サムライゆかりのシルク日本近代化の原風景に出会うまち鶴岡へSTORY #040
ストーリーSTORY
山形県鶴岡市を中心とする庄内地域は、
旧庄内藩士が刀を鍬に替えて開拓した、
松ヶ岡開墾場の日本最大の蚕室群をきっかけに
国内最北限の絹産地として発達し、
今も養蚕から絹織物まで一貫工程が残る国内唯一の地です。
鶴岡市では、松ヶ岡以外にも六十里越古道沿いの田麦俣集落に、
四層構造で暮らし・養蚕などが一つの建物にまとまった多層民家が現存しています。
さらに、国内ではここだけの精練工程が明治時代創業の工場で行われるなど、
絹産業の歴史、文化が保存継承とともに、
新たな絹の文化価値の創出にも取組んでいます。
鶴岡を訪れると、
先人たちの努力の結晶である我が国近代化の原風景を
街並み全体を通じて体感することができます。
旧庄内藩士が刀を鍬に替えて開拓した、
松ヶ岡開墾場の日本最大の蚕室群をきっかけに
国内最北限の絹産地として発達し、
今も養蚕から絹織物まで一貫工程が残る国内唯一の地です。
鶴岡市では、松ヶ岡以外にも六十里越古道沿いの田麦俣集落に、
四層構造で暮らし・養蚕などが一つの建物にまとまった多層民家が現存しています。
さらに、国内ではここだけの精練工程が明治時代創業の工場で行われるなど、
絹産業の歴史、文化が保存継承とともに、
新たな絹の文化価値の創出にも取組んでいます。
鶴岡を訪れると、
先人たちの努力の結晶である我が国近代化の原風景を
街並み全体を通じて体感することができます。
日本の近代化を産業面から牽引した絹産業。旧庄内藩士が刀を鍬に持ち替えたことが、鶴岡市を中心とする庄内地域が国内最北限の絹産地となったきっかけでした。この地域は、国内の絹産業が時代とともに衰退する中で、百数十年を経た今もなお、養蚕から絹織物の製品化まで一貫した工程が残る国内唯一の地です。
“生きた業”の産業観光地 ~松ヶ岡開墾場~
明治維新の後、旧庄内藩士約3,000人(推定稼働延人員約50万人)が刀を鍬に替え、荒野を開拓し、日本最大の養蚕群を建設した松ヶ岡開墾場。ここは、庄内地域のみならず、日本全体の近代化にも貢献した“ジャパンシルク源流の地”です。松ヶ岡の開墾は、鶴岡市を中心に庄内地域で絹産業隆盛の大きな契機となり、産業面だけでなく、文化面にも大きな影響を与えました。
明治時代初期に全国的で行われた士族授産の開墾地の多くが、普通の農山村集落となっていった中で、松ヶ岡開墾場は開墾当時の形態を継続し、今日までその施設、開墾地、経営方針を維持している稀有な例であり、日本の開拓史上きわめて貴重とされています。
松ヶ岡開墾場綱領にある「徳義を本として産業を興して国家に報じ、以て天下に模範たらんとす」の教えが守り続けられ、養蚕から製糸・製織・精練・捺染(なっせん)までの絹製品生産の一貫した工程を無形の文化遺産、すなわち“生きた業”として現在に継承する、国内で唯一の地域となっています。
松ヶ岡開墾場綱領にある「徳義を本として産業を興して国家に報じ、以て天下に模範たらんとす」の教えが守り続けられ、養蚕から製糸・製織・精練・捺染(なっせん)までの絹製品生産の一貫した工程を無形の文化遺産、すなわち“生きた業”として現在に継承する、国内で唯一の地域となっています。
多層民家の里 ~田麦俣~
鶴岡市田麦俣地区は、庄内地域と村山地域を結ぶ六十里越古道沿いの集落で、四層構造の多層民家の里として知られ、松ヶ岡の開墾により大きな影響を受けた地域の一つです。
明治時代の中頃、現金収入の源として養蚕が盛んになり、民家の二階以上が養蚕の場所として使用されるようになっていきました。しかし同地区は、山間部の傾斜地に位置し、住宅に適した土地が狭いうえに冬季は豪雪地帯として知られ、建物の新築や増築が困難であったため、毎日の暮らしと作業・養蚕のための部屋が一つの建物の中にまとめられて多層の形になったと言われています。
明治時代の中頃、現金収入の源として養蚕が盛んになり、民家の二階以上が養蚕の場所として使用されるようになっていきました。しかし同地区は、山間部の傾斜地に位置し、住宅に適した土地が狭いうえに冬季は豪雪地帯として知られ、建物の新築や増築が困難であったため、毎日の暮らしと作業・養蚕のための部屋が一つの建物の中にまとめられて多層の形になったと言われています。
一層目は家族の居住用、二層目は住み込みの使用人たちの居住用と作業場、三層目が養蚕、そして四層目が物置として使用されました。その際、養蚕の作業効率を高めるため、屋根裏の改造が行われました。四方の屋根から採光と煙出しができるように「高はっぽう」と呼ばれる高窓が設けられましたが、これを屋根の側面から見た姿が「武者のかぶった兜」の姿に似ていることから、「兜造り」と呼ばれるようになり、建物は輪郭と緩やかな反り具合が美しい、風格のある意匠に変わっていきました。
近代化の原風景 ~商業・産業の近代化遺産群~
鶴岡の絹織物産業に対して、ベンチャー・キャピタルとして投資したのが、鶴岡城下で旧庄内藩の御用商人として発展し、後に鶴岡一の豪商となって産業の振興に力を注いだ風間家でした。風間家七代当主・幸右衛門は、武家屋敷跡に住居と営業の拠点として「丙申堂」を明治29年(1896年)丙申の年に建設しました。この丙申堂は、約200年前の武家門や、約4万個の石が置かれた「石置屋根」が特徴で、主屋を中心に4つの蔵や広大な板の間と大黒柱など、豪商の往時の繁栄ぶりをよく残しています。
市内にある致道博物館では、田麦俣地区にあった多層民家の一棟が移築展示され、煙出しなど現地での行事が行われており、同じ敷地内に移設された旧西田川郡役所では、建設された明治時代、桑園整備への資金貸付、養蚕指導などが重要な業務となっていました。
また、鶴岡市内に立地し絹織物の精練等を担う羽前絹練では、明治時代創業の工場と昭和15年建築の事務所が当時のままに活用されており、往時を偲ぶことができます。
このように、鶴岡市では、近代化の礎となった絹産業の歴史と文化を保存継承し、近代化の原風景が貴重な歴史遺産として残されているとともに、現在は、絹の新たな文化価値や創造性溢れる産業を創出するため、市民、地域、行政が連携して「鶴岡シルクタウン・プロジェクト」に取組んでおり、鶴岡で生まれた絹糸の新たな活用としてkibisoが、改めてジャパンシルクを世界に発信しています。
市内にある致道博物館では、田麦俣地区にあった多層民家の一棟が移築展示され、煙出しなど現地での行事が行われており、同じ敷地内に移設された旧西田川郡役所では、建設された明治時代、桑園整備への資金貸付、養蚕指導などが重要な業務となっていました。
また、鶴岡市内に立地し絹織物の精練等を担う羽前絹練では、明治時代創業の工場と昭和15年建築の事務所が当時のままに活用されており、往時を偲ぶことができます。
このように、鶴岡市では、近代化の礎となった絹産業の歴史と文化を保存継承し、近代化の原風景が貴重な歴史遺産として残されているとともに、現在は、絹の新たな文化価値や創造性溢れる産業を創出するため、市民、地域、行政が連携して「鶴岡シルクタウン・プロジェクト」に取組んでおり、鶴岡で生まれた絹糸の新たな活用としてkibisoが、改めてジャパンシルクを世界に発信しています。