海と都をつなぐ若狭の往来文化遺産群~御食国(みけつくに)若狭と鯖街道~STORY #005

シェアして応援!SHARE

若狭神宮寺 若狭神宮寺 若狭神宮寺
神事「お水送り」 神事「お水送り」 神事「お水送り」

ストーリーSTORY

若狭は、古代から「御食国」として
塩や海産物など豊富な食材を都に運び、
都の食文化を支えてきた地である。
また、大陸からつながる海の道と
都へとつながる陸の道が結節する
最大の拠点となった地であり、
古代から続く往来の歴史の中で、
街道沿いには港、城下町、宿場町が栄え、
また往来によりもたらされた祭礼、芸能、仏教文化が
街道沿いから農漁村にまで広く伝播し、
独自の発展を遂げた。
近年「鯖街道」と呼ばれるこの街道群沿いには、
往時の賑わいを伝える町並みとともに、
豊かな自然や、受け継がれてきた食や祭礼など
様々な文化が今も息づいている。

海と都をつなぐ若狭の往来文化遺産群

日本海にのぞみ、豊かな自然に恵まれた若狭は、古代、海産物や塩など豊富な食材を都に送り、朝廷の食を支えた「御食国」のひとつであり、御食国の時代以降も「若狭の美物(うましもの)」を都に運び、京の食文化を支えてきた。近年「鯖街道」と呼ばれる若狭と都とをつなぐ街道群は、食材だけでなく、様々な物資や人、文化を運ぶ交流の道であった。朝廷や貴族との結びつきから始まった都との交流は、「鯖街道」の往来を通じて、市民生活と結びつき、街道沿いに社寺・町並み・民俗文化財などによる全国的にも稀有なほど多彩で密度の高い往来文化遺産群を形成した。

「鯖街道」をたどれば、古代から現在にかけて1500年続く往来の歴史と、伝統を守り伝える人々の営みを肌で感じることができる。

若狭街道 ―御食国若狭の原点と鯖街道のメインルート―

若狭と畿内を結んだ街道、いわゆる鯖街道のうち、最大の物流量を誇った若狭街道沿いには、古代の首長墳墓群から近世の宿場町まで、御食国若狭と鯖街道を代表する文化財が点在している。

若狭は古墳時代、宮中の食膳を司る膳臣(かしわでのおみ)が治めた国であるといわれ、「御贄みにえ」や「御調塩ごちょうえん」を都に貢納する御食国のひとつであった。膳臣一族の奥おく都城つきとされる脇袋古墳群をはじめとする古墳群は近江国との国境に源流を持つ北川沿いに築かれており、北川沿いに開発された若狭街道では、古墳群に囲まれるように都との往来が脈々と行われている。

若狭街道は軍事上も大きな役割を果たしており、戦国時代には、織田信長が豊臣秀吉や徳川家康を引き連れ、この街道から越前朝倉攻めに向かった。後の天下人たちが意気揚々と通った出世街道ともいえる道である。

近世中期以降、街道最大の中継地となった熊川宿では問屋たちが、小浜の仲買が送り出した大量の物資を馬借や背負に取り次ぎ、京都などに運ばせた。一日千頭の牛馬が通ったとも言われる宿場町は馬借や背負で大いに賑わった。現在も塗り壁の商家や土蔵など多数の伝統的建造物がのこる旧街道筋では、神社の祭りには豪勢な山車が繰り出し、盆には京都から伝わった盆踊りが踊られるなど当時の宿場の賑わいを伝えている。

重要伝統的建造物群保存地区若狭町熊川宿

街道沿いの集落には道標や街道松などの遺物が点在するほか、六斎念仏や祇園祭、地蔵盆など京都伝来の民俗行事が守り伝えられており、街道の歴史的景観を彩っている。

鯖街道の起点 ―湊町・小浜の賑わい―

街道の起点である湊町・小浜は、海外や日本海沿岸各地とつながる「海の道」と、都とつながる「陸の道」の結節点として、様々な物資や人、文化が集まる一大港湾都市であった。室町初期には象やクジャクなど珍奇な動物を積んだ南蛮船が日本で初めて上陸し、京都までの街道をひと月かけて運ばれた珍獣たちは、人々を大いに驚かせたという。

大きな交易利得を誇った小浜湊は、中世には禁裏きんり御料所ごりょうじょともなっており、宮中や都と間に深いつながりを持っていた。歴代の国主や廻船業で栄えた豪商たちのもと、津軽十三とさ湊みなとの安倍氏など北方交易の人々も加わり、国内外との盛んな交易や文化交流が展開されていた。近世初頭には、小浜藩主京極高次によって小浜市場が整備され、流通の一大拠点が築かれた。「鯖街初めて象が来た港の図(小浜市蔵)重要伝統的建造物群保存地区若狭町熊川宿道」という通称は、この市場の記録「市場仲買文書」に残る「生鯖塩して担い京に行き仕る」という一文に由来するといわれる。「一塩」された若狭の海産物は、京都に運ばれ「若狭もの」、「若狭一汐」として珍重され、今に至っている。

この地域には、廻船問屋の豪奢な邸宅・庭園や、桃山時代の世界図及日本図屏風、南蛮渡来の工芸技術に倣って発展した若狭塗などが伝わっているほか、近世の商人町・小浜西組を中心とする城下町では、京都祇園祭の系譜をひく小浜放生祭の華やかな山車や芸能が繰り広げられ、南蛮貿易や日本海交易で繁栄した湊町・小浜の雰囲気を今に伝えている。

針畑越え ―最古の鯖街道の歴史的景観―

針畑峠

最大の物流量を誇った若狭街道に対し、古代、若狭国府が置かれた遠敷の里から、針畑峠を越えて朽木を経由し、京都鞍馬に向かう針畑越えの道は、険しい道のりではあるが若狭と京都を結ぶ最短ルートとして盛んに利用された。
若狭人たちは、一塩した鯖を背負い、「京は遠ても十八里」、京都まで遠いとはいってもせいぜい十八里(72キロ)と言いながら、急峻な峠をせっせと越えていったという。ブナ林が広がる近江との国境・上根来の山中には、かつて峠を行きかった人々の足跡によって深くえぐられた山道が続き、山道に残された石積みの井戸や地蔵などが、旧街道の風情を色濃く示している。

また、この道には、峠を越えて若狭にやってきた兄弟神、海彦・山彦の伝説が語り継がれおり「一番古い鯖街道」とも言われている。峠を越えて先に若狭に鎮座した弟神は、街道沿いの若狭彦神社に奉られ、遠敷の神様が東大寺二月堂の創建に際して若狭の水を送ったという伝説にちなんだ神事、お水送りも現在に伝わっている。街道沿いにはお水送りを行う若狭神宮寺のほか、若狭国分寺や多田寺、明通寺など、天皇や貴族に庇護された、創建を古代に遡る古刹・仏像が集積しており、奈良・京都とのつながりを色濃く示す歴史的景観を形成している。

若狭の浦々に続く鯖街道 ―都の祭りや伝統を守り伝える集落―

中世、湊町として栄えた気山から若狭街道までを結ぶ丹後街道や、古くから廻船や漁業で栄えていた田烏浦から若狭街道へと抜ける鳥羽谷もまた、諸国から運ばれた物資や、若狭湾や三方五湖の幸を熊川経由で都に運んでいる。田烏をはじめとする若狭の浦々では、豊富にとれた鯖などの海産物を長期食用するために発達した「へしこ」や「なれずし」などの加工技術が、街道の歴史の中ではぐくまれ、独特の食文化として今も生きている。

これらの街道沿いの集落には、王の舞や六斎念仏など都から伝わった民俗行事が数多く残っており、それぞれ集落ごとの特色を加えながら守り伝えられている。王の舞の多くは4月初旬から5月にかけて行われ、若狭の春の風物詩として親しまれている。小浜から南川沿いに南下し、京都にいたる周山街道沿いの集落では京都の愛宕神をまつる火伏せの祭り松上げが行われており、次々に投げ上げられる松明の炎が若狭の夏の終わりを彩っている。

都との往来を通じてもたらされ、若狭に広く根付いた民俗行事は、現在も四季折々に行われ、若狭独特の歴史的景観を形成している。

左上:若狭の王の舞群(宇波西神社の神事芸能)/右上:奥窪谷の六斎念仏/左下:松上げ/右下:地蔵盆

ページの先頭に戻る