絶景の宝庫 和歌の浦STORY #046
ストーリーSTORY
潮が引けば干潟が現れ刻一刻と輝きながら変化し、
潮が満ちれば一面の海となり、陽光をうけて古い石橋が影を落とす。
入り江を取り巻く山の桜が寺社を彩り、
潮入りの庭園を新緑が包み、紅葉の峠越しにみる入り江は碧く、
風景にとけこんだ町並みに色鮮やかな祭礼行列が練り歩く。
ここ和歌の浦の情景は一時として同じではない。
このまま持ち帰りたいと万葉歌人は和歌にうたい、
和歌の神様がこの地に宿った。
そして数多くの文化芸術を育んできた歴史の厚みを湛え、
和歌の浦は今も人々を魅了している。
潮が満ちれば一面の海となり、陽光をうけて古い石橋が影を落とす。
入り江を取り巻く山の桜が寺社を彩り、
潮入りの庭園を新緑が包み、紅葉の峠越しにみる入り江は碧く、
風景にとけこんだ町並みに色鮮やかな祭礼行列が練り歩く。
ここ和歌の浦の情景は一時として同じではない。
このまま持ち帰りたいと万葉歌人は和歌にうたい、
和歌の神様がこの地に宿った。
そして数多くの文化芸術を育んできた歴史の厚みを湛え、
和歌の浦は今も人々を魅了している。
芸術を育んだ絶景和歌の浦
和歌の浦は、和歌川の河口に広がる干潟を中心に、南は熊野古道の藤白坂から、西は紀伊水道に面する雑賀崎までの、和歌浦湾を取り巻く景勝の地である。万葉の時代にこの思わず持ち帰りたいほどの情景が和歌にうたわれ、和歌の神がまつられ、唯一無二の和歌の聖地となった。
その情景が和歌と絵画に融合した和歌浦十景は、潮が満ち干潟から鳥が飛び立つ様、春霞の干潟越しにみる寺社を抱く山並み、紅葉の峠越しに見下ろす波穏やかな入り江など、うたわれ絵になってきた絶景を、今も訪れる人々に教えてくれる。自然と文化が調和した和歌の浦の絶景は、日本人の精神文化の源ともいえる和歌に始まり、いつの時代も人々を魅了し、様々な芸術を育んできた。
和歌の聖地和歌の浦の誕生
1300年前の奈良時代、聖武天皇は、即位の年という特別な機会に、当時「若の浦」と記されたこの地を訪れた。遠くに名草山を望み、目の前で刻々と変化する干潟の広がりと、そのなかで沖に向かって連なる玉津島山のながめに感動し、この地の神・明光浦霊に祈りをささげ、そしてこの景色を末永く守るよう命じた。歌聖・山辺赤人の「若の浦に潮満ちくれば潟を無み葦辺を指して鶴鳴なき渡る」(若の浦に潮が満ちて干潟が見えなくなり、干潟にいた鶴が一斉に飛び立ち、葦のはえる岸辺へ鳴きながら飛んでいく)という、躍動感あふれる情景を見事に描きだした歌が、その時の天皇の感動を表している。
この歌が平安時代、紀貫之により和歌の聖典といわれる『古今和歌集』で改めて取り上げられたことが、「若の浦」が和歌の聖地となる第一歩であった。「若」の浦が転じて「和歌」の浦となり、美しさが衣を通して輝いたという和歌の名人・衣通姫が和歌の神として玉津島にまつられ、和歌の聖地として崇あがめられたのである。古代から中世にかけて、時の関白・大臣までもが、熊野参詣や西国巡礼の道すがら、名高い和歌の浦を観光し、また和歌や物語など様々な文芸作品に取りあげていった。
この和歌の浦に象徴された和歌の世界は、玉津島の神をまつり、六義園のような和歌の浦を模した庭園を造ることで、京や江戸にも広がっていった。文化人たちは和歌の浦にあこがれ続けてきたのである。
この歌が平安時代、紀貫之により和歌の聖典といわれる『古今和歌集』で改めて取り上げられたことが、「若の浦」が和歌の聖地となる第一歩であった。「若」の浦が転じて「和歌」の浦となり、美しさが衣を通して輝いたという和歌の名人・衣通姫が和歌の神として玉津島にまつられ、和歌の聖地として崇あがめられたのである。古代から中世にかけて、時の関白・大臣までもが、熊野参詣や西国巡礼の道すがら、名高い和歌の浦を観光し、また和歌や物語など様々な文芸作品に取りあげていった。
この和歌の浦に象徴された和歌の世界は、玉津島の神をまつり、六義園のような和歌の浦を模した庭園を造ることで、京や江戸にも広がっていった。文化人たちは和歌の浦にあこがれ続けてきたのである。
天下人や藩主もほれこんだ、和歌の浦の絶景
中世末、豊臣秀吉は、紀州攻めの際に古来の景勝・和歌の浦を遊覧し、その名にちなんで北方の岡山に建てた城を和歌山城とし、その城下が和歌山とよばれるようになった。こうして「和歌」の名は、現在の県名にまで引きつがれ、和歌山の誇りとなっている。
400年前の江戸時代、徳川家康の十男頼宣が和歌山へ入国すると、和歌の浦の北西にそびえる権現山に父家康をまつる東照宮を、干潟に浮かぶ妹背山に母お万の方をしのぶ多宝塔を建てた。そして妹背山に三断橋をかけて観海閣を設け、干潟の移ろいを楽しむ場として民衆に開放した。また東の対岸、紀三井寺からの渡し舟で、西国巡礼の旅人を和歌の浦へと誘った。頼宣が始めた紀州東照宮の例大祭・和歌祭では、和歌の浦を背景に渡御行列が練り歩き、民衆も楽しんだ。名所に民衆が自由に集い楽しむ場が設けられたのは、和歌の浦が始まりである。
また和歌の浦の景勝をいかして、優れた庭園が造られた。紀州藩主随一の文化人・10代藩主徳川治宝が、西の高津子山を借景として造園した養翠園は、江戸の浜離宮と同じく珍しい潮入りの大名庭園である。園内には茶室を設け、和歌の浦をかたどった菓子や茶器もつくられた。南東の琴ノ浦では、近代になって温山荘庭園が築かれた。和歌の浦を見下ろす船尾山を借景とした池泉回遊式の庭園には、皇族や大臣も訪れ、関西を代表する名園となっている。
400年前の江戸時代、徳川家康の十男頼宣が和歌山へ入国すると、和歌の浦の北西にそびえる権現山に父家康をまつる東照宮を、干潟に浮かぶ妹背山に母お万の方をしのぶ多宝塔を建てた。そして妹背山に三断橋をかけて観海閣を設け、干潟の移ろいを楽しむ場として民衆に開放した。また東の対岸、紀三井寺からの渡し舟で、西国巡礼の旅人を和歌の浦へと誘った。頼宣が始めた紀州東照宮の例大祭・和歌祭では、和歌の浦を背景に渡御行列が練り歩き、民衆も楽しんだ。名所に民衆が自由に集い楽しむ場が設けられたのは、和歌の浦が始まりである。
また和歌の浦の景勝をいかして、優れた庭園が造られた。紀州藩主随一の文化人・10代藩主徳川治宝が、西の高津子山を借景として造園した養翠園は、江戸の浜離宮と同じく珍しい潮入りの大名庭園である。園内には茶室を設け、和歌の浦をかたどった菓子や茶器もつくられた。南東の琴ノ浦では、近代になって温山荘庭園が築かれた。和歌の浦を見下ろす船尾山を借景とした池泉回遊式の庭園には、皇族や大臣も訪れ、関西を代表する名園となっている。
左:関西の日光といわれる紀州東照宮/右:今にうけつがれる和歌祭(面掛行列)
和歌浦十景にみる、うたわれ絵になる絶景
和歌浦十景は、干潟と玉津島を中心として、様々な方向からうたわれ絵になってきた和歌の浦の風景の広がりを教えてくれる。
南の藤白坂を登れば、北には万葉集にうたわれた黒牛潟、和歌の浦、雑賀崎から、はるか淡路島・四国まで変化に富んだ絶景が広がる。万葉の時代にここで処刑された悲劇の皇子・有間皇子が最後に見たのは、紅葉に彩られた峠越しの和歌の浦の海であった。そして熊野参詣の貴族たちが、都から山道が続く紀伊路で初めて海を望める所として、和歌の浦をながめながら歌会や舞楽を催した。
干潟の東、夕陽をあびて満潮の水面に映える名草山の中腹には、西国三十三所巡礼の第二番札所・紀三井寺がある。かつて俳聖・松尾芭蕉は過ぎゆく春の名残を求めて和歌の浦を訪れた。春、この境内には桜が咲き誇り、西をながめれば春霞の干潟に玉津島の岩山が並ぶ。
和歌の浦一円の鎮守であり、文芸の神をまつる和歌浦天満宮が鎮座する天神山は、和歌の浦の北西、入り江の最も奥にそびえている。色彩豊かな社越しに入り江を見下ろせば、緑濃い松林と石橋の間に釣り舟が見えかくれし、風景の一部のような人々の営みが目に映る。
和歌にうたわれ、和歌の文化を育み、芸術の源泉となった和歌の浦。この地は、うたわれ絵になる絶景の宝庫として人々を魅了し続けている。
南の藤白坂を登れば、北には万葉集にうたわれた黒牛潟、和歌の浦、雑賀崎から、はるか淡路島・四国まで変化に富んだ絶景が広がる。万葉の時代にここで処刑された悲劇の皇子・有間皇子が最後に見たのは、紅葉に彩られた峠越しの和歌の浦の海であった。そして熊野参詣の貴族たちが、都から山道が続く紀伊路で初めて海を望める所として、和歌の浦をながめながら歌会や舞楽を催した。
干潟の東、夕陽をあびて満潮の水面に映える名草山の中腹には、西国三十三所巡礼の第二番札所・紀三井寺がある。かつて俳聖・松尾芭蕉は過ぎゆく春の名残を求めて和歌の浦を訪れた。春、この境内には桜が咲き誇り、西をながめれば春霞の干潟に玉津島の岩山が並ぶ。
和歌の浦一円の鎮守であり、文芸の神をまつる和歌浦天満宮が鎮座する天神山は、和歌の浦の北西、入り江の最も奥にそびえている。色彩豊かな社越しに入り江を見下ろせば、緑濃い松林と石橋の間に釣り舟が見えかくれし、風景の一部のような人々の営みが目に映る。
和歌にうたわれ、和歌の文化を育み、芸術の源泉となった和歌の浦。この地は、うたわれ絵になる絶景の宝庫として人々を魅了し続けている。
左:西国巡礼の桜の名所・紀三井寺/右:天神山に鎮座する和歌浦天満宮
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