1400年に渡る悠久の歴史を伝える「最古の国道」~竹内街道・横大路(大道)~STORY #044
ストーリーSTORY
春分と秋分の日、太陽は三輪山から昇り、
二上山を超えて大阪湾に沈む。
このことから、推古天皇 21 年(613 年)に東西の直線で敷設された
幅 20m を越える大道(竹内街道・横大路)は、
太陽の道と言われる。
古代には、大陸からの使節団が難波宮から飛鳥京を訪れ、
先進技術や仏教文化を伝えた。
中世には経済都市を結び、
近世には伊勢参りの宿場町としての賑わいを見せ、
場所ごとに様々な表情を浮かべる。
1400 年の歴史の移り変わりを
周辺の歴史遺産を通して感じさせる日本最古の国道。
それが竹内街道・横大路(大道)なのである。
二上山を超えて大阪湾に沈む。
このことから、推古天皇 21 年(613 年)に東西の直線で敷設された
幅 20m を越える大道(竹内街道・横大路)は、
太陽の道と言われる。
古代には、大陸からの使節団が難波宮から飛鳥京を訪れ、
先進技術や仏教文化を伝えた。
中世には経済都市を結び、
近世には伊勢参りの宿場町としての賑わいを見せ、
場所ごとに様々な表情を浮かべる。
1400 年の歴史の移り変わりを
周辺の歴史遺産を通して感じさせる日本最古の国道。
それが竹内街道・横大路(大道)なのである。
プロローグ ~『太陽の道・龍の道』~
春分と秋分の日の年二回、太陽は三輪山の山頂に昇り、二上山を越えて、大阪湾に沈む。太陽の軌道が、、三輪山と二上山を直線で結び「太陽の道」となる。そして、その道はいつの日か三輪山の大神神社を頭、二上山の長尾神社を尾とする「龍の道」になぞらえられるようになった。古代の王権は、この東西の道に沿うように、三輪山のふもとから百舌鳥野にかけて大王墓としての巨大な前方後円墳を中心とする大小の古墳からなる古墳群を築いた。葺石と土製の埴輪で飾られ、白く輝いていた古墳は、時を経て緑の木々に覆われた山に姿を変えた。街道沿いの白鳥陵古墳は水をたたえた濠に古墳の緑が映えて美しく、道ゆく人たちを楽しませる。竹内街道・横大路(大道)はまさにこの地に築かれ、常に歴史の舞台を見つめてきた。
「国道」の誕生 『難波より京に至るまでに大道を置く』
竹内街道・横大路(大道)は推古天皇21年(613)に外交の玄関口である難波津と政治の中心である飛鳥・小墾田宮をむすぶ「大道」として整備された総延長40kmにもおよぶ我が国最古の国道である。
大道は難波京朱雀大路よりまっすぐ南下する難波大道、堺から河内を抜ける竹内街道、さらには奈良盆地を東西に走る横大路から飛鳥にいたる上・中・下の三つの道から構成される。
その後、この道を基準にして藤原京も造営され、今もなお東西南北の地割として残る。なかでも橿原市八木町では、古代と同じ24mの道幅で道路が敷かれているため、当時の道の大きさを今も実感できる。
この道を通して中国や朝鮮半島からの外交使節、遣隋使・遣唐使によって多くの文物がもたらされた。それとともに仏教が伝来し、聖徳太子らによって多くの仏教寺院が道沿いに建立された。野中寺や西琳寺では、飛鳥時代の塔跡の基壇礎石を見ることができる。聖徳太子ゆかりの四天王寺や叡福寺では、広大な寺域に荘厳な伽藍があり、當麻寺では、日本に唯一現存する天平時代の双塔式伽藍を拝観できる。さらにこれらの寺院では、古式ゆかしい祭事が一年を通じて催されている。その代表的なものは四天王寺で行われる聖霊会の舞楽や當麻寺で行われる練供養会式があり、古代の雰囲気を体感できる。
大道は難波京朱雀大路よりまっすぐ南下する難波大道、堺から河内を抜ける竹内街道、さらには奈良盆地を東西に走る横大路から飛鳥にいたる上・中・下の三つの道から構成される。
その後、この道を基準にして藤原京も造営され、今もなお東西南北の地割として残る。なかでも橿原市八木町では、古代と同じ24mの道幅で道路が敷かれているため、当時の道の大きさを今も実感できる。
この道を通して中国や朝鮮半島からの外交使節、遣隋使・遣唐使によって多くの文物がもたらされた。それとともに仏教が伝来し、聖徳太子らによって多くの仏教寺院が道沿いに建立された。野中寺や西琳寺では、飛鳥時代の塔跡の基壇礎石を見ることができる。聖徳太子ゆかりの四天王寺や叡福寺では、広大な寺域に荘厳な伽藍があり、當麻寺では、日本に唯一現存する天平時代の双塔式伽藍を拝観できる。さらにこれらの寺院では、古式ゆかしい祭事が一年を通じて催されている。その代表的なものは四天王寺で行われる聖霊会の舞楽や當麻寺で行われる練供養会式があり、古代の雰囲気を体感できる。
古代を感じることができるもう一つの舞台は、大阪と奈良の境にある二上山を越える太子町から葛城市までの道中である。岩屋峠はサヌカイトや凝灰岩の産地として知られており、日本では珍しい石窟寺院である、鹿谷寺と岩屋窟がひっそりと建つ。また二上山の麓の太子町は、敏達天皇、用明天皇、推古天皇、孝徳天皇、そして聖徳太子が祀られており、王陵の谷とも呼ばれる。さらにこの地は古来河内飛鳥・近つ飛鳥とも言われ、大和の飛鳥から飛鳥人が往来した道でもある。
「経済の道」 ~海の堺・陸の今井~
脈々と受け継がれてきたこの大道は、時代が下り中世になると、町々を結び物資を運ぶ街道となった。なかでも街道の西端の堺と東端の今井町は、中世における我が国の経済を牽引する二大都市となる。
堺は室町時代に南蛮貿易や日明貿易の港湾都市として大きな経済力を持った。大阪湾に向かって開いた町は、残りの三方に深い濠をめぐらし、自治都市「堺」を築いた。フランシスコ・ザビエルをはじめとする多くのキリスト教宣教師たちがこの地を訪れ、ルイス・フロイスには「日本のヴェニス」とまで言わしめた。また堺は金属鋳造技術の拠点としても名をはせた。竹内街道と中高野街道の交差する付近(旧河内国八上郡、丹南郡)には、「河内鋳物師」とよばれる技術者がおり、鎌倉時代には東大寺の大仏の修復や鎌倉大仏の鋳造に関わった。
堺は室町時代に南蛮貿易や日明貿易の港湾都市として大きな経済力を持った。大阪湾に向かって開いた町は、残りの三方に深い濠をめぐらし、自治都市「堺」を築いた。フランシスコ・ザビエルをはじめとする多くのキリスト教宣教師たちがこの地を訪れ、ルイス・フロイスには「日本のヴェニス」とまで言わしめた。また堺は金属鋳造技術の拠点としても名をはせた。竹内街道と中高野街道の交差する付近(旧河内国八上郡、丹南郡)には、「河内鋳物師」とよばれる技術者がおり、鎌倉時代には東大寺の大仏の修復や鎌倉大仏の鋳造に関わった。
戦国時代から江戸時代には、堺では鉄砲や刀が生産され、現在、包丁をはじめとする堺刃物に伝わったともされており、世界的にも有名である。今でも鉄砲鍛冶屋敷や江戸時代の町家が残り、打刃物を鍛える音が響く。さらに利休が堺から広めた「茶の湯」文化の影響が今も随所に残り、老舗の和菓子店が街歩きの楽しみにアクセントを添えてくれる。
街道沿いには、一向宗本願寺の進出によりいくつかの寺内町が形成された。中でも今井町は、戦国時代に称念寺の寺内町となり、堺同様に、堀に囲まれた自治都市が築かれた。織田信長に抵抗を続けていたが、その後、降伏し、明智光秀や堺の豪商の仲介を経て和解すると、信長によって自治権が与えられ、大和の経済の中心地へと成長した。
このように両町は東南アジア諸国との交易等を通して密接に結びつき、「海の堺、陸の今井」として、戦国時代~江戸初期の日本経済を築き上げた。
このように両町は東南アジア諸国との交易等を通して密接に結びつき、「海の堺、陸の今井」として、戦国時代~江戸初期の日本経済を築き上げた。
「信仰の道」 ~伊勢参り~
江戸時代になると、街道は大阪と奈良から伊勢へと繋ぐ伊勢神宮参拝の「お蔭参り」の道へとその役割を変化させていった。今でも太子から葛城にいたる道中には、その要所にお参りのための神社や伊勢への道しるべとなる灯篭、道標が残り、かつてこの街が旅籠や茶屋で賑わっていた面影を残す。
また八木札の辻や今井町は、今も江戸時代の町並みを残し、約500棟の伝統的建造物が並ぶ。街なかでは、古民家を活用した宿泊施設やカフェなどが、旅人に憩いを与えてくれる。
このように江戸時代以降、この街道は庶民の信仰の道として賑わい、人々のさまざまな想いを運ぶ役割を果たしていたのだ。
このように江戸時代以降、この街道は庶民の信仰の道として賑わい、人々のさまざまな想いを運ぶ役割を果たしていたのだ。
エピローグ
かつて聖徳太子は隋の皇帝煬帝に宛てて「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。」と書いた国書を小野妹子に託した。飛鳥の都から難波を経て遣隋使を送り、また、大陸からの使者を迎えたこの道は、脈々と流れる歴史の中で様々な「人」「物」「文化」が行き交い、時代に応じて少しずつその役割を変えつつも今も活き続ける。
道沿いの歴史遺産を通して1400年もの歴史の移り変わりを感じ、私たちを時間旅行へと誘う道。それが竹内街道と横大路なのである。
道沿いの歴史遺産を通して1400年もの歴史の移り変わりを感じ、私たちを時間旅行へと誘う道。それが竹内街道と横大路なのである。
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