関門“ノスタルジック”海峡~時の停車場、近代化の記憶~STORY #052
ストーリーSTORY
古来より陸上・海上交通の要衝であった関門地域は、
幕末の下関戦争を契機とした下関・門司両港の開港以降、
海峡の出入口には双子の洋式灯台が設置され、
沿岸部には重厚な近代建築が続々と建設された。
狭隘な海峡を外国船が行き交う景観の中、
日本が近代国家建設へ向け躍動した時代のレトロな建造物群が、
時が停止したかのように現在も残されている。
渡船や海底トンネルを使って両岸を巡れば、
まるで映画のワンシーンに紛れ込んだような、
ノスタルジックな街並みに出会うことができる。
幕末の下関戦争を契機とした下関・門司両港の開港以降、
海峡の出入口には双子の洋式灯台が設置され、
沿岸部には重厚な近代建築が続々と建設された。
狭隘な海峡を外国船が行き交う景観の中、
日本が近代国家建設へ向け躍動した時代のレトロな建造物群が、
時が停止したかのように現在も残されている。
渡船や海底トンネルを使って両岸を巡れば、
まるで映画のワンシーンに紛れ込んだような、
ノスタルジックな街並みに出会うことができる。
関門地域を空から見下ろすと、本州と九州とが互いに手を伸ばし、今にも陸続きになりそうな地形が目に入ります。海峡を挟んだ両岸からは、山々が海にせり出すように対峙し、そこからは大型のタンカーや旅客船が途切れることなく往来する海峡景観とレトロな近代建築が建ち並ぶ街並みを望むことができます。
関門海峡沿岸は、明治から昭和初期にかけて共に急速な発展を遂げ、当時最先端の意匠と技術で建てられた近代建築が現代の街並みの中で大切に残されています。密接な交通網で結びついた海峡両岸の港町は、渡船や海底トンネルを使って気軽に巡ることができます。
関門海峡の歴史地理的位置
古代以来、官道や主要な街道は関門の地で結びつき、多くの人や物資の交流が行われてきました。瀬戸内海と日本海との結節点でもある関門海峡は、陸路と海路の十字路を形成し、幕末には外交や通商を迫るため、西洋諸国の黒船も通過するようになります。
その重要性を理解していた長州藩の志士は、海峡を封鎖し攘夷を実行しました。これを契機に下関戦争が起こり、日本が開国へと舵を切り、歴史の潮流を変えるターニングポイントとなったのです。
国際港湾都市「関門港」の開港と発展
下関戦争で大敗した長州藩は、元治元(1864)年、講和使節に高杉晋作を任命して講和を成立させ、下関港は事実上、開港しました。
海外との玄関口となった関門海峡には、幕府が英国との間で締結した大坂条約(慶応3=1867年)により洋式灯台が設置されることになりました。ブラントン率いる英国人技術者集団が海峡西側の六連島灯台と東側の部埼灯台を設計し、ともに1872年に初点灯され、日本の文明開化と関門海峡を照らし始めたのです。この双子の洋式灯台の灯に導かれて、江戸時代から北前船の寄港地であった下関港と、背後に筑豊炭田という石炭の一大供給地と若松という石炭中継地を抱えた門司港は、共に特別輸出港や大陸との定期航路の寄港地に指定され、国際港湾都市として一躍注目を集めることとなります。
海外との玄関口となった関門海峡には、幕府が英国との間で締結した大坂条約(慶応3=1867年)により洋式灯台が設置されることになりました。ブラントン率いる英国人技術者集団が海峡西側の六連島灯台と東側の部埼灯台を設計し、ともに1872年に初点灯され、日本の文明開化と関門海峡を照らし始めたのです。この双子の洋式灯台の灯に導かれて、江戸時代から北前船の寄港地であった下関港と、背後に筑豊炭田という石炭の一大供給地と若松という石炭中継地を抱えた門司港は、共に特別輸出港や大陸との定期航路の寄港地に指定され、国際港湾都市として一躍注目を集めることとなります。
そのきっかけは、明治8年(1875)の横浜・神戸‐上海間定期航路の就航であり、その後、朝鮮との貿易港指定を契機に、創業間もない大阪商船株式会社や日本郵船株式会社が進出しました。明治22年(1889)には九州鉄道の開通にともなって門司駅(現門司港駅)が設置され、陸上と海上運輸の集散地として賑わうようになります。
関門地域の国際的な重要性を逸早く見出した駐日英国公使アネスト・サトウの提案により、明治34年(1901)、下関に英国領事館が開設され、その5年後には煉瓦造の下関英国領事館が建てられます。これをきっかけに、明治後期から大正にかけて日本銀行をはじめとする金融、三菱や三井などの商社、鈴木商店の資本による食品工場群などの拠点が続々と関門海峡沿いに開設され、重厚な構造かつ当時最先端の意匠をもった近代建築が林立する街並みが形成されていきました。
関門地域の国際的な重要性を逸早く見出した駐日英国公使アネスト・サトウの提案により、明治34年(1901)、下関に英国領事館が開設され、その5年後には煉瓦造の下関英国領事館が建てられます。これをきっかけに、明治後期から大正にかけて日本銀行をはじめとする金融、三菱や三井などの商社、鈴木商店の資本による食品工場群などの拠点が続々と関門海峡沿いに開設され、重厚な構造かつ当時最先端の意匠をもった近代建築が林立する街並みが形成されていきました。
また、この地域では、伊藤博文が春帆楼においてフグ食を解禁して以来、フグ刺しや鍋、唐揚げ、白子、鰭酒など様々なフグの食べ方を通して地元では幸福をもたらす「ふく」料理と呼ばれて親しまれているほか、海外航路の拡大に伴い、台湾から大量に輸入されたバナナの叩き売りはこの地域の名物となり、現代に伝えられています。
また、この地域では、伊藤博文が春帆楼においてフグ食を解禁して以来、フグ刺しや鍋、唐揚げ、白子、鰭酒など様々なフグの食べ方を通して地元では幸福をもたらす「ふく」料理と呼ばれて親しまれているほか、海外航路の拡大に伴い、台湾から大量に輸入されたバナナの叩き売りはこの地域の名物となり、現代に伝えられています。
「海峡七路」の完成
昭和に入り、海峡の両岸を海底で結ぶ関門鉄道トンネルの建設が計画され、昭和17年(1942)に下り線が、同19年(1944)年に上り線が開通します。この世界最初の海底トンネルの完成により、文字どおり「関門」として立ち塞がっていた海峡が、陸路によって突破されました。その後、車道・人道トンネルの開通、さらに関門橋の架橋により、関門海峡に「海峡七路」と称される多様な交通網が完成します。それまで陸上と海上交通の結節点としての役割を担ってきた関門地域は、本州-九州間の通過点となり、明治から昭和初期にかけての重厚な近代建築群がまるで時が止まったかのように残ることになりました。
関門“ノスタルジック”海峡 ~時の停車場、近代化の記憶~
関門海峡には、外国船がもたらした舶来文化が根付き、狭い海峡を外国船が行き交う景観の中に、日本が近代国家建設へ向け躍動した時代のレトロな建造物群が現在も大切に残されています。「海峡七路」を使って両岸を巡れば、まるで映画のワンシーンに紛れ込んだような、ノスタルジックな街並みに出会うことができます。
【関門“ノスタルジック”海峡 関連情報サイト】 |
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