「いざ、鎌倉」~歴史と文化が描くモザイク画のまちへ~STORY #025

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「いざ,鎌倉」 「いざ,鎌倉」
鶴岡八幡宮 「いざ,鎌倉」 「いざ,鎌倉」
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鎌倉文学館 「いざ,鎌倉」 「いざ,鎌倉」
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ストーリーSTORY

鎌倉は、源頼朝によって幕府が開かれた後、
急速に都市整備が進められ、
まちの中心には鶴岡八幡宮、山には切通、
山裾には禅宗寺院をはじめとする大寺院が造られた。
この地に活きた
武士たちの歴史と哀愁を感じられる古都鎌倉は、
近世には信仰と遊山の対象として脚光を浴び、
近代には多くの別荘が建てられたが、
歴史的遺産と自然とが調和したまちの姿は
守り伝えられてきた。
このような歴史を持つ古都鎌倉は、
自然と一体となった中世以来の社寺が
醸し出す雰囲気の中に、
各時代の建築や土木遺構、鎌倉文士らが残した
芸術文化、生業(なりわい)や行事など様々な要素が、
まるでモザイク画のように組み合わされた
特別なまちとなったのである。

鎌倉幕府の成立

鎌倉は、12世紀末に源頼朝が幕府を開き、貴族社会から武家社会への転換という、革命的な変化が起きた舞台であり、本格的な武家政権が誕生した地である。

鶴岡八幡宮 鶴岡八幡宮

鎌倉は、政権所在地となって以降、幕府によって急速に都市整備が進められた。南が海、三方を山に囲まれた内側には、まちの中心及び基軸として、政権の守護神鶴岡八幡宮とその参道の若宮大路が建設され、山には内外を結ぶために尾根を垂直に掘り下げた「切通」と呼ばれる道が開削された。また、切通近辺の山裾には、大寺院が建立されるなど、鎌倉のまちの基本構造はこの時代にほぼ確立した。
さらに、幕府は宗教政策にも積極的に取り組んだ。特に禅宗は、坐禅と問答によって悟りを開こうとする修行の形式が武士の趣向に合ったことや、茶や美術工芸など当時の最先端を行く中国文化を伴っていたことから手厚く保護され、多くの禅宗寺院が建立された。

中世都市鎌倉は、幕府滅亡後も室町幕府の東国支配の拠点(鎌倉公方)として大いに繁栄したが、公方の移転に伴って徐々に衰退し、戦国時代には静かな農漁村となった。

鎌倉観光の先駆け

寒村となった鎌倉にあっても、社寺は時の権力者が鎌倉を武家政権発祥の聖地として保護し続けたことから、唯一命脈を保った。特に、徳川家康をはじめとする江戸幕府の将軍家は源氏を称したため、源氏の棟梁である頼朝が造った鎌倉を重視し、鶴岡八幡宮や建長寺などの社寺の復興に尽力した。

さらに、江戸時代中期以降、歌舞伎や浄瑠璃の演目あるいは地誌などで取り上げられ、七里ヶ浜から江ノ島や富士山を望む浮世絵が頻繁に描かれるようになると、鎌倉は庶民に広く知られるところとなった。そして、頼朝ゆかりの古都、多くの社寺がある名所として、鎌倉は信仰と遊山の対象となり、江戸近郊のいわば観光地となっていった。中でも若宮大路は、その沿道に遊山客を対象とした商店、茶屋、旅籠などが軒を連ね、大いに賑わった。

左:建長寺/右:賑わう若宮大路の様子(「諸国道中金の草鞋」より) 左:建長寺/右:賑わう若宮大路の様子(「諸国道中金の草鞋」より)

別荘地鎌倉

江戸時代からの認知度の高さに加え、温暖な気候に恵まれ、遠浅の美しい海岸を持つ鎌倉は、まさに東京近郊のリゾート地としての条件を備えていた。
明治初年、日本医学の発展に尽くし、保養の思想を導入したドイツ人医師ベルツは、七里ヶ浜からの眺めを「日本で一番美しい地点である」と日記に残しているが、そこは東に三浦半島、南に伊豆大島、西に江ノ島、そして遥か彼方には雄大な富士山を望む絶景スポットであり、彼がそう記したのも頷ける。

その後、鎌倉は海浜保養の適地とされ、明治20年(1887年)には由比ガ浜にサナトリウム「海濱院」が建設され、海濱院は翌年「海浜ホテル」となった。この頃から多くの人々を受け入れる体制が整い始め、海水浴は瞬く間にレジャーとして定着し、次第に鎌倉の価値が見直されるようになっていった。

さらに、明治時代中期に東海道線、横須賀線が相次いで開通したこと、御用邸が造営されたことによって、多くの政界人、財界人、官僚、軍人、華族などが訪れるようになり、鎌倉には旧加賀藩前田家別邸(現鎌倉文学館)をはじめとする別荘が建てられた。これを契機に、近代都市としてのまちづくりが進められることになった。

こうした中で、別荘に由来する様々な営みが発展した。日本的な草花の絵柄を中心とした力強い彫刻に、柔らかさと温かみを備えた漆を塗ることを特徴とする「鎌倉彫」は、鎌倉を代表する工芸品であり、土産物や贈答品として重宝されている。これは、仏像や仏具などを製作していた仏師たちが、明治時代に廃仏毀釈によって需要が激減したとき、別荘を構えた上流階級のニーズに合わせ、家具や調度品の製作を主体とするようになり、それが鎌倉彫として広まったものである。

また、別荘に暮らす顧客への品質の高い商品の提供や、別荘を訪問し注文を受け、それぞれの要望に細かく応えるニーズに応える「御用聞き」などのサービスが展開され、鎌倉の商業形態の一つとして確立した。

左:鎌倉文学館(旧前田家別邸)/右:鎌倉彫 左:鎌倉文学館(旧前田家別邸)/右:鎌倉彫

鎌倉文士

別荘地として発展していくにつれ、東京からほど近く最も身近な古都であった鎌倉には、多くの文人墨客が住まうようになり、活発な文芸活動が展開された。当初は白樺派を中心とした作家たちが集住していたが、その後、日本人で初めてノーベル文学賞を受賞した川端康成や、時代小説「鞍馬天狗」で知られる大佛次郎など、志を同じくする者たちが追随し、彼らはやがて「鎌倉文士」と呼ばれるようになった。彼らは、中世以来脈々と続く古都鎌倉の趣に憧憬を抱き、社寺がたたずみ静寂さが漂う谷戸に洋風・和風の住宅を建て文筆活動に励んだ。その作品には鎌倉の社寺やまちなみが数多く登場する。

鎌倉文士は地域にも貢献したが、最も象徴的な出来事は「御谷騒動」である。鎌倉にも昭和35年頃から宅地造成の波が押し寄せ、聖域ともいえる鶴岡八幡宮の裏山「御谷」にまで開発の手が伸びた。この時、彼らは市民や僧侶らと共に開発現場でブルドーザーの前に立ちはだかり、反対運動を行った。結果的に御谷は守られ、これがきっかけとなり古都保存法が制定されたことによって、歴史的遺産と緑とが調和した鎌倉特有の景観が守られることとなった。

ぼんぼり祭 ぼんぼり祭

また、鎌倉文士はかつて夏の風物詩であった「鎌倉カーニバル」や、今も続く鶴岡八幡宮の「ぼんぼり祭」などを発案し、まちを盛り上げた。夕暮れ時、鎌倉在住の作家、画家、書家など各界で活躍する人々が描いたぼんぼりが境内に一直線に灯された様は、中世と近代が融合した象徴的な風情である。
そして、近代の鎌倉では、鎌倉文士のみならず、映画監督の小津安二郎をはじめ、俳優や画家など多くの芸術家も暮らしたことから、古都としての歴史に加え、近代芸術の新たな文化を創出するまちとなった。

歴史と文化が描くモザイク画

頼朝が鎌倉幕府を開いてより800有余年。この地に活きた武士たちの歴史と哀愁を感じられる古都鎌倉は、江戸時代には信仰と遊山の対象として脚光を浴び、明治時代から大正時代には別荘が建てられ、近代都市としてのまちづくりが進められた。そうした中にあっても、歴史的遺産と自然とが調和したまちの姿は、多くの人々によって守り伝えられてきた。

このような歴史を持つ古都鎌倉は、自然と一体となった中世以来の社寺が醸し出す雰囲気の中に、各時代の建築や土木遺構、鎌倉文士らが残した芸術文化、生業や行事など様々な要素が、まるでモザイク画のように組み合わされた特別なまちとなったのである。

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