中世に出逢えるまち~千年にわたり護られてきた中世文化遺産の宝庫~STORY #076

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天野山金剛寺金堂 天野山金剛寺金堂 天野山金剛寺金堂
高野街道(夜景) 高野街道(夜景) 高野街道(夜景)
金剛寺楼門 金剛寺楼門 金剛寺楼門
観心寺金堂 観心寺金堂 観心寺金堂
烏帽子形城跡からの眺め 烏帽子形城跡からの眺め 烏帽子形城跡からの眺め

ストーリーSTORY

河内長野市は京と高野山を結ぶ街道の中間地に位置し、
檜尾山観心寺、天野山金剛寺の2大寺院が隆盛したまちである。
街道沿いの白壁の塀、銀色に輝く瓦葺きの屋根、朱・緑・黄色などの鮮やかな柱、
優雅で美しいその建物の中は凛とした静けさに包まれ、金色に光り輝く仏像が安置されている。
この2大寺院の隆盛により市域では多くの社殿、お堂や仏像が造られ、
また交通の要衝となったことから山城も築かれた。
ここは、悠久の時を超えて千年にわたり護られてきた中世文化遺産の宝庫であり、
訪れる人がまちじゅうで中世を体感できるまちである。

中世に隆盛した観心寺、金剛寺

河内長野市には、中世に隆盛した観心寺、金剛寺の2大寺院があり、観心寺は高野街道から大和国に向う大沢街道沿いの、また、金剛寺は和泉国から高野街道に接する巡礼街道沿いの谷あいに所在している。

深緑の街道を歩くと、街道沿いに白壁の塀が続き、門をくぐると銀色の瓦で葺かれた屋根、朱・緑・黄色などの鮮やかな色に彩られた柱、白い土壁をもつ建物が見える。その優雅で美しい建物に入ると漆黒に塗られた、凛とした静けさに包まれた内陣があり、そこには金色に光り輝く仏像が安置されている。建物、仏像共に中世から護り継がれてきたものである。

寺院を中心としたそれぞれの谷の景観は、全体に棚田が広がり、丘陵の裾には小高い場所に建てられたお堂や社を中心に民家が一定のまとまりをもって形成されている。今もかつて寺院が治めた里山風景を留め、心が安らぐ自然景観を残している。

左:金剛寺境内/右:観心寺境内 左:金剛寺境内/右:観心寺境内

隆盛の要因

このような景観がつくられたのは、有力農民の子弟が寺院に入るとともに農地が寄進されるなど地域とのつながりが強く、地域の中心に寺院があったことによる。観心寺の場合、高野山を開創し東寺初代長官となった空海が、高野山と東寺の中間にある観心寺を中宿として、真言宗発展の重要な拠点とした。このことで嵯峨天皇の勅願所にも定められ、後に朝廷の定めた官寺である定額寺に列せられ発展した。一方金剛寺の場合も、行基を開創とし空海が修行した寺院であり、一時衰退していたが、高野山を下りた1人の僧によって再興され、観心寺と同じく朝廷と強い関係を持つと共に、源頼朝など武家の庇護も受けることとなった。両寺とも朝廷との関係が強く築かれたことから隆盛し、南北朝時代においては約10年間、南朝(後村上天皇、長慶天皇)の行宮となり、政治の中心地となった。金剛寺においては塀を隔てて北朝(光厳・光明・崇高上皇)と共に一時期過ごすという歴史的な舞台にもなった。

両寺が隆盛したのは、このように朝廷との強いつながりがあったからであるが、それを更に強めた要因の一つに京と高野山を結ぶ高野街道の存在があった。この街道は平安後期頃、高野参詣の主街道となった。長承元年(1132)の鳥羽上皇の参詣以降、京からの院および貴族の参詣はことごとくこの街道を往来することとなり、途中、観心寺に参拝するなど、朝廷との関係を更に強めていくことになった。

高野街道沿いの様相

この高野参詣が庶民の間に普及し始めた中世半ばには高野街道も旅人や商人で賑わい、それとともに街道沿いの長野神社、烏帽子形八幡神社の社殿も整備された。

西、東高野街道が合流する地点では、大和、和泉を結ぶ街道にも通じており、さらに当時物流を担った河川も合流することから、大勢の人々で賑わいをみせていた。中世の山城がこのように交通や流通の要衝の地に築かれることから、街道を見渡す地に烏帽子形城が築かれた。織田信長による河内平定後、河内国内の城をことごとく廃城していく中で、この城は河内国と紀伊国の国境に在ったため、紀伊国からの攻めに対する砦として残された。

左:国史跡 烏帽子形城跡/右:高野街道 左:国史跡 烏帽子形城跡/右:高野街道

中世に出逢うまち

金剛寺の正御影供 金剛寺の正御影供

観心寺、金剛寺は共に朝廷と強い関係を築いたことから隆盛し、境内都市を形成した。この境内都市を支えたのは周囲の村々から出家して寺に入った人々であり、子院は彼らが生活を送った場所であった。そしてそこでは、僧侶たちが「衆議」と呼ばれた話し合いによって民主的な運営がなされていた。地域に根差した僧侶と村民の絆、寺と地域のつながりは、現在も祭礼を協働して行うなど、相互の係わりを深めている。
この両寺院の隆盛は、金堂などの建物、仏像、美術工芸など多くの歴史文化遺産を今に遺し、また、高野街道沿いなどの寺院でも平安期の仏像が安置されている。更に中世に整備された長野神社、烏帽子形八幡神社の社殿と共にタイマツタテや勧請縄かけなどの神事も村々の人たちによって護り継がれている。

加えて紀州勢からの砦となった烏帽子形城跡は現在も良好な形で土塁、横堀が残り、市街地にあるため見学が容易な史跡として地元住民にも親しまれている。

大阪の都心から30分という都市近郊にありながら、市域の7割が山林という地形的な特徴から、大寺院を支えた中世の風景が破壊されることなく今に留め、また多くの寺社で中世の文化遺産が護り継がれている。河内長野市は、まさに千年にわたり護られてきた中世文化遺産の宝庫であり、訪れる人がまちじゅうで中世を体感できるまちである。

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