鯨とともに生きるSTORY #032
ストーリーSTORY
鯨は、日本人にとって信仰の対象となる
特別な存在であった。
人々は、大海原を悠然と泳ぐ巨体を畏れたものの、
時折浜辺に打ち上げられた鯨を
食料や道具の素材などに利用していたが、
やがて生活を安定させるため、捕鯨に乗り出した。
熊野灘沿岸地域では、江戸時代に入り、
熊野水軍の流れを汲む人々が
捕鯨の技術や流通方法を確立し、
これ以降、この地域は鯨に感謝しつつ
捕鯨とともに生きてきた。
当時の捕鯨の面影を残す旧跡が町中や周辺に点在し、
鯨にまつわる祭りや伝統芸能、
食文化が今も受け継がれている。
特別な存在であった。
人々は、大海原を悠然と泳ぐ巨体を畏れたものの、
時折浜辺に打ち上げられた鯨を
食料や道具の素材などに利用していたが、
やがて生活を安定させるため、捕鯨に乗り出した。
熊野灘沿岸地域では、江戸時代に入り、
熊野水軍の流れを汲む人々が
捕鯨の技術や流通方法を確立し、
これ以降、この地域は鯨に感謝しつつ
捕鯨とともに生きてきた。
当時の捕鯨の面影を残す旧跡が町中や周辺に点在し、
鯨にまつわる祭りや伝統芸能、
食文化が今も受け継がれている。
鯨は、古来より、日本人にとって富をもたらす神“えびす”であった。浜辺に打ち寄せられた鯨の肉を食し、皮や骨、ひげで生活用品を作るなど、全てを余すことなく利用してきた人々は、この“海からの贈り物”に感謝し崇めながらも、やがて自ら捕獲する道を歩み始める。
熊野灘沿岸地域では、江戸時代初期に組織的な古式捕鯨(網で鯨の動きを止め、銛を打つ漁法)が始まり、地域を支える一大産業に発展した。現在も捕鯨は続けられ、食・祭り・伝統芸能などが伝承され「鯨とともに生きる」捕鯨文化が息づいている。
熊野灘沿岸地域では、江戸時代初期に組織的な古式捕鯨(網で鯨の動きを止め、銛を打つ漁法)が始まり、地域を支える一大産業に発展した。現在も捕鯨は続けられ、食・祭り・伝統芸能などが伝承され「鯨とともに生きる」捕鯨文化が息づいている。
古式捕鯨の歴史
熊野灘沿岸は、背後に急峻な熊野の山々を擁し、橋杭岩(はしくいいわ)などの岩礁が目立つリアス式海岸が続いている。その海岸近くを、黒潮が最大4ノットの速さで南方から北へ向けて流れ、多くの海の幸をもたらしている。
この地域は、鯨が陸の近くを頻繁に回遊すること、またその鯨をいち早く発見することのできる高台、捕った鯨を引き揚げることのできる浜という、古式捕鯨にとって最も重要な地理的要件を備えていた。
そして、人々は古くより生きる糧を海に求めたため、造船や操船に秀で、泳ぎに長けており、海に関する知識が豊富であった。これは、この地域の人々が、古くに熊野水軍として名を馳せ、源平の戦いでは海上戦の勝敗を左右する活躍をしたことなどからもわかる。
江戸時代、この能力を活かし、新たな産業として着手したのが捕鯨である。最大の生物である鯨を捕獲するには、船団を組み、深さ約45mから60mにも及ぶ網で鯨を取り囲み、銛で仕留めるという、他に類を見ない大がかりな漁法が必要であった。命の危険を伴うこの漁は、勇敢さと統一ある行動が求められた。この意味で捕鯨は、水軍で培われた知識と技術が、そのまま有効に活用できる漁であり、その壮大さは「紀州熊野浦捕鯨図屏風」などに生き生きと描かれている。
漁においては、500名を超える人々が役割を分担し、地域を挙げて捕鯨に従事していた。その役割は、鯨を見張り到来を知らせるほか不足資材や漁の状況等の情報の伝達をする者(山見(やまみ))、鯨に網を掛ける者(網舟(あみぶね))、銛を打つ者(羽差(はざし))、仕留めた鯨を運搬する者(持双舟(もっそうぶね))、操業中各舟で不足した資材・食料を運搬する者(納屋舟(なやぶね))、また資材の管理や修繕を行う者(大納屋(おおなや))など多岐に渡っていた。
解体・加工は、「鯨始末(しまつ)係」が担った。鯨始末係は、鯨を引き揚げるために轆轤を回す“頭仲間(かばちなかま)”、解体をする“魚切(うおきり)”、骨や皮などを釜煎りし鯨油を採取する“採油係”などに細分化され、総勢80余名で構成された。彼らは、肉の大半を塩漬けにして樽詰で出荷し、ヒゲや筋は道具の素材とし、採油後の骨や血液の粉、胃の中の食物等は肥料とするなど、持てる知識と技術を発揮し、巨体の全てを活用した。
鯨は、“一頭で七郷が潤う”と言われ、当時セミクジラ1頭で約120両にもなり、年間95頭捕れた天和元年(1681年)には、6,000両を超す莫大な利益をもたらした。このことは、遠く離れた大阪にも伝わり、井原西鶴の著書「日本永代蔵」には、鯨を取って得られる金銀が、使っても減らないほど蓄えられ、檜造りの長屋に200人を超す漁師が住み、船が80隻もあり、鯨の骨で造られた三丈ほどの「鯨鳥居」があるなど、この地域の繁栄ぶりが記述されている。
捕鯨が発展を遂げた背景には、捕鯨という一次産業にとどまらず、解体や加工、鯨舟を造る船大工、銛や剣を作る鍛冶屋、浮き樽を作る桶屋、販売・経営を司る支配所など、二次・三次にも及ぶ広い業種が関わり、地域全体が利益を享受できるシステムを構築していたことが挙げられる。
この地域は、鯨が陸の近くを頻繁に回遊すること、またその鯨をいち早く発見することのできる高台、捕った鯨を引き揚げることのできる浜という、古式捕鯨にとって最も重要な地理的要件を備えていた。
そして、人々は古くより生きる糧を海に求めたため、造船や操船に秀で、泳ぎに長けており、海に関する知識が豊富であった。これは、この地域の人々が、古くに熊野水軍として名を馳せ、源平の戦いでは海上戦の勝敗を左右する活躍をしたことなどからもわかる。
江戸時代、この能力を活かし、新たな産業として着手したのが捕鯨である。最大の生物である鯨を捕獲するには、船団を組み、深さ約45mから60mにも及ぶ網で鯨を取り囲み、銛で仕留めるという、他に類を見ない大がかりな漁法が必要であった。命の危険を伴うこの漁は、勇敢さと統一ある行動が求められた。この意味で捕鯨は、水軍で培われた知識と技術が、そのまま有効に活用できる漁であり、その壮大さは「紀州熊野浦捕鯨図屏風」などに生き生きと描かれている。
漁においては、500名を超える人々が役割を分担し、地域を挙げて捕鯨に従事していた。その役割は、鯨を見張り到来を知らせるほか不足資材や漁の状況等の情報の伝達をする者(山見(やまみ))、鯨に網を掛ける者(網舟(あみぶね))、銛を打つ者(羽差(はざし))、仕留めた鯨を運搬する者(持双舟(もっそうぶね))、操業中各舟で不足した資材・食料を運搬する者(納屋舟(なやぶね))、また資材の管理や修繕を行う者(大納屋(おおなや))など多岐に渡っていた。
解体・加工は、「鯨始末(しまつ)係」が担った。鯨始末係は、鯨を引き揚げるために轆轤を回す“頭仲間(かばちなかま)”、解体をする“魚切(うおきり)”、骨や皮などを釜煎りし鯨油を採取する“採油係”などに細分化され、総勢80余名で構成された。彼らは、肉の大半を塩漬けにして樽詰で出荷し、ヒゲや筋は道具の素材とし、採油後の骨や血液の粉、胃の中の食物等は肥料とするなど、持てる知識と技術を発揮し、巨体の全てを活用した。
鯨は、“一頭で七郷が潤う”と言われ、当時セミクジラ1頭で約120両にもなり、年間95頭捕れた天和元年(1681年)には、6,000両を超す莫大な利益をもたらした。このことは、遠く離れた大阪にも伝わり、井原西鶴の著書「日本永代蔵」には、鯨を取って得られる金銀が、使っても減らないほど蓄えられ、檜造りの長屋に200人を超す漁師が住み、船が80隻もあり、鯨の骨で造られた三丈ほどの「鯨鳥居」があるなど、この地域の繁栄ぶりが記述されている。
捕鯨が発展を遂げた背景には、捕鯨という一次産業にとどまらず、解体や加工、鯨舟を造る船大工、銛や剣を作る鍛冶屋、浮き樽を作る桶屋、販売・経営を司る支配所など、二次・三次にも及ぶ広い業種が関わり、地域全体が利益を享受できるシステムを構築していたことが挙げられる。
捕鯨が育んだ文化
この地域には、多くの鯨にまつわる祭りや伝統芸能が今も受け継がれている。飛鳥神社の「お弓祭り」や塩竈(しおがま)神社の「せみ祭り」では、的に取り付けられた「せみ」(セミクジラを模した木や藁で作られたもの)という縁起物を用い、豊漁や航海の安全を祈願している。「河内祭(こうちまつり)」のハイライトは、豪華に飾り立てた鯨舟の渡御であり、かつて捕鯨がこの地域の生活を担う誇るべき産業であったことを物語っている。
また、鯨踊は、かつて大漁を祝う鯨唄の調べとともに、勢子舟(せこぶね)に渡した板の上に座したまま、あるいは浜で舞っていたものだが、この踊りにおける一糸乱れぬ動きは、鯨との死闘を見るようである。新宮市や太地町では、多くの小学生が、学習の一環としてこの踊りを習い、次の担い手となって継承しており、今では神事の際や祭りで披露し、郷土芸能として浸透している。
平素の生活においても、今も続く捕鯨により得られた肉は、郷土の味として定着している。
熊野灘沿岸の各地には、古式捕鯨時代の山見台跡や狼煙(のろし)跡、総指揮を行う支度部屋(したくべや)跡などが残り、当時の勇壮な漁の様子を想像できる。
また、太地漁港周辺に残る集落全体を取り囲む石垣の一部や、集落の入り口にあたる場所にあった“和田の岩門(せきもん)”などは、かつて地域が一つの共同体として捕鯨に取り組んでいた面影を今に残しており、江戸時代以降、この地域の産業と文化の根幹であった古式捕鯨の名残を今も伝えている。
また、鯨踊は、かつて大漁を祝う鯨唄の調べとともに、勢子舟(せこぶね)に渡した板の上に座したまま、あるいは浜で舞っていたものだが、この踊りにおける一糸乱れぬ動きは、鯨との死闘を見るようである。新宮市や太地町では、多くの小学生が、学習の一環としてこの踊りを習い、次の担い手となって継承しており、今では神事の際や祭りで披露し、郷土芸能として浸透している。
平素の生活においても、今も続く捕鯨により得られた肉は、郷土の味として定着している。
熊野灘沿岸の各地には、古式捕鯨時代の山見台跡や狼煙(のろし)跡、総指揮を行う支度部屋(したくべや)跡などが残り、当時の勇壮な漁の様子を想像できる。
また、太地漁港周辺に残る集落全体を取り囲む石垣の一部や、集落の入り口にあたる場所にあった“和田の岩門(せきもん)”などは、かつて地域が一つの共同体として捕鯨に取り組んでいた面影を今に残しており、江戸時代以降、この地域の産業と文化の根幹であった古式捕鯨の名残を今も伝えている。
左上:塩竈神社のせみ祭り/右上:三輪崎の鯨踊/左下:河内祭りの御船行事/右下:燈明崎 山見台跡
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