古代日本の「西の都」~東アジアとの交流拠点~STORY #016
ストーリーSTORY
大宰府政庁を中心としたこの地域は、
東アジアからの文化、宗教、政治、人などが
流入・集積するのみならず、
古代日本にとって東アジアとの
外交、軍事の拠点でもあり、
軍事施設や都市機能を建設するのに地の利を活かした
理想の場所であった。
現在においても大宰府跡とその周辺景観は
当時の面影を残し、
宗教施設、迎賓施設、直線的な道や碁盤目の地割跡は、
1300年前の古代国際都市「西の都」を現代において
体感できる場所である。
東アジアからの文化、宗教、政治、人などが
流入・集積するのみならず、
古代日本にとって東アジアとの
外交、軍事の拠点でもあり、
軍事施設や都市機能を建設するのに地の利を活かした
理想の場所であった。
現在においても大宰府跡とその周辺景観は
当時の面影を残し、
宗教施設、迎賓施設、直線的な道や碁盤目の地割跡は、
1300年前の古代国際都市「西の都」を現代において
体感できる場所である。
「西の都」太宰府
日本の西、九州の地にはかつて都があった。それが太宰府である。
1300年前、そこには「大君の遠の朝廷」である大宰府がおかれ(『万葉集』)、「天下之一都会」と呼ばれた(『続日本紀』)。古代・中世を通して、日本の宮都や海外からもたらされる先進文化で彩られていた。
1300年前、そこには「大君の遠の朝廷」である大宰府がおかれ(『万葉集』)、「天下之一都会」と呼ばれた(『続日本紀』)。古代・中世を通して、日本の宮都や海外からもたらされる先進文化で彩られていた。
世界とつながる「西の都」
1300年前、中国の唐王朝が世界帝国として繁栄していた。このため唐の文物・文化・政治システムを周辺諸国は進んで取り入れ、日本も、大宝の遣唐使・粟田真人が唐から先進の情報を持ち帰り、改革を進めた。こうして日本は歴史上もっとも国際色豊かな時代といわれる奈良時代を迎えることとなる。
皇帝に厚遇された粟田真人が見た唐の都長安は、東アジアの先端となる都市であった。彼が収集した情報をもとに平城京と大宰府はつくられた。太宰府にはすでに百済の宮都を模した要塞が築かれていたが、唐の宮都を実際に見た粟田真人が赴任し直接造営に携わることで、「西の都」として新たに生まれ変わったのである。
それは水城や大野城など前代の要塞を利用し、その中に約2km四方にわたって碁盤目の街区(大宰府条坊)を設けた本格的な都城であった。大宰府政庁や関連する役所を街区の北の中央に据え、その前面には朱雀大路を敷設した。その幅は長安城朱雀大街の1/4、平城京朱雀大路の1/2という規格をもち、国内2位の広さを誇っていた。まちには人びとの住まいとともに、官人子弟の教育機関(学校院)、天皇にゆかりのある寺院(観世音寺・般若寺)、迎賓館(客館)など、宮都と同様の施設が備えられた。屋根には都と同じデザインの蓮華文の甍が軒を連ね、粟田真人が唐で見た獅子像と同じ顔の鬼瓦が行き交う人々を見下ろしていた。
皇帝に厚遇された粟田真人が見た唐の都長安は、東アジアの先端となる都市であった。彼が収集した情報をもとに平城京と大宰府はつくられた。太宰府にはすでに百済の宮都を模した要塞が築かれていたが、唐の宮都を実際に見た粟田真人が赴任し直接造営に携わることで、「西の都」として新たに生まれ変わったのである。
それは水城や大野城など前代の要塞を利用し、その中に約2km四方にわたって碁盤目の街区(大宰府条坊)を設けた本格的な都城であった。大宰府政庁や関連する役所を街区の北の中央に据え、その前面には朱雀大路を敷設した。その幅は長安城朱雀大街の1/4、平城京朱雀大路の1/2という規格をもち、国内2位の広さを誇っていた。まちには人びとの住まいとともに、官人子弟の教育機関(学校院)、天皇にゆかりのある寺院(観世音寺・般若寺)、迎賓館(客館)など、宮都と同様の施設が備えられた。屋根には都と同じデザインの蓮華文の甍が軒を連ね、粟田真人が唐で見た獅子像と同じ顔の鬼瓦が行き交う人々を見下ろしていた。
このように太宰府は、東アジアの国際標準の都の仕様で築かれた都市であった。それは、この地を訪れた人々に日本の国際性を目に見える形で示すべく、古代国家が威信をかけて築いた「西の都」だったのである。こうして、外国使節や商人が往来し、舶来の品々が行き交う国際都市が誕生した。
外国使節を迎える都
「西の都」では、外国使節を迎え国家による外交・交易が行われた。使節(賓客)は最初に博多湾岸の筑紫館(鴻臚館)に入り、ここから大宰府に向かった。筑紫館を発った使節は、直線的に伸びる官道を進み、天智朝に築かれた水城の西門に至り、さらに進んで推定羅城門から太宰府の街並みを眺めつつ朱雀大路を北上し、客館に入り滞在した。そして外交儀礼に際しては、威儀をととのえ、客館から朱雀大路を北上し大宰府政庁へ向かった。政庁では楽が流れるなか、儀礼、そしてもてなしの饗宴が行われた。滞在する使節のために日本・唐・新羅の最高級の食器が備えられ、豪華な食が振舞われた。ときに中国将来の喫茶も行われていた。
花開く文化
このような「西の都」太宰府では文化的素養を持った人物が外国の賓客をもてなすためにも求められ、また、人の交流拠点でもあったため鑑真、空海、最澄などの知識人も滞在し、新しい文化が流入、集積していった。例えば平安時代初期の書画詩文に秀でた小野篁は、大宰鴻臚館で唐人と漢詩を唱和し交流を深めている。また、万葉集に収められる大宰府の長官であった大伴旅人邸で行われた「梅花宴」では唐から持ち込まれたばかりの梅の花をめでつつ和歌を披露しあうという新しい文化が生まれた。
その後、梅は菅原道真の伝承とともに、時代を越えて太宰府と関連深い花として親しまれている。太宰府での道真は朱雀大路に面した南館で不自由な生活を送ったとされ、没後太宰府天満宮に祀られるようになると南館と天満宮の間で神幸行事が行われるようになった。現在も続く神幸行事は大宰府条坊など古代の地割を踏襲した道を使って平安絵巻が年に一回秋分の日に展開されている。
先進文化の集積
観世音寺は「西の都」で繰り広げられた交流により多くの文化・文物が集まった姿を今に伝える。観世音寺は、天智天皇が発願し、唐で玄宗皇帝から袈裟を直接賜った玄昉が落慶法要を営んだ官寺である。
5mを超える観世音菩薩像を始め都や大陸文化の影響を受けた彫像が次々と造立されていった。舞楽もおかれ外国使節の饗宴では使者をもてなし、その面が伝わっている。また、鑑真は日本に漂着後、観世音寺に滞在し正式な僧になるための授戒を日本で初めて行った。
5mを超える観世音菩薩像を始め都や大陸文化の影響を受けた彫像が次々と造立されていった。舞楽もおかれ外国使節の饗宴では使者をもてなし、その面が伝わっている。また、鑑真は日本に漂着後、観世音寺に滞在し正式な僧になるための授戒を日本で初めて行った。
そのこともあってか、天下三戒壇のひとつとされ多くの僧を輩出した。授戒を行う戒壇そのものが現在に伝わっている。空海など入唐僧の長期滞在もあり、唐から持帰った経論の書写などがなされていた。さらに、梵鐘は日本最古のものであり、菅原道真が漢詩「不出門」で「観(世)音寺は只 鐘聲を聴く」と詠んだ正にその鐘である。
このように、太宰府は朝廷が外交・交易を行うために設けた「西の都」であった。それは百済の宮都・唐の宮都にならって築かれ、東アジアの先進文化と日本の文化とが行き交う場所であった。その遺産は太宰府の随所にみられ、日本を代表する古都のひとつとして、人々を魅了している。
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