日が沈む聖地出雲~神が創り出した地の夕日を巡る~STORY #048
ストーリーSTORY
島根半島西端の海岸線は、出雲神話の舞台となった
「稲佐の浜」と「日御碕(ひのみさき)」の名で親しまれ、
そこから見る夕日は絶景です。
しかしこの海岸線に、夕日にちなんだお社である
「天日隅宮(あめのひすみのみや)」(出雲大社)と
「日沉宮(ひしずみのみや)」(日御碕神社)が
祀られていることはあまり知られていません。
古来、大和の北西にある出雲は、
日が沈む聖地として認識されていました。
とりわけ、出雲の人々は夕日を神聖視して、
畏敬の念を抱いていたと考えられます。
海に沈むこの地の美しい夕日は、
日が沈む聖地出雲の祈りの歴史を語り継いでいます。
「稲佐の浜」と「日御碕(ひのみさき)」の名で親しまれ、
そこから見る夕日は絶景です。
しかしこの海岸線に、夕日にちなんだお社である
「天日隅宮(あめのひすみのみや)」(出雲大社)と
「日沉宮(ひしずみのみや)」(日御碕神社)が
祀られていることはあまり知られていません。
古来、大和の北西にある出雲は、
日が沈む聖地として認識されていました。
とりわけ、出雲の人々は夕日を神聖視して、
畏敬の念を抱いていたと考えられます。
海に沈むこの地の美しい夕日は、
日が沈む聖地出雲の祈りの歴史を語り継いでいます。
神が創り出した海岸線
『出雲国風土記』の「国引き神話」では、出雲平野の北にそびえる山塊と西を縁取る砂浜は、巨大な神ヤツカミズオミヅヌが、海の彼方から引き寄せた「国(土地)」と使った「綱」とされています。また、砂浜と山塊の境に位置する浜は、オオクニヌシが高天原の使者タケミカヅチと会見して、国を譲り渡すことを承諾した『古事記』の「国譲り神話」の舞台として知られています。西方の海に弓なりに開くこの海岸線は、滑らかな砂浜から岩肌がむき出しの荒磯へとダイナミックに変化し、まさに神業によると例えられるにふさわしい景観です。
奈良時代に「伊那佐之小浜」や「出雲御埼山」と記されたこの海岸線は、今ではそれぞれ「稲佐の浜」や「日御碕」の名で親しまれており、いずれも日本海に沈む夕日の絶景エリアとして人々に愛されています。
しかし、出雲の人々がいにしえからこの地で日の入りにちなんだお社である「天日隅宮」と「日沉宮」を祀り、夕日に畏敬の念を抱いていたことはあまり知られていません。
奈良時代に「伊那佐之小浜」や「出雲御埼山」と記されたこの海岸線は、今ではそれぞれ「稲佐の浜」や「日御碕」の名で親しまれており、いずれも日本海に沈む夕日の絶景エリアとして人々に愛されています。
しかし、出雲の人々がいにしえからこの地で日の入りにちなんだお社である「天日隅宮」と「日沉宮」を祀り、夕日に畏敬の念を抱いていたことはあまり知られていません。
稲佐の浜の夕日と「天日隅宮」
夕暮れ時の稲佐の浜に立つと、紅に染まる空が渚にたたずむ弁天島のシルエットを際立たせる幻想的な光景が広がります。また、弁天島より南では見渡す限りの夕焼け空と、海に溶け込む茜色の光が織りなす大パノラマを体感できます。
稲佐の浜(薗の長浜)は南北約10kmにわたる砂浜で、かつては西へ開いた出雲の海の玄関口として多くの船や人を迎えました。「国譲り神話」の舞台となったのは稲佐の浜の北端で、この弁天島がある辺りと言い伝えられています。ここでオオクニヌシは自身の霊が住むための宮を築くことを条件に国譲りを承諾しました。この宮が浜から東へ1kmほど離れた出雲大社であり、『日本書紀』では「天日隅宮」と記されています。その名称から、この地がかつて日が沈む聖地として認識されていたことがうかがえます。
今でも旧暦10月10日には日没を待って、出雲大社の神職が全国から参集される八百万の神々をお迎えする「神迎神事」がこの稲佐の浜で執り行われています。太古から変わらない日の入りへの思いは、今日まで連綿と受け継がれています。
稲佐の浜(薗の長浜)は南北約10kmにわたる砂浜で、かつては西へ開いた出雲の海の玄関口として多くの船や人を迎えました。「国譲り神話」の舞台となったのは稲佐の浜の北端で、この弁天島がある辺りと言い伝えられています。ここでオオクニヌシは自身の霊が住むための宮を築くことを条件に国譲りを承諾しました。この宮が浜から東へ1kmほど離れた出雲大社であり、『日本書紀』では「天日隅宮」と記されています。その名称から、この地がかつて日が沈む聖地として認識されていたことがうかがえます。
今でも旧暦10月10日には日没を待って、出雲大社の神職が全国から参集される八百万の神々をお迎えする「神迎神事」がこの稲佐の浜で執り行われています。太古から変わらない日の入りへの思いは、今日まで連綿と受け継がれています。
日御碕の夕日と「日沉宮」
日御碕の海岸線は、奇岩や絶壁が複雑に入り組む荒々しい景観を呈しており、稲佐の浜とはまた異なった魅力のある夕日や景色を見ることができます。平安時代初期、画聖の巨勢金岡は、この海岸線にある島の一つを絵にしようとしましたが、朝夕刻々と変化する美しさをついに描ききれず絵筆を投げたそうです。「筆投島」の名称の由来として伝わるこのエピソードは、そのことを端的に示しています。
日御碕の名が示すとおり、古くから「日」に縁がある岬として広く知られていたこの地には、明治時代に出雲日御碕灯台が建設され、白亜の灯台が立つ今日の美しい風景が整いました。日御碕を訪れると、灯台越しに海に沈む夕日が、次々に打ち寄せる波頭や海に浮かぶ岩礁を赤く染める、絵画のような景色を観賞することができます。
日御碕の西側にはたくさんの経巻が固まってできたという伝承が残る経島があります。春先から夏にかけては、島の上を飛び交うウミネコのシルエットが夕日の美しさに変化を加えます。また、毎年8月7日には、日御碕神社の神職によって夕日を背景にした「神幸神事」が執り行われます。
日御碕神社にはスサノオを祀る神の宮とアマテラスを祭神とする日沉宮があります。日の出の太陽に象徴されるアマテラスは、ここ出雲では日の入りの夕日に象徴され、江戸時代には、日沉宮は日が沈む聖地の宮と称されるようになります。
さらに、南東の高台に鎮座する月読社にはツクヨミが祀られています。アマテラスと対をなす神とされ、スサノオを含めて三貴子に称されるツクヨミもまた、この地の夕日を見守っています。
日御碕の名が示すとおり、古くから「日」に縁がある岬として広く知られていたこの地には、明治時代に出雲日御碕灯台が建設され、白亜の灯台が立つ今日の美しい風景が整いました。日御碕を訪れると、灯台越しに海に沈む夕日が、次々に打ち寄せる波頭や海に浮かぶ岩礁を赤く染める、絵画のような景色を観賞することができます。
日御碕の西側にはたくさんの経巻が固まってできたという伝承が残る経島があります。春先から夏にかけては、島の上を飛び交うウミネコのシルエットが夕日の美しさに変化を加えます。また、毎年8月7日には、日御碕神社の神職によって夕日を背景にした「神幸神事」が執り行われます。
日御碕神社にはスサノオを祀る神の宮とアマテラスを祭神とする日沉宮があります。日の出の太陽に象徴されるアマテラスは、ここ出雲では日の入りの夕日に象徴され、江戸時代には、日沉宮は日が沈む聖地の宮と称されるようになります。
さらに、南東の高台に鎮座する月読社にはツクヨミが祀られています。アマテラスと対をなす神とされ、スサノオを含めて三貴子に称されるツクヨミもまた、この地の夕日を見守っています。
日が沈む聖地出雲
古来、政権の中心であった大和から見ると、太陽は北西の出雲に沈みます。このことから出雲は「日が沈む海の彼方の異界につながる地」として認識されたと考えられます。中央で編まれた『古事記』や『日本書紀』で、出雲が「黄泉国」と「地上世界」をつなぐ地として描かれているのは、古代の人々が出雲を「日が沈む地」とイメージしていたことに端を発するのかもしれません。
今日も出雲では夕暮れ時の挨拶として「ばんじまして」という方言が使われています。他の地域ではあまり耳にしない「こんにちは」と「こんばんは」の間を結ぶ挨拶で、夕刻に格別な思いを抱く出雲の人々の心情が垣間見えます。
穏やかな表情や荒々しい姿を見せる海岸線。それを舞台に圧倒的な存在感を示す夕日。両者が織りなす美しい夕景は神により創り出されたとこの地に生きた人々は感じてきたことでしょう。
出雲の海岸線に立って海に沈む美しい夕日に祈り、出雲神話にちなんだ神社や登場地を巡ると、日が沈む聖地出雲の祈りの歴史を体感することができます。
今日も出雲では夕暮れ時の挨拶として「ばんじまして」という方言が使われています。他の地域ではあまり耳にしない「こんにちは」と「こんばんは」の間を結ぶ挨拶で、夕刻に格別な思いを抱く出雲の人々の心情が垣間見えます。
穏やかな表情や荒々しい姿を見せる海岸線。それを舞台に圧倒的な存在感を示す夕日。両者が織りなす美しい夕景は神により創り出されたとこの地に生きた人々は感じてきたことでしょう。
出雲の海岸線に立って海に沈む美しい夕日に祈り、出雲神話にちなんだ神社や登場地を巡ると、日が沈む聖地出雲の祈りの歴史を体感することができます。
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