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#076 中世に出逢えるまち
烏帽子形城跡
烏帽子形城は、標高約182mの烏帽子形山の山頂部に築城されており、城の東側を石川の支流天見川、西側を石川が北流し、北側で合流している。また、烏帽子形山の東側の山麓を高野街道が、南側を和泉道、高野街道から分岐して大沢街道が通り、和泉国・大和国・紀伊国への交通の要衝に位置している。 史料的には1466年(文正1)に室町幕府管領、河内守護職畠山家の義就と政長の家督争いから始まった内乱で政長方の城として登場している。その後、両畠山氏の戦いの中で1524年(大永4)の合戦でも登場する。戦国時代に入ると畿内の覇権をにぎった三好長慶に対し政長の流れをくむ高政、秋高とが争うが、この永禄年間、元亀年間の合戦にも登場する。そして1584年(天正12)豊臣秀吉の武将中村一氏が一旦廃絶されたこの城を改修したのが最後となった。 現在の城の縄張りはこの最後の改修後の姿であり、北側を除き、約110m四方に二重の横堀がコの字形に巡らされ、また、その内側には主郭があり上下2段の方形曲輪が配されている。横堀の底には敵の侵入を阻止するために2m以上の段差が設けられていた。上段の曲輪の下層からは瓦とともに礎石建物が発見された。瓦葺建物が用いられた山城としては早い時期のもので、中世城郭を研究するうえからも重要なものとなっている。 2012年(平成24)に大阪府の城跡としては70年ぶりに国史跡に指定された。条件がよければ、あべのハルカスなど大阪市内の高層ビルを望むことができ、眺望の良さを体感できる。
交通・流通の要衝の地で、高野街道を見渡せる、河内国と紀伊国の国境近くに築かれた城。
【文責】 河内長野市教育委員会 文化財保護課
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