「信長公のおもてなし」が息づく戦国城下町・岐阜STORY #006

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岐阜城からの眺め 岐阜城からの眺め 岐阜城からの眺め
岐阜城からの夜景 岐阜城からの夜景 岐阜城からの夜景
長良川の鵜飼漁の技術 長良川の鵜飼漁の技術 長良川の鵜飼漁の技術
正法寺(岐阜大仏) 正法寺(岐阜大仏) 正法寺(岐阜大仏)
船上の遊宴文化 船上の遊宴文化 船上の遊宴文化
岐阜まつり 岐阜まつり 岐阜まつり

みどころspot

  • 岐阜善光寺

    まちの名所でおもてなし ー岐阜善光寺ー

     戦国時代、信濃の善光寺如来は、信長公により一時期岐阜に迎えられていました。本能寺の変後は、所在を転々としたのちに信濃に戻りますが、信長公の孫の秀信公はこの地にお堂を建立し、善光寺如来のご分身を祀ったといわれています。
     当時、善光寺如来は岐阜城下町の名所として知られていたようで、永禄12年(1569)に岐阜を訪れた京都の公家・山科言継(やましなときつぐ)は、滞在中に2度ほどお参りに訪れています。

    関連する構成文化財
    ・善光寺安乗院【国重要文化的景観】

    岐阜市観光情報 岐阜善光寺

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  • 法華寺

    まちの名所でおもてなし -法華寺-

      矢島町の法華寺は日蓮宗の寺院で、信長公の岐阜入城後に清須から移転したと伝えられています。
     京都の公家・山科言継(やましなときつぐ)は、後奈良天皇13回忌の費用を集めるために岐阜の信長公のもとを訪れ、永禄12年(1569)の7月から8月にかけて1か月以上滞在しますが、善光寺如来と同じく法華寺にも2回訪れています。

    関連する構成文化財
    ・法華寺

    エエトコタント岐阜市 法華寺の地図

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  • 御薗の榎

    まちの名所でおもてなし -御薗の榎-

     信長公在城時、楽市場の入り口に市を守る神として植えられていたとされる榎です。明治時代初め頃に現在の場所に移され世代交代をしていますが、当時のまちのにぎわいを物語っています。
     ポルトガルの宣教師ルイス・フロイスは岐阜来訪の際、多くの取引・商売をする家に泊まりますが、これが楽市場の近くだったのかもしれません。なお、会話もできないほどうるさかったらしく「バビロンの混雑」と表現しています。また江戸時代、尾張藩の御畳奉行であった朝日文左衛門は、金華山観光をする前に立ち寄っており、「道の真中に古大榎あり」と記しています。

    関連する構成文化財
    ・楽市楽座制札 附 織田信長百姓帰住制札5点【国重要文化財】
    ・御薗の榎【市史跡】

    岐阜市歴史博物館 総合展示室

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  • 岐阜まつり からくり山車

    まちの名所でおもてなし ー伊奈波神社と岐阜まつりー

     天文8(1539)年ごろ、岐阜城築城に伴い斎藤道三公が稲葉山(金華山)にあった伊奈波神社を現在地に移したと伝えられています。
     戦国時代に岐阜を訪れた有力者は城下町の名所を訪れましたが、時期が合えば伊奈波神社の祭礼も見物したことでしょう。江戸時代中期には山車祭りとしての原形が確立したと考えられており、現在は4月第1土曜日に踊山車やカラクリ山車、神輿の練り込みが披露されるなど春の風物詩となっています。

    関連する構成文化財
    ・伊奈波神社
    ・伊奈波神社祭礼に伴う岐阜まつり行事【市重要無形民俗文化財】
    ・山車(伊奈波神社)【市重要有形民俗文化財】

    岐阜市観光情報 伊奈波神社

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  • 妙照寺本堂・庫裏

    城下町に息づくおもてなし空間 -妙照寺-

     妙照寺は日蓮宗の寺院で、慶長5年(1600)に最後の岐阜城主・織田秀信(ひでのぶ・信長公の孫)から竹中半兵衛の旧屋敷跡を寄進され、現在地に移転したと伝えられています。江戸時代には、俳人・松尾芭蕉が妙照寺に約1ヶ月滞在したほか、尾張藩主が岐阜を訪れる際には、藩主の休憩所ともなりました。
     芭蕉は、ここを拠点に金華山登山や鵜飼見物を行い、「おもしろうてやがて悲しき鵜舟かな」 と有名な句を残しています。このように、江戸時代以降も「信長公のおもてなし」のスタイルは受け継がれていきました。

    関連する構成文化財
    ・妙照寺本堂・庫裏【国重要文化的景観・市重要文化財】

    岐阜市観光情報 妙照寺

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