺と同様に1934年(昭和9)3月13日、後醍醐天皇の倒幕・建武新政に協力したことに加え後村上天皇の行宮が置かれたことや陵墓があることから国史跡に指定された。
かつて、周辺の領地を支配した中世から続く大寺院。都市的な景観をもっており、地域の政治、経済、文化の中心であった。多くの中世の文化財建造物が残る他、伽藍整備した空海の高弟実恵の墓などがある。
【文責】 河内長野市教育委員会 文化財保護課
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