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#076 中世に出逢えるまち

しせきこんごうじけいだい史跡金剛寺境内

  • 記念物
  • 史跡
  • 平安時代
  • 鎌倉時代
  • 南北朝時代
  • 室町時代
  • 大阪府河内長野市

史跡金剛寺境内  史跡金剛寺境内 

文化財体系 記念物/史跡
年代 平安時代
鎌倉時代
南北朝時代
室町時代
所在地 大阪府河内長野市

概要

金剛寺は奈良時代に、和泉国出身の行基(ぎょうき)が創建した。一時衰退したが、同じく和泉国出身の阿観(あかん)によって、1171年から1175年(承安年間)に再興されている。この時代は後白河上皇(ごしらかわじょうこう)が院政を布いており、大きな影響力を握っていた。政権を掌握する武家は平家から源氏へと移り、時流が大きく変化した時代でもあった。
金剛寺のある天野谷一帯を所有していたのは、土地を拓いた三善右馬允源貞弘(みよしうまのすけみなもとのさだひろ)という武士であった。当時、金剛寺は後白河上皇の妹である八条女院(はちじょうにょいん)の祈願所であり、鳥羽上皇の武者所に属していたこともある貞弘は、天野谷の土地を金剛寺に寄進し、これにより金剛寺は経済的な基盤ができた。
しかし源平の戦いが起こると、地元の庇護者であった貞弘は、平家方につく。そして砺波山(となみやま)の戦い( 倶利伽羅峠(くりからとうげ)の戦い)で木曽義仲(きそよしなか)と戦って戦死すると、その隙をついて、河内源氏の石川義兼(いしかわよしかね)が天野谷に進出した。これに対して金剛寺は八条女院を通じ、義兼を退去させるよう鎌倉幕府に訴え、これを受けて義兼は、天野谷を金剛寺に返還するよう命じられ、金剛寺領が確立した。
八条女院は鳥羽上皇の皇后で寵姫(ちょうき)の美福門院(びふくもんいん)を母とし、父上皇に大変慈しまれたと言われている。両親から荘園220ヶ所を相続したうえ、後白河天皇の皇子である二条天皇(にじょうてんのう)の准母(じゅんぼ)や、第3皇子であった以仁王(もちひとおう)の猶母(しょうぼ)も務めた。准母は生母と同等の地位をもつ女性、猶母は後見人となる女性のことで、未婚ながら天皇の母と同じ格式を得ていたことから、八条女院は当時の朝廷では一番裕福で、影響力の強い女性だったと言えるだろう。さらにこの女院に使える女房が、阿観に帰依して院主となったことなどから、金剛寺は女人高野と呼ばれるようになり、大きな後ろ盾を得た。ちなみに多宝塔の下から発見された白磁の骨壺の主は、八条女院とも言われている。八条女院の関係する祈願所や荘園は皇室に代々伝えられ、後醍醐天皇へと引き継がれた。このようなことから、金剛寺と後醍醐天皇そして南朝が深く結びついたと考えられる。

ストーリーの位置づけ

かつて周囲の領地を支配していた大寺院の一つ。築地塀に囲まれた中心伽藍は境内の心臓部であり、様々に彩られた金堂や多宝塔が存在する。

【文責】 河内長野市教育委員会 文化財保護課

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